フェイズ110−1「インドネシア戦争(4)」
「ルバラン」もしくは「イドゥル・フィトリ」は、イスラム教の重要な宗教行事である「ラマダン(断食月)」が明けた次の日に行われる祭日に当たる。
しかしイスラム歴(ヒジュラ紀元)は西暦と違っており、ラマダンも毎年西暦上では違う日時に当たる。
1968年新年前後のラマダンは、1967年12月3日〜1968年1月1日もしくは1967年11月22日〜12月21日に当たる。
インドネシア人民政府とNLFが選んだのは前者、1月1日に終わるラマダン明けの1月2日のルバランだった。
なお(インドネシアの)イスラム教では、ルバランに備えて人々は故郷に帰省し、家族でルバランを祝うのが一般的だ。
日本で言えば、お盆や正月に少し近いかも知れない。
そして重要な宗教行事なので、ラマダンからルバランまで戦闘が自然休止するか、小康状態になるのが通例となっていた。
特にルバランとその前後は、戦争休日とすら言われていた。
インドネシアに来ていた各国軍も、現地住民の事を考慮して可能な限り戦闘は控えた。
そしてこの年は、派遣軍のクリスマス、新年と日時が近いこともあり、いっそう平穏に迎えられるのではと言われていた。
しかしその日に、インドネシア人民共和国軍(=人民軍)とNLFは、全面的な作戦の実施を決める。
何故そうなったのか。
それは、自らが軍事面で不利に追い込まれつつあったからだ。
その反面、スマトラ島南部及び中部を中心にして、一般民衆のインドネシア連邦政府及びアメリカ軍などへの反感が非常に高まっていると判断された事が作戦を後押ししていた。
つまりこの時の作戦は、自らが積極的に動くことで住民の一斉蜂起を促すことにあった。
そして蜂起を受けて、首都パレンパンを包囲。
さらにスマトラ島南端部の人民政府領内に集結している人民軍精鋭部隊を進撃させ、戦争を一気に転換する事までが目指されていた。
この頃、楽観論が強かったジャカルタの人民軍参謀本部でも、全てがうまくいくという楽観論は流石に少なかった。
だが、一斉蜂起を呼び起こすという政治的効果については、彼らが共産党だったためその「魔力」に魅了されていた。
共産主義的、社会主義的一斉蜂起こそが革命に最も必要とされるし、ある種の「通過儀礼」とも考えられたのだ。
ただし、何故住民に不満が溜まり一斉蜂起が可能と考えたかについては、疑問点も多い。
一番の通説は、NLFや現地人民軍が自らの不利を誤魔化す手段として、心理面での優位を積極的にジャワの政府や軍に伝えたからではないかと考えられている。
そして不利な戦況を前にして、いつしか嘘の楽観論が全軍に蔓延したというわけだ。
なお、一斉蜂起を促す総攻撃については、NLFの全戦力、組織を暴露することでの、アメリカ軍を中心とする西側連合軍の組織的な報復攻撃が容易になるという反論もあった。
しかし大勢は一斉攻撃であり、最も効果的な日時が「D-day」に定められた。
作戦は大きく二段階に分けられ、まずはDMZ付近にあるアメリカ軍のメンガラ基地(首都パレンパンへと伸びる街道上の要衝)に対して、人民軍が大規模な陽動作戦を実施。
主にアメリカ軍の予備兵力を引き寄せる。
そして第二段階として、比較的手薄になったスマトラ島各地でNLFが一斉攻撃を実施するという形になる。
作戦は多分に政治的要素が強いながらも、人民共和国の参謀本部は作戦成功を確信していた。
そして既に軍事的に追いつめられていたNLFには、ジャワ島の共産党と人民軍参謀本部に対して反論を言うこともできず、また起死回生の成果が必要なほど追いつめられているのも事実であり、賭けに乗るしか無かった。
メンガラからDMZまでは約20キロ。
東側標準の152mm榴弾砲だと、ロケット砲弾なら届く距離だった。
また、DMZ南側の人民共和国領内のメトロの街から、アメリカ軍のメンガラ基地までは約50キロメートル。
人民共和国の策源地となる、港湾都市のパンダルランブルまでさらに20キロメートル。
逆方向にメンガラ基地から180キロメートル北に進むと、連邦共和国の首都にして石油の一大産地であるパレンパンがあった。
既にDMZは軍事的には半ば機能しておらず、メンガラは米軍が何としても押さえなければならない要衝だった。
メンガラの町は平野にあるが、近くに大きく蛇行する川が流れているので、基地はその蛇行した川を一種の堀として活用していた。
また町自体も当時は小さく、さらに国家分裂以後は寂れてしまい、さらに戦争状態になると激戦地の一つとなったため、住民の疎開が行われて無人に近くなっていた(※兵隊向けの商店だけがあった)。
つまり、気兼ねなく大規模な戦闘が行える場所だった。
そしてメンガラ基地に対して、人民軍は周辺に展開する精鋭3個師団に対して総攻撃を命令する。
152mm榴弾砲、122mm榴弾砲、130mm重曲射砲、82mm重迫撃砲、さらにロケットランチャーなど持ち込める限りの火力が投入され、戦争始まって以来の砲撃戦が展開された。
これに対して現地米軍は、基地及び周辺部に展開する全ての火力で応戦。
米軍らしく人民軍以上に撃ち返した。
しかし人民軍の砲弾が、メンガラ基地の地下弾薬庫を直撃。
1500トンも備蓄されていた弾薬が一斉に誘爆を起こし、弾薬庫及びその周辺を破壊。
現地米軍は大混乱に陥る。
この爆発と人民軍の積極的な攻撃を前に、基地の外郭陣地の一つが陥落。
メンガラ基地から全軍に対して緊急救援が要請される。
だがメンガラ基地は、浸透していた人民軍によって各地と寸断されており、半ば孤立した状態に置かれていた。
この状況を打破するべく、米軍は大量のB-52を動員した絨毯爆撃「ナイアガラ作戦」を実施。
救援に駆けつけた日本軍も轟山爆撃隊を投入し、NLFから「怪鳥の糞」と恐れられた得意の低空爆撃で付近の人民軍をB-52より効率よく吹き飛ばした。
その他の戦術型の航空機も、投入できる限りが救援に駆けつけた。
そうして人民軍の活動を低下させると同時に、各地から続々と予備兵力を投入して状況を好転させていった。
ラマダン中の大規模な攻勢にアメリカ軍などは一旦警戒を強めたが、ルバランが終わって以後のNLFの活動をやりやすくするための限定攻勢ではないかと判断した。
いかに人民軍が総力を投入しても、流石にメンガラ基地を陥落させるのは軍事的に極めて難しいという事は、人民軍も今までの戦いで深く理解している筈だからだ。
しかしアメリカ軍は、敵の意図を完全に読み間違えていた。
自分たちは、囮に戦力を吸い寄せられてしまっていたのだ。
かくして1968年1月2日を迎える。
1968年のルバランは、ほとんどの場所では静かに迎える可能性が高いとアメリカ軍などは見ていた。
メンガラでの攻防戦こそ激しいが、1967年12月は他の地域は前年、前々年よりも静かだった。
メンガラ周辺以外では、クリスマスもいつもより平和だった。
新年も平穏なまま迎えることができた。
しかも、一時は戦術核の投入すら真剣に検討されたメンガラでの攻防戦は、人民軍の敗北と退却で終わろうとしており、クリスマス頃には既に戦闘は下火になっていた。
しかし現地の一部日本軍、ベトナム軍から、NFLの全面攻勢の警告が入る。
特に日本軍の司令部からは、強い警告が発せられた。
日本軍などアジア系国家の部隊は、アメリカ軍よりも現地住民との関係が良好な場合が多く、現地日本軍も良好な関係構築に力を割いていた。
そのために犠牲が出た事もあったが、現地日本軍はかなり辛抱強く現地との関係を保つ努力を怠らなかった。
その成果として、NFLが活動拠点としていた村落の住民の一部が、巡回にやって来た日本軍にNFLの攻勢の話しを持ち込んだのだ。
もちろんだがNFL、人民共和国軍から見れば裏切りになるが、連邦政府軍から見れば正しい行いであり、住民から見ても二つの視点があることにこの戦争の難しさがあった。
そして現地日本軍司令部は、下から上がってきた情報を重視。
今まで何度か報告を無視や軽視したことで、痛い経験を積んでいたが故だった。
だから、自分たちの警戒態勢を上げると共に、アメリカ軍はもちろんだが他の友軍の司令部にも緊急用件として将校達が赴く形で情報を伝えた。
しかし多くの意見は、ルバランに戦闘は起きないというものだった。
警告を受け入れて警戒態勢を高めた国の軍隊もあったが、特にアメリカ軍は相手にしなかった。
このため日本軍は、半ば独自に正月返上で行動を開始する。
と言っても、大規模な行動をしては敵の暴発や早期攻勢開始を招くだけなので、基地や重要拠点の警戒体制を引き上げたり、小規模に一部の部隊を攻撃することでアメリカ軍の注意を喚起しようと考えた。
だが、それでもNFLが行動を早める可能性もあるため、日本軍は兵士の休暇を全て取り消して警戒配置につかせた。
将兵達は、特別配給の餅を片手に任務に就いた。
同様の行動は、日本軍の情報を正しいと判断したベトナム軍も行い、満州軍でもある程度警戒態勢の上昇が行われた。
イスラム系兵士の多いインド軍は、活動を最低限として基地に籠もりきりだった。
結果として、日本軍の小規模な攻撃を受けたNFL及び日本軍が気付いたと考えたその周辺の部隊が動き始める。
しかし動いたのは、1月1日の午後に入ってから。
攻勢予定より約1日早く、しかも当初一部だったものが五月雨式に拡大して、全体の3分の1程度が結果として動いてしまい、総攻撃の意味がかなり減殺される結果となった。
そして動きだした敵に対して、アメリカ軍もある程度警戒態勢を上昇させる事とした。
ただしアメリカ軍のこの時点での見解は、日本軍が余計なことをしたのでNLFが動きだしたというものだった。
だが、攻勢全体の3分の1とはいえ、攻勢が今まではあまり対象としていなかった都市への攻撃という点で大きく違っており、しかも今までと比べても非常に大規模で広範囲に渡っていた。
そして翌日の1月2日、NLF、人民共和国軍の計画通りに作戦が発動。
全ての作戦参加部隊が、スマトラ島各地の都市を一斉攻撃した。
一斉攻撃は、一部ではボルネオ島、スラウェジ島、ニューギニア島西部でも行われ、インドネシア地域全域が大混乱に陥った。
しかし、情報が事前に漏れて初動で1日の作戦のズレが生じた事で、アメリカ軍など連邦政府軍側の西側陣営の軍隊も警戒態勢を取っていたため、不意打ち状態の場所でしか軍事拠点への作戦は成功しなかった。
だが、NLF、人民共和国軍の攻撃目標は、今までとは大きく違って都市部だった。
攻撃して一時的に占領もしくは混乱状態に持ち込むことで、都市住民の一斉蜂起を促すのが目的だからだ。
このため大小100都市以上に攻撃が行われ、実に8万人もの兵士とゲリラ兵が動員された。
人民共和国軍はメンガラ以外ではほぼ支援のみだったが、NLFにとっては乾坤一擲の大作戦だった。
攻撃はインドネシア連邦共和国政府の重要施設を中心にして行われ、連邦共和国軍総司令部、統合参謀本部、大統領官邸、各地の軍司令部、パレンパン国際空港(現スルタン・ムハンマド・バタルディン2世国際空港)及び隣接する空軍基地、国営放送、米軍の後方兵站拠点各所など重要施設ばかり35箇所が襲撃された。
中でも象徴的だったのが、パレンパンにあるアメリカ大使館の占拠だった。
6階建ての建造物を中心に、半ば要塞のような建造物で周囲を威圧していたが、そこを僅か19名の奇襲攻撃で占領してしまったのだ。
数時間後には駆けつけた第101空挺師団の兵士達によって奪回されたが、このアメリカ大使館占拠がその後大きな政治的意味を持つことになる。
一方、日本大使館も同様に襲撃を受けたのだが、こちらは大使館の構造と事前に緊急配置に就いていた特殊部隊兵を含む警備兵の奮闘により守られた。
日本大使館が守られたのは、守備兵の奮闘もさることながら施設の構造のお陰だった。
アメリカ大使館ほど広くないし強固にも守れないので、大使館の敷地のやや内側に壁を作り、その外側に幅約2メートルの深い堀を掘った。
出入り口は二カ所で、そこは常設の橋(ただの鉄板を置いただけ)でつながれていたが、そこ以外に奇襲部隊が内部に突入する場所がなかった。
橋の外側には対車両障害と重コンクリート製の歩哨詰め所も置かれていた。
このため同様に襲撃を受けるも、裏口から突入してきたトラックも想定内で、NLFの特別攻撃隊は任務を全うすることなく撃退された。
なおインドネシア連邦政府の日本大使館は、一見古い砦のような防御構造とアジア的な一部建造物、何より日本の大使館ということで「NINJA House」と俗称されていた。
しかし日本大使館はどちらかと言えば例外で、メンガラ基地など当時人民共和国国境周辺にアメリカ軍と連邦政府軍の予備兵力が集まっていた為、NLFは防備の手薄になった各地の地方都市を一時的に制圧する事に成功した。
いっぽうで首都は激戦が行われたが、元からの駐留兵力が多いため、混乱させる事しかできなかったが、それはそれでNLFの想定内だった。
だが、完全に想定外だったのが、スマトラの民衆達だった。
結果から言えば、最大の作戦目的だった「民衆の蜂起」は全く起きなかった。
各地の民族対立も一部では利用しようとしたのだが、これも空振りに終わった。
何よりスマトラの民衆、特に都市住民は、共産主義思想に何ら魅力を感じていなかった。
加えて、共産主義を広めているのが他民族と言える「ジャワ島の連中」だったので尚更だった。
そして同じ島の「となりの連中」より、「ジャワ島の連中」の方が彼らにとっては純粋な脅威対象だった。
一部のプランテーションでも蜂起を促したが、浸透しようとしたら密告される事がほとんどで、自警団を編成してNLFに抵抗する場所まである状態だった。
NLFや共産主義者は、自分たちの平穏を乱す敵でしかないのだ。
農村部は支持する側と反発する側が半々程度だったが、協力したのはNLFが基盤とする村落だけだった。
そして米軍などが奇襲攻撃のショックから立ち直ると、戦力面で弱体なNLFは都市という隠れる事が難しい場所で、個々に孤立した状態に置かれたも同然だった。
各地でNLFは壊滅的打撃を受け、せっかく制圧した都市の支配権も次々に失い、特に北部のアチェ地方での支配権喪失は早かった。
また、支援した人民共和国軍も無傷では済まなかった。
NLF支援のため国境近辺での攻勢を強化し、包囲したメンガラにも増援部隊を送り込んだ。
だが、アメリカ軍の予備兵力が集中した場所であるだけに、半ば正面からの戦闘では人民共和国軍に勝ち目は無く、膨大な損害と犠牲を積み上げるだけに終わった。
かくしてスマトラの民衆を味方に付けることに失敗したNLFは、総兵力8万のうち、実に60%を失って壊滅状態に陥ってしまう。
人民共和国軍も2万近い兵力を失って、他から兵力を転用してスマトラ島北端に兵力を増強しなければならなかった。
このため他の島から兵力を引き揚げねばならず、何もかもが軍事的には失敗してしまう。
しかもスマトラ南端へのその補給をアメリカ軍、日本軍に見透かされ、海峡を越えるところで激しい妨害を受けて損害を上積みした。
この輸送阻止では、空軍部隊、空母機動部隊による空襲だけでは戦力が不足するため、海軍の他の戦力も動員された。
艦砲射撃任務で来援していた筈の日米の水上打撃艦隊も、第二次世界大戦以来と言われる洋上艦船への攻撃を実施し、主に砲撃戦能力を残していた艦艇が活躍した。
もっとも世界最強の砲弾が粉砕したのが、小さな漁船を改造した密輸船のような輸送船だったのは、あまり誇れる戦果とは言えないだろう。
また史上初めて、水上艦から誘導魚雷による攻撃も行われてもいる。
第二次世界大戦では、対潜水艦用しか誘導魚雷は実戦投入されていなかったからだ。
この戦果を挙げたのは、第二次世界大戦中に建造された既に旧式化著しい《夕雲型》駆逐艦の1隻で、同艦はブリテン島北方海上でドイツ艦隊と相まみえた経験も有する歴戦の武勲艦でもあった。
そして、まだ残されていた魚雷発射管に装填されていた魚雷だけが1950年代に実用化された高速誘導魚雷で、旧式故に砲撃任務と哨戒任務でインドネシアに出動していたため珍しい戦果を挙げることができたのだ。
そしてさらに、インドネシア戦争ではジャワ島などの封鎖、監視任務ぐらいしか任務の無かった潜水艦も動員され、輸送船などに対して魚雷攻撃を実施している。
ここでは日本海軍の当時最新鋭だった攻撃型原子力潜水艦「八雲」が、史上初めて原子力潜水艦としての戦闘艦艇(※人民海軍に供与されたソ連の旧式駆逐艦)の撃沈戦果を記録している。





