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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ96−2「冷戦時代の幕開け」

 日本海軍は地中海艦隊を設立して、常時航空戦隊1個を中核とする空母機動部隊などを駐留させる予定だった。

 だが、当時の地中海には、全長300メートル近く、満載排水量5万トンを越える当時の大型空母を、ドック入りさせる軍港施設がなかった。

 あるのは日本とアメリカだけで、イギリスですら無理だった。

 皮肉な事にヨーロッパで日本の大型空母が入れる軍用ドックは、赤いドイツにしかなかった

(※かつてのフリードリッヒ級用のみ。また民間の超大型客船用の整備ドックは軍事機密の面で使えない。)。

 

 このため現地での整備などでのドック入りの際は、アメリカ東海岸にまで赴かねばならず、単に移動の際の効率が悪いだけでなく、最悪防衛体制に空白を作ることになってしまう。

 このためかなりの期間は、艦隊丸ごとが日本本土から入れ替わりで来る体制が敷かれたほどだ。

 

 そして経費面を憂慮した日米は、NATO共同出資の形でフランス南部のツーロン軍港を大改修し、将来を見越して満載10万トン級の超大型戦闘艦でも入渠できるヨーロッパ随一の巨大ドックを3年がかりで建設した(※建設には日本の水野組(五洋建設)も関わる。)。

 他にも、当時のフランス海軍だけでは不要な施設も合わせて作られ、フランス海軍、日本海軍ばかりか、アメリカの大型空母も時折入渠するようになる。

 そしてツーロン軍港は、戦時の破壊を遙かに上回る大改修により、見違えるほどの大軍港として蘇ることになった。

 

 超大型入渠ドックについては、イタリアのタラントやナポリに建設するという案もあったし、イギリスも名乗りを挙げた。

 だが、イタリアは敵に近すぎ、イギリスでは日本にとってアメリカ東海岸に行くのとあまり変わらないので、最終的に南フランスが選ばれた。

 日本軍は、何かと南フランスと縁があるという事なのだろう。

 しかしツーロン近辺、特に東部沿岸の方は西欧の保養地として有名なため、艦隊が立ち寄ると観光気分になって士気が落ちると言われた。

 同じく陸軍も、駐留地から最も近い大都市が観光地として非常に有名なヴェネツィアなため、似たような愚痴が聞かれたと言われる。

 


 なお、南欧駐留に対する日本軍人達の反応だが、他国が首を傾げたほど非常に積極的だった。

 なぜなら、日本海軍はカムチャッカ半島やオホーツク海の奥に逼塞するソ連海軍ぐらいしか直接相対する敵がいなくなり、陸軍は満州で実質的にお役ご免となっていたからだ。

 このため予算獲得と組織維持のためにも、敵と直接向かい合える場所への部隊配備を望み、そしてNATOが一部を出費すると言うことで日本政府も南欧への大軍駐留に首を縦に振ったという経緯がある。

 

 また南欧駐留では、NATOの指揮下に入ると同時に、日本軍内でも一定規模の現地司令部を作る必要性に迫られた。

 また、本国から今までとは比較にならない遠隔地での長期駐留となるため、陸海空軍が密接に協力する必要性も生まれた。

 そこで兵部省が音頭をとる形で、王都ローマに日本軍独自の司令部として「日本軍ヨーロッパ方面総司令部」が設置される。

 ここでは陸海空軍が一人の総司令官(大将相当官)のもと統合的に運用され、戦後日本軍の有るべき姿のまたとないテストケースとなっていく。

 


 ちなみに日本海軍の地中海配備は、意外なところから批判が出た。

 というのも、日本海軍の艦艇は日本本土近海の荒い海で行動することを前提にしているため、北大西洋及び北海の荒い海での運用にも向いていた。

 翻ってアメリカ海軍の艦艇は、広い海域に展開する合理的な汎用性を求めているため、極端な環境での運用には限界があった。

 事実、第二次世界大戦中でも、特に冬の北大西洋北部海域、北海では日本海軍の艦艇が優先的に投入されていた。

 

 当時の映像でも、日本の《高雄型》戦艦が荒波を押しつぶすように安定して進んでいるのに対して、より大型のアメリカの《アイオワ級》戦艦は前甲板を波に大きく洗われ翻弄されるように航行している。

 

 このためイギリス海軍などからは、日本海軍とアメリカ海軍の配置を変える要請が、主に水面下ではあったが再三出されていた。

 合同演習時などで漏れるイギリス海軍のアメリカ海軍への愚痴や皮肉も、一度や二度では無かった。

 

 しかし日本海軍としては、いくら金を積まれても拝まれても、これ以上遠くに駐留する気はなかった。

 地中海での常駐ですら、日本海軍の感覚で言えば限界を遙かに超えているのだ。

 しかも日本海軍が戦力を展開するのは地中海だけでなく、駐留規模こそ小さいがインド洋全域も担当しなければならなかった。

 主にアメリカの担当とされた中東に対しても、気は抜けなかった。

 当然だが、東アジア、日本本土近海を疎かにすることも出来ない。

 

 日本は、歴史に残る派手な戦勝と引き替えに、その後終わり無き苦行のような大規模な軍事力の展開、パワープロジェクションを延々と続けることになる。

 それも冷戦がもたらした、日本にとっての大きな変化だった。

 


 一方ソ連を中心とする共産主義陣営だが、戦後しばらくはヨーロッパ正面でも軍事的に何もできないも同然だった。

 戦争でソ連の国家経済が、破綻寸前にまで追い込まれていたからだ(※資本主義国なら破綻していたとも言われる。)。

 そのため、占領したドイツや東ヨーロッパから価値のあるものを全て奪い取り、ドイツ人を大量に強制労働に駆り出した。

 強制労働の労働力としては、自らが占領した中華大陸内陸部からもドイツ人よりはるかに多い数を連れ去り、そしてソ連の復興とシベリア開発に強制的に長期間従事させた。

 そしてロシア人も白人であるだけに、ドイツ人に対しては敵愾心や復讐心はあっても、一部軍人や反抗的な者以外は「人」として扱った。

 対して中華地域から連れてきた者達については、アジア人の統治に慣れていたロシア人ではあったが、やはり奴隷や農奴のように「物」として考えがちだった。

 必然的に中華系は過酷な扱いを受け、数百万、一説には一千万人以上がシベリアや中央アジアの土になったと言われている。

 中華地域が言い立てる第二次世界大戦の死者数も、俗に言う「シベリア連行」での死者を上乗せしたうえで言われる事が多い。

 

 だが、それだけしても、ソ連の復興はままならなかった。

 それだけ死者、戦死者の数が多く、さらにドイツが攻めるときより退くときに手当たり次第に破壊していったからだった。

 

 そして国内の復興も道半ばでも、新たに世界を二分する一方の盟主として自らが定めた敵に対抗しなければならなかった。

 

 幸いドイツ占領という目標はほぼ達成できたし、戦後もベルリンから新たな敵を追い出す事にも成功した。

 ドイツ西部を占領した事で、念願の不凍港を手に入れることもできた。

 ドイツからは、終戦時に自沈した艦艇すら浮上させて持ち帰ったほどで、自沈しそこねた巡洋戦艦 《グナイゼナウ》、空母 《グラーフ・ツェペリン》など、連合軍の言葉も聞かず全て持ち帰った。

 戦利品として連合軍がドイツから得た艦艇は、最大でも駆逐艦までだった。

 そして旧ドイツ軍艦艇は、名前と一部装備を変更した上で、そのまま戦後のソ連海軍の主力艦艇となった。

 しかし連合軍が得た艦艇のうち、最新鋭の潜水艦など技術的に見るべき兵器も少なくなかった。

 

 またソ連がドイツから奪ったのは、何よりもまず軍事技術か軍事技術に応用可能な先端技術だった。

 民生技術はおざなりで、その多くはドイツを脱出した人々や企業によって自由主義陣営の手に渡り、主にアメリカの技術として活用される事になる。

 ドイツが持っていた特許も、多くが西側の手に渡った。

 またロシア人と一緒に東からやってきた満州帝国(正確には東鉄職員)も、ロシア人の案内すら受けながらドイツや東欧の民生技術を集めてまわっていた。

 

 これを、ソ連は経済的な大魚を逃がしたと言われることもあるが、ソ連の場合は手にしたところで多くのものが経済面で折り合いの付く生産まで持っていける技術や基盤がないため、手に入れたところで「絵に描いた餅」にしかならないため、仕方のない側面があった。

 


 だが一方で先端技術については、捕虜としたドイツ人科学者、技術者から最優先で奪い、そして学んだ。

 特にロケット技術、ジェット機技術、その他航空技術、艦艇技術、戦車の技術、様々な軍事技術と先端技術がソ連の手に入り、ソ連の手によって花開いた物も少なくなかった。

 ドイツの建造施設では、ソ連の為の巨大戦艦の建造が行われたりもした。

 

 そうした中でソ連を落胆させたのが、ドイツの原爆開発技術だった。

 

 ドイツは科学技術先進国であり、戦争中は世界で最初に原子爆弾を実用化すると言われていた。

 だが実際は、解明できていない技術的な壁もあり、実用化には到底及んでいなかった。

 しかもドイツは戦争中に開発を諦めており、既に実用化したアメリカとは大きな格差が出ていた。

 ドイツの技術は、一番最初に核関連技術の開発を本格的にスタートさせた日本にすら劣るほどで、核開発でアメリカばかりか日本にすら劣るソ連の焦りは強かった。

 

 一方でソ連は、核開発の最先端を半ば独走するアメリカから、協力者やスパイを通じて技術を得ることに力を注いだ。

 そして戦争中は、同盟関係にあることも幸いして、かなりの技術がソ連の手に渡る。

 しかしその戦争中に、アメリカが秘密裏に進めていた核開発の中にいた共産主義のシンパなどの存在が露見し、戦争中に技術漏洩に対して徹底的な対策が取られるようになった。

 

 スパイがばれたのは半ば偶然で、アメリカでの開発にソ連を除く連合軍の頭脳が集結していた事が原因していた。

 と言うのも、当時世界一共産主義対策が厳しかった日本から来た科学者、技術者の一部が、スパイをしている科学者や技術者の存在にちょっとした事から気付いたからだ。

 

 そしてスパイ発覚後は、まずは核開発の現場と人材が厳重に管理されるようになり、ソ連が核関連技術を非合法で手に入れることが非常に難しくなる。

 しかもその後のアメリカでは、戦争が終わるとすぐにも実質的な共産主義者への監視が厳しくなり、最終的には「レッド・パージ」へと発展していく事になる。

 

 そして早期のスパイ発覚により、ソ連の核開発は最低でも2年、最大で5年は遅れたと言われている。

 ただしアメリカでも、スパイをしていた科学者や技術者の逮捕や追放、情報管理の徹底などで開発が遅延し、開発は最低でも3ヶ月、最大で半年遅れたと言われている。

 

 そしてソ連にとって、アメリカに政治的に対抗できる核技術が開発されるまで、そして自国経済が最低限復興できるまでは、積極的に動くべきではないと考えていた。

 

 だが、世界が二つ大国の思惑だけで動くわけではなかった。

 

 その象徴として「第一次中東戦争」が勃発する。

 


 「第一次中東戦争」は、1949年5月のイスラエル建国が直接的な原因だった。

 

 独立当時、パレスチナには250万人を越えるユダヤ人が居住していた。

 これに対してアラブ系住民の数は、ナチスや欧州枢軸軍の弾圧や追放によって戦後に戻ってきた数を含めてもユダヤ人の3分の1程度で、人口面で大きく劣るようになっていた。

 しかも一度追放されているため、地盤も失っていた。

 このため連合軍及び国連は、このまま既成事実が固定化することで、大きな問題、特に戦争は起きないと楽観していた。

 

 現地の占領統治は、当初は日本軍とアメリカ軍がいたが、戦争中の時点で数を減らして、戦争終了頃になると日本軍の姿はほとんど見られなくなっていた。

 本来ならイギリス軍が統治するべきだが、この時点でのイギリスにその余力はなく、統治はアメリカ軍によって行われた。

 

 そしてアメリカは、世界で最もユダヤ人が住んでいる国であり、しかも主に経済的に非常に大きな影響力を有していた。

 必然的に、アメリカから現地ユダヤ人への「援助」が行われる。

 だがアメリカでもユダヤ人に対する反発は強いため、国家としてのアメリカは問題を国連に預けてしまう。

 そして国連を通じて、ユダヤ人とアラブ人の分割統治を進める。

 ソ連がアメリカの片棒を担いだのは、戦後石油資源が豊かなアラブ地域を不安定化させて不要な力を持たせないためなど様々な説があるが、ソ連としても自国内のユダヤ人問題が絡んでいた。

 ソ連にもユダヤ人は多数居住していたからだ。

 

 そして国連決議により、パレスチナはユダヤ人、アラブ人、そしてエルサレムの国連管理地区に分けることが決まる。

 

 だが、誰もが決議に反発して内乱状態に陥る。

 そして既に現地にアメリカ軍の姿はほとんどなく、内乱は放置状態となってしまう。

 

 そしてこの問題に対して、不利なパレスチナ住民を支援するため、周辺のアラブ諸国が他地域の国々からの声を無視して積極的に介入し、当然さらなるユダヤ人の反発を呼んで、ついには1949年5月にイスラエル建国が宣言される。

 

 「第一次中東戦争」の始まりだ。

 

 戦争は、当初は軍隊(国家の軍事力)を持つことを禁じられていたイスラエルの不利で進むが、イスラエルは世界中から中古武器を集めるなどして辛うじて持ちこたえる。

 人口と勢力圏の多さも、ユダヤ人の有利に働いた。

 世界の誰もが戦争になればイスラエルが負けると考えていたので、非常に大きな番狂わせだった。

 

 そして一度目の休戦の間にイスラエル国防軍が編成され、世界中のユダヤ人達が名目上スクラップとした戦車を含めた武器をかき集めて体制を整える。

 兵器の中には、彼らを弾圧した旧ドイツの兵器も少なくなかった。

 対してアラブ側は、せっかくアラブ連盟を作ったのに主導権争いに明け暮れて統一がとれず、圧倒的な国力、兵力の差を活かすことが出来なかった。

 アラブ陣営の敗北を、イランが戦列に参加しなかったからだと言う事もあるが、そもそも宗派の違いがある上に、当時のイランは日本が厳しく指導している最中で、戦争には全ての面で参加できる状態ではなかった。

 

 結局1950年2月に停戦が成立し、イスラエルは存続していく事になる。

 


 一方でアラブ連盟だが、最初のアラブ連盟にはエジプト、サウジアラビアなど殆どの国が加わっていた。

 加盟していないのはトルコ、イランぐらいだが、ただしトルコの場合は、自らをイスラム国ではあってもアラブとは考えていなかった事も考慮に入れるべきだろう。

 

 イランは他のアラブ国家と宗派が違うため(※スンニ派とシーア派)加わらなかったというのもあるが、政治的に民主化、共和制化が精力的に進んでいたことも、他のアラブ諸国から嫌がられた大きな理由だった。

 民主共和制のトルコがアラブ連盟に加盟していないのと、ほぼ同じ理由だ。

 

 しかもそのイランは、1951年に日本政府との間に協定を成立させ、アラブ世界で先駆けて一部ではあるが国内油田の利権回復を実現する。

 一見日本に不利な協定に見えるが、採掘する企業は若干の英国資本を除けば日本資本であり、日本としては国際価格で安定して石油が得られれば十分な成果と見ていた。

 当時の日本にとってイランは遠隔地すぎて、衛星国や経済植民地のような強い影響力下に置く事が難しかったからだ。

 また、日本には他国を援助する財政的ゆとりに乏しい為、その代替手段として用いられたという側面も強かった。

 

 そして戦後の日本は、自らが背負わねばならない大国としての義務に対して途方に暮れていた。

 だが、義務を果たさない訳にもいかないため、目先の利益よりも長期的な視野で物事を捉える傾向が強くなり、これを当時の欧米諸国は「日本的視野」や「アジア的視野」と呼んだりもした。

 

 しかし日本がイランに肩入れしすぎた為、日本と他のアラブ諸国との関係は希薄にならざるを得ず、その後も日本の影響はペルシャ湾岸でに止まるようになる。

 このためパレスチナ問題、イスラエル問題ではせいぜいオブザーバーの地位となり、問題は国連を介してアメリカが背負い込むことになった。

 

 そして最初に問題の種をばらまいたイギリスは、戦争で色々失った事で、逆に巧く逃れることに成功していた。

 

 もっともイスラエルの問題は、自由主義陣営と共産主義陣営の対立ではないため、泥沼化したのと引き替えに国際的な重要度は低くする事にもなった。

 

 しかも第一次中東戦争が終わってすぐにも、両陣営の最初の激突が起きたため、国際的には尚更問題が希薄化されてしまった。

 

 その最初の激突こそが「支那戦争」だった。

 


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