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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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20/70

フェイズ109「インドネシア戦争(3)」

 そして空とは違い、陸の主力兵器である戦車について、日本は当時世界最強級の戦車を保有していた。

 

 1961年に正式化された「二一式戦車」だ。

 

(※通称「ジム(地武)」として親しまれたが、1948年で戦車開発では「いろは」のナンバリングはしなくなっている。この名称は、あくまで将兵が勝手に付けたもの。漢字も当て字にすぎない。特に愛称も決められていなかった。)


 日本陸軍の戦車閥タンク・マフィアは、第二次世界大戦でのドイツ戦車への恐怖心から、「重戦車教」の敬虔な信徒たちだった。

 それは陸軍大国ソロシアが仮想敵となった第二次世界大戦後も変わらず、「三式重戦車」「三式改重戦車」「六式重戦車」「六式改重戦車」と重戦車ばかりを保有し続けた。

 そして、1950年代半ばに登場した105mm砲装備の「六式改二型戦車」が主力戦車として心許なくなる前に、後継者の開発に精力的に取り組んだ。

 開発には満州帝国も参加しており、満州でも細部を変更した型を採用している。

 

 そして15年ぶりに誕生した新型戦車こそが、「イエロー・タイガー」とも言われた「二一式戦車」になる。

 

 主力戦車(MBT)の第二世代型に当たり、同世代最高重量の全備重量60トンを越える巨体に載る大型砲塔に120mmライフル砲を装備し、自ら放つ砲弾を弾き返すだけの正面装甲を備えていた。

 800馬力のディーゼルエンジンでは、ややパワー不足で鈍足が玉に瑕だった。

 だが、戦車を陣地突破兵器もしくは防衛兵器、さらには移動トーチカと考えている日本陸軍にとっては、それほど気になる点ではなかった。

 その代わりと言うべきか、不整地での機動性の確保には気を遣っており、ソ連製の戦車並かそれ以上の広い履帯を持ち、足回りも十分な頑健さを確保し、不整地はもちろん湿地でも十分な機動性を持っていた。

 つまり、道路を走ることを最初から二の次としていたと言えるだろう。

 また履帯が広いため、鉄道輸送では日本国内の一部を通る際にキャタピラを外さなければいけない場合があった。

 

 これらの特性は、世界各地でソ連の戦車群と戦う想定条件を満たすため与えられたものだったが、特に不整地行動能力の高さはインドネシアの熱帯湿原でも大いに効果を発揮する事になる。

 多少の軟弱地盤だと平然と動き回る姿は、特に初見の敵には奇襲に近い効果を発揮した。

 

 62年から大量生産が開始されるも、インドネシア派兵当時は全軍に行き渡っていなかったが、派兵部隊には優先して装備更新が実施され、多くの部隊が熱帯ジャングルや湿原には場違いと言われた重戦車を頼れる相棒として従軍していった。

 

 またインドネシア派遣型として、簡易ロケット弾対策で金網のシールドを付け、歩兵掃討の機関銃を増設したタイプが少し後に投入されている。

 防盾付きの機銃座が複数置かれたタイプもあった。

 試作型では、旧ドイツ軍のように対人地雷発射装置を付けたタイプもあった。

 


 一方で、主に陸軍が使用する兵器としてインドネシア戦争で注目を集めたヘリコプターだが、当時の日本陸軍には装備数も専門部隊も不足していた。

 

 この頃の日本では、軍用、民間用合わせて三菱、中島、川崎、川西がそれぞれヘリコプターを開発していた。

 しかしどの機体も、兵員を運ぶ機体としては今ひとつの性能しかなかった。

 中島が陸軍向けに大型の双発ヘリの開発には成功していたが、比較的高価なため危険度の高い場所には投入できなかった。

 その上川西は、海軍向けしか開発していなかった。

 

 このため日本政府は、ベトナムへの本格派兵が決まるとアメリカとの間に結んだ武器輸入協定を利用して、大量の「UH-1 ヒューイ」を緊急輸入する。

 この頃UH-1は、アメリカ国内でもそれほど多数の機体があったわけではないが、同盟関係を重視したアメリカの政治判断もあって短期間に200機以上が日本に輸出された。

 

 なお、「UH-1 ヒューイ」はベル社が開発した傑作ヘリで、21世紀の現代でもいまだに現役で使用されている。

 主に西側陣営の国々に輸出され、軍用ヘリの代名詞とも言える機体だ。

 

 また、空中機動部隊のノウハウも不足するため、同時期には共同訓練という形でアメリカに将兵を派遣したりするなどして、多くを学んでもいる。

 

 しかし日本とアメリカとでは、ヘリの運用に若干の違いがあった。

 日本軍でのヘリ運用は、偵察、連絡、救難が主力で、兵士の輸送、いわゆる「戦場タクシー」としての使用はあまり一般的ではなかった。

 このためアメリカからノウハウを得る必要性があったのだが、ノウハウを得てもアメリカと全く同じにはならなかった。

 

 と言うのも、日本軍の伝統として、歩兵は歩かせるものという考えが根強かった。

 戦場を歩かない歩兵に意味はなく、ヘリコプターで戦場に運ばれるだけならともかく、その場の戦いが終わればヘリコプターで帰る戦いは、歩兵の戦いの本質を失っているとすら考えていた。

 「歩のない将棋は〜」という言葉が、アメリカ軍を揶揄する言葉として語られたほどだ。

 また歩兵重視の傾向から、当初から歩兵の防弾装備に気を遣っていたのも、当時の他の国の陸軍とは少し違っていた。

 

 このためと言うべきか、アメリカが1960年代前半から導入し始めた、輸送ヘリに対地用の武装を施した「ガンシップ」には歩兵支援兵器として肯定的だったが、兵員全てをヘリで運ぶという点には否定的であり続けた。

 

 そしてベトナムに赴く頃には、武装を前提としたヘリコプター、いわゆる「戦闘ヘリ」と言われる機体を開発している。

 

 「川崎 二四式偵察回転翼機」が正式名称で、細長い機体と翼状に張り出した武装用ラックを備えていた。

 今日の戦闘ヘリで見られる砲塔型銃座ターレットは持っていなかったが、各部装甲も歩兵装備の銃弾対策が施されており、当時としてはかなり画期的だった。

 もっとも、機体中央には解放可能なハッチと小さめのキャビンがあり、戦闘ヘリとしては中途半端だった(※パイロット1名、兵員6名または担架2台程度を搭載可能)。

 また、重武装が施せる反面、偵察ヘリとしては少し大柄で、陸軍では威力偵察型などと呼んだりもしていた。

 後年にソ連が開発する戦闘ヘリ(Mi-24 ハインドなど)が参考にしたとも言われるが、ソ連のヘリよりは小柄だし形状としてはアメリカの同種のヘリに近いので、そう言う意味でも中途半端と言われることがある。

 

 愛称は「忍者(Ninja)」で、アメリカ軍の「AH-1」戦闘ヘリよりも2年近く早く実戦投入された事から、当時はアメリカ軍から羨望の眼差しで見られたという。

 しかもアメリカは、日本と話しを付けて日本で大量生産が進んでいたうち50機以上を緊急輸入までしている。

 また「忍者」は、同時期に満州帝国にも大量発注を受けており、生産ラインが追いつかない状態だった。

 

 そしてさらに1968年には、さらに機体を洗練させた改良型(※ターレット(砲塔)搭載型)が登場し、スマトラの空を飛ぶ事になる。

 


 なお、日本陸軍でのヘリ運用部隊の編成には一悶着合った。

 

 日本には第一空挺師団があったので、最初は同師団所属の1個旅団をヘリ装備の空中機動部隊に改変しようとした。

 陸軍としては、空挺師団の柔軟性の確保と同時に、ある程度輸送機を他の軍から間借りしなくても済む状態を作ろうとしたのだ。

 だが他の軍から水面下で横やりが入り、兵部省も空挺師団の改変に難色を示した。

 とはいえ予算も不足するため、一時は空挺団の一部改変で話しが進んだ。

 

 だが、ベトナムへの本格派兵が決まると軍事費が大幅に増額され、中でも陸軍予算が大幅に増やされることになったので、空挺師団以外の空中機動部隊の設立が可能となる。

 陸軍も予算増額を受けて強気になり、既存師団から候補となる部隊を抽出しようとした。

 だが今度は、各地の既存師団(※国内配備の機甲師団以外の師団)が反発した。

 主に地元(特に在郷軍人会)に根ざす事が出来なくなると考えたからだ。

 

 このため日本陸軍は、第一空挺師団同様に全国からの選抜兵で一から部隊編成を進めることとして、「第十一空中機動旅団」の編成を行う。

 旅団編成とされたのは、アメリカのように師団編成を行えるほど兵力と予算がない為で、部隊名が「第十一空中機動旅団」なのは既に第十までヘリ部隊(中隊規模)があったためで、「空中機動」というのはアメリカ軍の名称を一部取り入れたからだ。

 

 第十一空中機動旅団は、編成内に連隊を持たず、大隊を基本戦闘単位としていた。

 歩兵4個大隊、砲兵2個大隊を基幹として、自前のヘリ部隊も3個大隊編成で、約250機の各種ヘリから編成されていた。

 


 第一空挺師団、第十一空中機動旅団以外だと、陸軍が4個師団、海軍が特殊戦部隊でもある海軍陸戦隊の長距離偵察隊を大幅に増員した上で旅団編成の派兵を予定していた。

 師団数で言うとそれほど多くはないのだが、各部隊には支援部隊を含めてアメリカ軍に準じるほどの兵士が派兵されるため、非常に兵員数も多かった。

 これは日本軍の独自性を保つために行われたもので、二つの軍団司令部の上に日本軍独自のインドネシア派遣軍総司令部が、パレンパンに設置されている。

 

 なお、当時日本陸軍は、空挺師団を含めて17個師団を有していた。

 このうち3個師団はイタリア北部に駐留しており、国内の3個師団は北東アジア方面の有事に備えた即応部隊のため、動かすことが出来なかった。

 また、イタリア駐留の交代部隊(※司令部を含めて兵員のみ入れ替わる)として3個師団を国内にキープしておく必要もあった。

 また、日本国内の守備(有事の治安維持含む)や、緊急災害時の為に最低限の部隊を日本各地に置いておくべきだった。

 

 そうした中で4個師団以上の派兵は、平時状態の日本陸軍にはかなりの重荷だった。

 余剰兵力として動かせる師団は最大で6つ。

 このうち1つが機甲師団で、兵員が充足しているのも機甲師団だけだった。

 また他の3個師団は、首都圏(東日本)防衛の第一師団、近畿(西日本)防衛の第四師団、台湾防衛の第六師団だが、最低限の国内防衛を考えると動かせなかった。

 また残る機甲師団も、戦後に正式に機甲師団への改変が行われた第七機甲師団(旧第七師団)であり、本当の意味での最後の戦略予備部隊だった。

 当然だが、安易に動かすことは出来なかった。

 

 このため日本政府は、徴兵制の一時的な強化を決定。

 同時にイタリア駐留軍の長期交代延期も決め、インドネシア派兵部隊を抽出する事に決定する。

 徴兵制の強化は支那戦争以来で、日本国内にもインドネシア戦争が本当の戦争だと言うことを実感させた。

 

 そうして4個師団が選ばれたが、それでも日本陸軍が必要と考えた部隊数には足りないため、各部隊の抽出部隊を基幹兵力として新たに旅団単位で3つの部隊を編成して数合わせした。

 

 こうして編成されたのが、「インドネシア援助軍」になる。

 


・インドネシア援助軍(司令部)


 ・直轄予備

第十一空中機動旅団

第二特殊戦群(旧第二機動連隊・通称レンジャー)

第113旅団


 ・第1野戦軍(軍団)

第二機甲師団

第八師団

第111旅団


 ・第2野戦軍(軍団)

第一空挺師団

第五師団

第112旅団


 ・海軍陸戦隊

第一海軍特別陸戦隊(旅団編成)

第一海軍長距離偵察隊


 以上が日本軍が派遣した、インドネシアへの陸上兵力の大まかな編成になる。

 そして陸軍役15万、空軍約4万、海軍6千の合計、約20万人が派遣されるが、この中に陸戦隊以外の海軍は含まれていない。

 

 というのも、日本海軍はインドネシアに常駐はしていない事になっていた。

 陸戦隊以外だと若干の舟艇部隊を派遣していたが、これも兵士の半数以上が陸戦隊所属だった。

 艦艇乗り組の水兵のほとんどは、日本本土からインドネシア近海を往復するか、もしくは日本軍の拠点があったシンガポールに立ち寄ってインドネシア近海に来るだけだったからだ。

 

 だからと言って、兵力の出し惜しみをしていたわけではない。

 


 インドネシア戦争で日本軍参戦の狼煙を上げたのは、日本海軍の空母機動部隊だった。

 

 主戦場となるスマトラ島南部とジャワ島の近海には、インド洋側には「ヤンキーステーション」と「ディキシーステーション」というアメリカ海軍の空母機動部隊の常駐海域が設定されていたように、内海のジャワ海には「サムライステーション」という日本海軍の空母機動部隊の常駐海域が設定されていた。

 

 当時の日本の空母勢力は、大型の攻撃空母5隻、中型の対潜空母3隻から構成されていた。

 どの艦も第二次世界大戦に関係する艦艇で、当時最新鋭の《蒼龍》《飛龍》も建造開始は第二次世界大戦中だった。

 しかも《飛龍》就役以後10年以上も、新造空母を迎え入れられないでいた。

 主に日本政府が出せる軍事費では、簡単に大型空母を建造できるだけの予算を捻出できないからだった。

 また海軍も、大型空母よりは新たな主力艦艇として認識されていた原子力潜水艦の開発と整備に大きな努力を傾けており、なおさら空母の新造は遠のいていた。

 

 そしてこの心理的背景には、空母は第二次世界大戦でこそ大活躍するも、戦後は活躍の場が無かった事が挙げられる。

 同じ事は戦艦にも言えるが、戦艦はまだ政治的価値が認められていたし、実際に「キューバ危機」で戦艦はソ連を押さえ付ける抑止力として大きな効果を発揮していた。

 

 また空母は、艦載機が新型ならば空母自体は必要十分な要素を満たせてさえいれば、多少旧式艦でも問題はないと考えられてもいた。

 

 しかし、インドネシアへの大規模派兵が現実味を帯びてくると、いかにも兵力不足が懸念された。

 同時に、日進月歩で続々と登場する新型機に対して、空母の旧式化が問題視されつつあった。

 どの空母も、1960年代後半には近代改装してから10年が経過する計算になってしまう。

 時代に対応して大規模な近代改装を施すにしても、母艦規模が小さかったり、経年劣化による船体の疲労度合いによっては、改装してもあまり長期間使えない母艦もあった。

 

 古いのはともかく、数が足りないのは問題だった。

 

 当時日本海軍は、地中海に空母機動部隊を1個常駐させなければならなかった。

 同時に、アジアでの不測の事態に備えて別の空母機動部隊を展開する必要性があった。

 そしてそのためには大型空母を充てなければならず、残る3隻のうち1隻が本土で待機、1隻が母艦航空隊の訓練と整備中、1隻が長期改装(+休暇)などで戦列を離れるので、日本海軍がインドネシアに出せる大型空母は2隻が限界だった。

 中型の対潜空母は、常時1隻が北太平洋でソ連海軍を監視していて、別の1隻が本土に待機しているので、一時的なら2隻を動員することが可能だった。

 

 最初の一撃で4隻の空母が戦闘参加したが、これは当時の日本海軍の限界動員数でもあったのだ。

 

 そして今度は、常時最低1隻の空母を「サムライ・ステーション」に常駐させなければならない。

 アメリカ海軍比べて本土と戦場までの距離が短いので、展開のローテーションは2ヶ月と短かった。

 アメリカ海軍の場合は7ヶ月〜1年なのは本国からの移動距離が長いのと、その他諸々のコスト面の結果だった。

 だから日本海軍の方が、アメリカ海軍に比べて艦、乗組員共に負担は小さく済んだ。

 それでも1隻を常駐させるとなると、日本海軍にはもう余裕が無かった。

 

 このため1966年度計画で、戦後初めての1隻の空母新造が承認された。

 この空母は《鳳翔》と命名され1972年に就役するが、最大の特徴は日本海軍で2隻目となる原子力機関搭載の水上艦であり、日本海軍初の原子力空母という事だった(※最初の水上艦は原子力巡洋艦《夕張》)。

 同時期には、アメリカで都合10隻も建造される《ニミッツ級》原子力空母の1番艦が建造されているが、性能面では遜色のない能力を備えていた。

 

 満載排水量9万3000トン、全長335mの巨体に、約100機の艦載機を搭載できた。

 また搭載されていた原子力機関については、第二次世界大戦中から原子力機関の開発を続けていた事が活かされており、《エンタープライズ》の半分の4基の原子炉で28万馬力の出力が確保されていた。

 

 しかし《鳳翔》の登場は1972年であり、実戦投入は1973年に入ってからだった。

 

 一方で、陸軍の方からは、空母1隻の常駐では敵の活動が活発だった際は、地上支援の攻撃力が不足すると懸念がもたらされ、できれば緊急時には2隻の空母展開を求められる。

 このため海軍は、緊急時には対潜空母1隻を攻撃機を満載して送り込むことを決めるが、それでも攻撃力は不足すると考えられた。

 

 そこで水上打撃部隊の派遣が決められる。

 


 1960年代序盤だと、日本海軍は4隻の戦艦を現役艦艇として維持し、主にソ連を牽制するため地中海に1隻常駐させていた。

 《大和型》の《大和》《武蔵》、《信濃型》の《信濃》《甲斐》の事で、《信濃型》2隻は大幅な増強を行ったソ連海軍に対抗するため、第二次世界大戦後に就役している。

 

 だが、1隻を遠方に常駐させるためには、空母同様に長期ローテーションとして4隻の保有が必要だった。

 4隻のうち1隻は緊急時には出動可能なので、こちらも空母同様の措置を取った。

 またスマトラの海域に常駐させるのではなく、基本的には戦闘が激しい期間だけの派遣で、完全な常駐ではなかった。

 

 そして大口径砲の支援は陸軍にとって魅力的であり、巡洋艦クラスでもいいので完全な常駐を求められた。

 

 とは言え、この頃の日本海軍には、砲撃戦を主体とした旧式の戦闘艦は軽巡洋艦しかなかった。

 しかも第二次世界大戦を戦った艦艇は多くが姿を消して、残っているのは艦の後部をヘリコプター甲板と格納庫に近代改装した大型の軽巡洋艦ぐらいだった。

 アメリカ海軍が予備役から引っ張り出した重巡洋艦 《デ・モイン》のような8インチ砲搭載艦は、全て姿を消していた。

 

(※アメリカは、日本に遅れる形で《モンタナ級》戦艦か《アイオワ級》戦艦を常時1隻展開できる体制を構築している。)

 仕方ないので、砲兵装を維持している巡洋艦を常駐できるように配備に就かせたが、搭載砲が6インチではやはり威力不足で戦艦の常駐が言われ続ける事になる。

 

 満州帝国海軍は、日本から払い下げを受けた《妙高》を象徴的な旗艦用に保有しており、これを若干近代改装したうえで一時期インドネシアに派兵していた。

 同様に日本の《足柄》を譲り受けていたインド連邦も、自らの派兵の最盛時に派遣している。

 

 タイ王国に譲渡された《羽黒》も、長期整備のためシンガポールに来ることがあり、このためシンガポール近辺のリンガ泊地には旧日本海軍の重巡洋艦が並んで停泊するという、当時としては珍しい光景を見ることも出来た。

 (※同じ姉妹艦の《那智》は、イランに譲渡されている。)

 なお、小スンダ列島東部やスラウェジ島に人民軍が浸透してこないように、アメリカ海軍と共同で常に小規模な艦隊を配備してもいた。

 


 インドネシア、正確にはスマトラ島に派兵された日本軍だが、その初期においてある意味で戦争を決定したと言われる作戦を実施する。

 

 作戦自体は急造のもので、その時スマトラに進出している日本軍は僅かしかいなかった。

 当時は米陸軍の姿も比較的少なく、スマトラ南部の頼りにならない連邦政府陸軍を頼らねばならない状態だった。

 このためNLFは、連邦政府軍部隊への攻勢を強める一方で、連邦政府の最重要の資金源への本格的攻撃を画策する。

 

 インドネシア連邦共和国の首都でもありインドネシアでの石油の一大産地であるパレンパン、その中でも最も重要とされていた精油所への本格的な攻撃だ。

 

 それまで人民共和国側も、自分たちが手に入れる事を前提として、NLFにも攻撃を手控えさせていた。

 だが、アメリカ軍が大軍を送り込むとなると、自分たちが早期に占領して使える可能性は大きく低下する。

 このため作戦を転換して、石油施設に対して完全ではなく部分的な破壊を画策する。

 要するに、連邦政府側が数年間使えないようにしようという意図だ。

 

 これに対して、アメリカ軍、連邦軍も現地を守る兵力が不足していた。

 首都でもあるため兵力、警察力は多めに配備されてはいたが、守るべき場所も多すぎたのだ。

 

 しかもNLFは、犠牲を覚悟で各所で攻勢を強化して、各地のアメリカ軍、連邦軍を拘束してパレンパン方面に行かせないようにした。

 

 このためNLFの兵力移動を察知した時点で援軍要請が出されたが、すぐに駆けつけられる兵力となると限られていた。

 アメリカ第一騎兵師団の一部が緊急出動を開始したが、主力は距離が離れた場所に展開していたため、当時のヘリでは補給をしないと駆けつけられなかった。

 しかも各所でNLFとの戦いに忙殺されており、出せても1個連隊程度でしか無かった。

 

 そしてこの時、もう一つ出動可能だった西側部隊が、日本陸軍の第一空挺団だった。

 


 インドネシア戦争は、ヘリコプターが活躍した戦争だった。

 だが日本軍は、この戦争で唯一の大規模空挺作戦を実施した。

 それが「パレンバン降下作戦」になる。

 

 1965年頃の日本陸軍の空挺部隊は、第一空挺師団という形で師団編成を取っていた。

 そして麾下の第一空挺団、第二空挺団、第三空挺団は、基幹の空挺歩兵連隊を中心とした旅団編成で日本各所に分散配備されている。

 このうち第一空挺団が、日本陸軍の先遣隊として派兵の途上にあり、ちょうどシンガポールで現地への進出準備中だった。

 

 そして緊急の支援要請を受けると、急ぎ戦闘状態での降下作戦に切り替えた。

 急だったため降下用の輸送機が足りなかったが、アメリカ軍が出せる限りの「C-130輸送機」などをシンガポールに送り込み、さらに少数ながらアメリカ軍の空挺部隊も合流した上で、半ば日米合同での空挺作戦が決行される運びとなった。

 

 作戦目的は、精油所の防衛の為の緊急兵力展開。

 並びにその後の敵戦力の撃退。

 支援のため、空軍部隊も他部隊への支援を減らしてまでして、動員できるだけ動員される事になり、作戦決定から僅か72時間で作戦は開始される。

 支援を含めると、日米を中心に約1000機もの機体が動員された一大作戦だった。

 

 そして1個旅団規模の空挺作戦は、緊急性が高いため危険を冒して白昼に実施された。

 

 その日の上空はスコール雲も周辺になく、視界はかなり広かった。

 このため護衛を伴った輸送機の大編隊は遠くからも丸見えだったが、周辺で作戦展開していた3個連隊、4000名以上のNLFの兵士達、通称「トラコン(スマトラ・コマンド)」は、大規模な絨毯爆撃で自分たちを吹き飛ばそうとしていると考え、散開と急造した塹壕や半地下陣地への退避を命じた。

 またNLFは、パレンパンを急襲するため移動に手間のかかる重装備が少ないため、有力な対空兵器も持ち合わせていなかった。

 

 このため白昼の空挺作戦、数千の落下傘はほとんど妨害を受けることなく、また風にも味方されてパレンパンの製油所近辺の目標地点に無事降り立つことができた。

 

 その後、意図を察知したNLFとの間に激しい戦闘が起きるが、歩兵の精鋭でもある空挺兵の奮闘と潤沢な航空支援などのおかげでパレンパンの精油所は守られた。

 そればかりか、急いで無理な攻勢をとったNLFは、各所での損害も合わせて大打撃を受けてしまい、1966年内は活動の大幅な停滞にまで追い込まれた。

 


 そして本来なら、話はここで終わる筈なのだが、ここからが話の本番だった。

 

 華々しく空から降下してきた日本兵と、インドネシア各地に古くから伝わる民話が、全くの偶然で結びついてしまったのだ。

 

 伝承とは、12世紀にまとめられた「ジョヨボヨ王の予言」と言われるものだ。

 この予言はインドネシア各地で民衆の間に広まり、特にオランダの植民地支配の間に広まっていた。

 その内容は、自分たちは白人支配に苦しめられるが、北の方から白い衣をまとった黄色い人々が来て白い人を追い出す、というものだった。

 しかもその黄色い人々は、短い間しか彼らを支配しないと言う。

 

 そして黄色い人は日本人、白い衣は落下傘と解釈された。

 

 あまりに出来すぎた話しであり、これがもしオランダ支配中に日本軍が攻めてきたら、完全に誤解されてもおかしくないものだった。

 そしてこの時でも、伝承はかなりの部分で合致していた。

 少なくともスマトラ島を中心としてインドネシアの人々はそう考えた。

 

 何故かと言えば、共産主義自体も「白い人」が持ち込んだものであり、しかも彼らの大切な宗教や文化すら否定する存在だからだ。

 さらにアメリカやソ連が深く介入している事も、「黄色い人」への期待を高める結果となった。

 

 加えて言えば、降下したのが連邦共和国の首都である事も、宣伝効果としては高い効果を発揮した。

 精油所は首都の郊外にあるとはいえ、中心部のパレンパンは人口密集地帯であり、しかもその日の天候が良かったため、多くの人が大量に降り立つ日本軍将兵の落下傘を遠目ながら直に見ていた。

 しかも彼らは、「白い人」の教えを持つNLFを撃退したのだから、「予言」はかなりの部分で実現もされていた。

 誰が降りてきたかについては、精油所で働いていたり周辺に住んでいる人々が、他の人々に喜びと共に伝えて回っていた。

 

 「予言の実現」に人々は驚喜し、空から降りてきた「神の兵隊」に喝采を浴びせた。

 

 そしてこの偶然を、日本軍ばかりかアメリカ軍も利用する事とする。

 

 NLFの活動拠点となる村落に対して、まずは「事実」を宣伝し、次に善政を敷いて支援も行い、NLFを根無し草にしてスマトラ島から追い払ってしまう作戦だ。

 

 これ以後、ジャワ島爆撃こそ継続されるも、スマトラ島南部での戦いは大きく変化する。

 


 予期せぬ事態をスマトラ島の西側諸国連合軍は利用して、NLFを根無し草にすると同時に、米陸軍のウエストモーランド将軍が提唱した「索敵撃滅サーチ・アンド・デストロイ」戦術によって撃破していった。

 

 主に米軍の損害も少なくなかったが、一連の戦闘でスマトラ島南部のNLF実戦部隊は二度の指揮官戦死など大打撃を受け、しばらく作戦行動がとれなくなる。

 パレンパン攻撃での損害と合わせて、戦況は一気に西側諸国連合軍の優位に傾いた。

 

 このためアメリカ政府は事態を楽観し、現地を見て悲観論に近い考えを持ったマクナマラ国防長官を解任してしまう。

 

 日本では岸信介総理の任期が1968年春に終わるため、1967年暮れ頃からは選挙色一色であり、岸率いる自由党としてはアメリカの楽観論の方が都合が良かった。

 それに日本も、インドネシアでの戦争には楽観論の方が強かった。

 特に現地から離れるほど楽観論は強まり、一部の前線部隊やパレンパンやシンガポールが鳴らした警鐘をほとんど聞くことは無かった。

 


 しかし、インドネシア人民政府もNLFも、自らの不利を覆すべく反撃の準備を着々と整えつつあった。

 

 そして1965年1月2日、戦争の大きな転換点が訪れる。

 

 「ルバラン攻勢」だ。

 


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