フェイズ110−2「インドネシア戦争(4)」
戦術的には、共産主義陣営の完全な敗北で終わった「ルバラン攻勢」だったが、戦略面、特に政治面では全く違う様相を呈した。
それまでアメリカ政府は、戦争には勝利しつつあり、間もなく終わるだろと自国民に言っていた。
だが、現地に入ったメディアが伝えたルバラン攻勢の映像は、衝撃以上の光景だった。
何しろアメリカ大使館が、一時的とはいえ敵に占拠されてしまったのだ。
しかも政府の言う勝利のため、50万人以上投入された兵力のうち既に1万5000人ものアメリカ兵の戦死者が出ていた。
1967年内までで250億ドルのインドネシア連邦政府への支援が行われ、さらにアメリカ政府が消費した戦費が膨大な金額で加わる。
他にも、日本や満州など兵力を派遣している国々へも、派兵の見返りとしてかなりの支援や援助を行っている。
にも関わらず、戦争は勝利するどころか混沌としているに過ぎない事、場合によっては不利にすら見える状況である事がメディアによって暴露されてしまった。
しかも双方の現地軍や政府で「野蛮」な行いが行われる事もあり、ルバラン攻勢の時期にそうした映像も世界中に流れた。
それを見た人々は、アメリカがそんな野蛮な事をする国や地域を守るために戦わねばならないのか、と大きく疑問を持つようになる。
そしてルバラン攻勢以後、アメリカの世論は今までとは比較にならないほど反戦へと大きく傾く事になる。
しかもアメリカでは、黒人を中心とする人種差別政策の是正を求めた公民権運動と半ば合わさってしまい、アメリカの内部を大きく揺るがす事になる。
(※派兵される米軍兵士を人口比率から見ると、異常に多い黒人兵の姿があった。)
かくしてアメリカにとってのインドネシア戦争は、ルバラン攻勢によって大きな転換点を迎えることになった。
一方アメリカ以外の派兵国だが、アメリカほど混乱は見られなかった。
同じ白人国のオーストラリアは、西ニューギニア以外に派兵していないので、早く地盤固めをするべきだという意見にこそなるも、反戦とは少し違っていた。
むしろ、インドネシアが今以上にバラバラになる好機と考え、民衆も政府を後押しするようになる。
オーストラリアでは、海面が大きく低下してオーストラリアとニューギニアが一つの陸地だった氷河期時代の「サフル大陸」という言葉が出てくるようになったりもした。
そして残るは、日本、満州、インド、ベトナムが主な派兵国になるが、どの国も基本的に反共産主義で意見が一致していた。
そして日本ですらアメリカ市民が「野蛮」とした行動を、極端に否定する事は無かった。
戦争が勝利からはほど遠い事は理解されるようになったが、アメリカとは違って「アジアの同胞」の問題は自分たちの問題という考えも強かった。
また日本、満州は、シーレーンの問題もあるため、イデオロギーだけで戦っているわけでもなかった。
スマトラの戦いは、勝たねばならない戦いだったのだ。
しかし、アメリカ発祥の影響が皆無ともいかなかった。
各国での反戦運動は、共産主義の工作員、シンパによって拡大された。
日本、満州などは共産主義運動として厳しく弾圧したが、この事はソ連など共産主義陣営ばかりか、アメリカ、西欧諸国の反戦運動家、リベラリストなどからも強い非難を浴びた。
だが日本の場合は、1959年に共産主義が暴力的な反政府運動をした事があるため、日本国民は反共姿勢を崩さない佐藤栄作政権を強く支持した。
それよりも深刻だったのは、現地でのアメリカ軍兵士を中心とする士気の衰えと風紀の乱れだった。
特に「麻薬禍」と後に呼ばれたマリファナ、ヘロイン、LSDなど薬物による兵士の現実逃避は、アメリカ軍以外にも急速に広まった。
士気の低下も他国に波及し、アメリカ軍同様に風紀の乱れも広まった。
こうした事態に対して、日本軍などでは様々な対策が立てられた。
カウンセリングのために、精神科医だけでなく多くの僧侶が動員されたりもした。
また、派兵期間の短縮も実施されたが、こちらはアメリカ軍ほど徴兵忌避、派兵拒絶が少なかった事もあり、兵員数を減らすことなく兵士の供給を続けることが出来た。
それでも現地に派兵された兵士の士気低下は看過できないため、様々な手段が講じられた。
その中でも意外に効果があったのが、食事の改善だった。
当時の作戦中、特に移動中の兵士の食事は、戦闘糧食と呼ばれたものが支給されていた。
しかし保存優先だったりしてあまり美味しくないため、兵士からの評判は悪かった。
このためまずは、味の改善が精力的に取り組まれた。
これには民間企業も多数動員され、缶詰の中に入れる食事の改善が大きく進み、さらには宇宙食と同じ密封方法が導入されている。
そうしたレトルト食品の代表として、カレーライス(のルー)が兵士の間では非常に好評となった。
一時はタバコや酒よりも価値の高い交換物として、兵士達の間でやりとりされたほどだ。
また、様々なレトルト食品が、商品としてではなく兵士の食事として数多く出現する事になる。
そしてカレーと双璧をなしたのが、インスタントラーメンだった。
インスタントラーメンは日本で1958年に発売されたが、発売当初は値段がやや高いためあまり売れなかった。
それでも、お湯をかければ3分で温かい食事が簡単にできるというので徐々に広まっていった。
そして広まるにつれて価格も多少は下がった。
しかし当初は軍用食ではないため、スマトラでのデビューは兵士が私的に持ち込んだり日本から送ってもらったものとなる。
ただし調理には鍋などが必要なため、完全な携帯食とはいかなかった。
そのままでも食べられるが、それでは食事としての魅力は半減どころではなかった。
それでも確実な広まりを見せ、日本陸軍も企業と正式契約を結んで糧食の中に組み込むようになった。
また満州軍では、第二次世界大戦から「温かい野戦食」に強いこだわりを見せており、インスタントラーメンが発売されると、すぐにも専売契約を結んだ。
そして当然とばかりに、インドネシアに派兵される兵士達の糧食に組み込んだ。
しかも製造企業からライセンスを取得したり、支援金を渡して商品の改良すらさせている。
そして気が付けば、スマトラにいる多くの兵士がインスタントラーメンを食べるようになっていた。
日本兵、満州兵の手で、様々なものと交換される形でひろまったのだ。
アメリカ兵も、酒やタバコと交換してでも日満兵から手に入れていた。
いつしか一般市民ですら食べるようになり、スマトラ島でのインスタントラーメンは間違いなく日本兵、満州兵たちがもたらしたものだった。
そして1971年に登場したのが、カップ式のインスタントラーメンだった。
インスタントラーメンをコップに入れて食べるのを見た創業者が考え出したという逸話があるように、断熱性発泡スチロールのカップに1食分の乾麺、調味料、乾燥具材のすべてが入っており、お湯さえあればその場で食べられる完全な携帯食だった。
だが、当時の日本では高すぎて、一般の販売はまるで振るわなかった。
しかし、既に同じ会社のインスタントラーメンに目を付けていた日本陸軍は、士気の低下を少しでも緩和するべく継続的な大量購入の契約を交わす。
満州軍も、発売前から目を付けて契約を交わしていた。
そして兵士達、特にジャングルを歩き回る歩兵達に、どこでも食べられると美味しい食事だと絶賛された。
熱帯ジャングルで熱いお湯を入れたラーメンなど食べたくないと言う人もいるかもしれないが、それ以上に温かくてそれなりに美味しい食事は魅力的だった。
そして汗をかきながらカップラーメンをすするテレビ映像が日本国内に流れると、カップラーメンの知名度は一気に高まり、その後の爆発的な販売という副産物までもたらしている。
また、士気の維持という面で、主に日本軍では「風呂」を用いることで大きな効果を上げた。
日本人は熱い湯船に入るタイプの風呂を好むが、本国から遠く離れた遠隔地でも実現してしまった。
この発端は第二次世界大戦に遡り、「野戦風呂」は前線の兵士達の創意工夫によって色々な場所で作られた。
この話は尾ひれを付けて、イタリア軍が水が貴重な砂漠でパスタを茹でた話しと同列に語られることになったりもした。
そして戦後になると、支那戦争でも同じ光景が再現された。
水が豊富にある場所には、必ず簡易ボイラーと湯船があった。
そして欧州駐留軍の士気の維持のため、休暇の際にはイタリアなどにある温泉が利用されるようになった。
しかし、出来れば毎日風呂に入りたいというのが、一般的な日本人の心情だった。
このため現地駐屯地には、風呂が建設されるようになる。
建設されたのは日本本土にある銭湯とほぼ同じ様式だったが、中には現地に敬意を示すという理由からローマ風の風呂まであった。
インドネシア戦争でも、風呂については派兵前から色々と議論が行われ、最終的には「二六式野戦風呂」という装備が誕生して、スマトラ島各地の日本軍駐屯地に「スマトラの湯」などとして常設されるようになる。
この野戦風呂は、日本人移民の多い満州軍にも導入され、さらには各国の派遣軍も利用するようになり、パレンパンなど兵士の多い地区に作られた野戦風呂は兵士達の社交場として賑わった。
そうして各国軍が兵士の士気の低下に悩んでいる間に、アメリカ軍によるジャワ爆撃の停止、アメリカ軍の段階的な撤兵が発表された。
しかもそのすぐ後に、オランダのハーグで最初の予備交渉まで開始してしまう。
しかも1968年秋の大統領選挙は、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。
しかしその勝利は、民主党候補のジョン・F・ケネディが選挙運動中に暗殺されたおかげであり、当選ですら1%の僅差での勝利で、就任前からケチのついた当選だった。
しかもケネディがインドネシアからの即時撤退を掲げていた事からも、アメリカ国内で国を牛耳る人々と市民の考えが大きくかけ離れていることを、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
一方で共産主義陣営側は、NLFが組織ごと壊滅した状態のため、戦力の建て直しをはかった。
今までは境界線DMZ近辺の戦闘にしか加入していなかったインドネシア人民共和国軍が、本格的に戦闘に加入するようになったのだ。
ついでに言えば、インドネシア連邦共和国軍は、士気の高い者と極端に低い者に分かれていた。
高いのはスマトラ島北部のアチェ族出身で、アチェ民族の自主独立よりもスマトラ島全体を背負う勢いがあった。
それと意外に、ボルネオ島、スラウェジ島など他の島から来ていた兵士の士気も高かった。
これはスマトラ島が共産主義に染まれば、インドネシアの他の地域も同様の運命を辿ると考えられたからだ。
特に、一時NLFに制圧された都市でスパイの名目で大量虐殺が行われた事が知れ渡ると、現地兵の士気は大きく上った。
同じ事は他の東南アジア諸国にもあり、フィリピン軍などの士気も比較的高く維持されていた。
しかし、既にアメリカのニクソン政権では、インドネシアからの撤退と決まっていた。
そしてニクソン政権がインドネシア撤退に必要と考えたのが、アメリカ対インドネシアもしくは自由主義陣営対共産主義陣営の対立構造を、「アメリカにとって」インドネシア国内の問題にすり替えてしまう事だった。
一見難しいが、インドネシア人民政府がアメリカとの間に一定の妥協を結ぶことに同意すれば、もしくはアメリカが同意させれば、アメリカはインドネシアから撤退する事が可能となる。
だが、アメリカの目論見を完全に成立させるには、アメリカ以外の国々の軍隊も撤退させなくてはいけない。
しかしニクソン政権というよりアメリカ合衆国は内政を重視して、自らが呼び寄せたに等しい他国を差し置いて、自らだけ撤退をほとんど勝手に決めてしまう。
このためアメリカと人民共和国の交渉は進んだが、アメリカと日本など他の国との関係は悪化した。
そしてその溝を深めるべく、ソ連が人民共和国への直接支援を減らす。
これは、西側諸国の嫌がらせとしてジャワ島に置いていたソ連軍艦艇の引き揚げなどで、軍事支援自体を減らしたわけではない。
目に見える形で和平促進を肯定したと見られやすい行動で、実際アメリカのマスコミはソ連の行動を評価した。
そしてアメリカに梯子を外された形の日本などの国々だが、今更引き下がる気は無かった。
引き下がれば共産主義が広まるのは確実だし、日本としてはマラッカ海峡は様々な点で安定して維持される事が好ましかった。
対岸のマレー半島が維持されればマラッカ海峡の安全は確保されるという意見もあって、アメリカなどはその論を採っていた。
だが、スマトラ島が赤く染まった場合、モーターボート1隻が不穏な行動を取っただけで海峡の使用を止めなければならない可能性も十分にあった。
このためインドネシア人民共和国の打倒はともかく、スマトラ島への共産主義の浸透は断固として阻止しなければならなかった。
そしてアメリカの方針変更とアメリカ軍撤退決定以後は、スマトラ島での戦いは日本軍を中心として動くようになっていく。
もっとも、当のインドネシア人民共和国政府は、アメリカが撤退と和平、交渉による外交的解決を望んでいる事を、かなりの期間フェイクだと考えていた。
1969年夏のアメリカによるインドネシアからの撤退宣言も、見せかけに過ぎないと考えていた。
その証拠としては、アメリカが交渉を有利にするためスマトラ島南部各地で攻勢と爆撃を強化した事が挙げられる。
アメリカとしては相手が一度欧米的外交を受け入れた為(※1959年のインドネシア分立時)、今回も交渉が成功して和平が成立すると考えていた。
だが前回は、インドネシア人民共和国政府にとっては苦渋の決断に過ぎなかった。
また前回は、ソ連からの外交指示があったからでもあった。
しかし今回はソ連はあくまで支援の形であり、独自に判断を下すことができた。
そしてアメリカの今までの行動から、安易な妥協はあり得ないと考えていた。
しかも世界の世論、特にアメリカの世論はアメリカの撤退を支持しており、自分たちに追い風が吹いているとなれば安易な和平案を受け入れる理由は無かった。
それでもアメリカが撤退するというのなら止める理由はなく、交渉を進める材料としてアメリカ軍のスマトラ撤退を進めさせた。
そうした時、さらに一つの大きな変化が世界を揺るがす事になる。





