フェイズ106−2「第三世界の混乱」
この時の戦闘は「第一次支那戦争」とも呼ばれるが、互いの政府を認めていない事などから宣戦布告などの戦争手続きが行われていない為、一般的には「紛争」でしかない。
このため国際公称も「第一次支那紛争」と呼ばれている。
戦闘は、幅2キロの国境線代わりの非武装地帯(DMZ)と黄河によって分けられている支那共和国と中華人民共和国の境界線を、支那共和国軍が大規模越境攻撃により発生した。
四川方面でも軍隊同士が激しい睨み合いとなったが、こちらは最後まで散発的な小競り合い以上には発展しなかった。
だが、攻撃開始直前に現地アメリカ軍も流石に気付き、アメリカ本国に情勢を伝えると共に可能な限りの阻止行動に出ようとした。
しかしそれは支那共和国も予測済みで、現地アメリカ軍に対しては兵営から出られないように、実質的な基地の封鎖を実施。
空軍部隊にも事実上の妨害工作で、飛行できないようにした。
そしてアメリカ政府に対して、支那戦争の「再開」とアメリカ軍及び自由主義諸国の参戦及び支援を求める。
基地封鎖なども、事態が止められなくなった48時間後には解除された。
支那共和国は「再統合の千載一遇の機会」と唱えた。
しかしアメリカは、現地軍、政府共に強く拒否。
支那共和国の説得を続けた。
そして支那共和国は、既成事実を積み上げる目的でアメリカ政府との交渉に入り、現地軍が暴走の形で作戦行動を開始する。
アメリカは、支那共和国に完全に出し抜かれた形だった。
攻撃は四川地方には行われれず、黄河流域を西安方面に集中された。
目的は西安の奪回ではなく、一気に首都蘭州を攻略する事にあったのは間違いない。
支那共和国の国家としての基本目的が、国土の再統一にあるからだ。
しかし現実問題として、非常に難しいと言わざるを得ない。
愚かな政策により国力と軍事力が大きく弱体化したとはいえ、中華人民共和国の抵抗力は極端には低下していなかった。
軍である人民解放軍も、一部を西部などに引き抜いたと言っても、主力は支那共和国国境にあった。
その事は支那共和国側も理解しており、攻撃を人民解放軍に集中して、市民の解放を当面の政治目的とした。
このため進撃する部隊は、可能な限り食糧を持って進撃し、住民に分け与えることで当面の民心を得ることに努力した。
食糧の威力は意外に大きく、規律の緩い人民解放軍の地方部隊(旧軍閥)の中には寝返る者も出た。
西支那が飢饉でそれほど困窮していた証でもあり、支那共和国の進撃は当初は順調に進んだ。
しかし、戦闘開始から約1週間後、西安を包囲した時点で進撃が鈍る。
人民解放軍の抵抗が増したのも大きな理由だったが、支那共和国軍が100万都市の西安に十分な食糧を供与する能力が無かった事も大きな原因だった。
食べ物なら本国にあるが、進撃してきた地域の鉄道が西支那軍によって破壊されているため、それを前線まで輸送する事が出来なかったのだ。
またこの段階で、アメリカだけでなく国連(安全保障理事会)が動き、全会一致で双方の即時戦闘停止と支那共和国軍の休戦ラインまでの撤退を極めて強く勧告。
米ソの軍事介入すら視野に入れた言葉は、国連の歴史の中でも非常に珍しかった。
泥縄式に戦乱を拡大しようとした支那共和国の思惑は外れ、このままでは国際的孤立となるので撤退勧告の受け入れを受諾。
しかし撤退準備などを理由に動くのを故意に遅らせ、戦闘停止も完全には実施しなかった。
アメリカとしても一応は同盟国相手なので、軍事行動など極端な制裁に動くこともできなかった。
それでもアメリカの怒りと焦りは大きく、援助、支援の停止や貿易の停止などをちらつかせる。
これでようやく支那共和国軍も撤退を開始。
この時点で、一度支那共和国に降伏したり寝返った西支那の人々や勢力が、自分たちの保護を支那政府に求める。
残れば粛清されることが分かり切っているからだ。
また彼らの多くは飢えているため、残って西支那政府に許されたとしても、食べるという基本的な点で生き残れるか怪しかった。
とはいえ支那政府には、大量の難民となる者達を養う財政的ゆとりはなかった。
当然と言うべきか、問題を国連とアメリカに丸投げする。
そして国連とアメリカも、支那共和国をDMZまで下がらせるためにも、救援要請を受けざるを得なかった。
撤退に際して支那共和国政府は、西安への進撃により「匪賊集団への軍事的懲罰」という政治目的を達成したと国内向けに宣言を発表。
また、国連とアメリカが救援を開始した人々を、共産主義の圧政から解放して救出に成功したと発表し、今回の「遠征」の意義を国民に説明した。
対する西支那(中華人民共和国)には、停戦を受け入れたこともあったが、物理的に追撃するゆとりも、自分たちの側からDMZ を越える力もなかった。
敵が引き返すのに合わせてDMZ に戻るのが精一杯で、その後しばらくはDMZ の鉄条網や地雷原の再設置すら行うゆとりも無いほどだった。
紛争後、支那共和国の勝利宣言をまともに受け入れる国民は極めて少なかった。
国民が感じたのは、無駄な出兵、戦費乱用、無用な難民の増加だった。
実際、一時的という建前で、戦費を補うために大幅な増税が実施された。
しかもアメリカが援助した難民援助の物資や資金は、その多くが支那共和国の上層部や役人の懐に消えていった。
当然ながら国政も大きく乱れ、政府の統治能力も大きく低下してしまう。
それでも孫科が大統領の座を維持できたのは、その下の権力闘争を行っている政治家の勢力がほぼ拮抗しており、成り代われるだけの人材が居なかったからに過ぎない。
逆を言えば、人材がいないので今回の暴発が起きたのであり、また国内の治安低下や国政の乱れを防げなかったのだ。
そしてチャイナを実質的に支配していると自認しているアメリカだが、今までの「統治」が誤りであり、緩かったことを痛感させられた。
形だけは支那共和国に与えられた軍の作戦指揮権が、在支米軍のもとに集約という形で取り上げられた。
合わせて米支統合司令部が作られ、支那共和国軍のアメリカ軍による統制が強化される事となった。
さらに簡単に軍事行動が起こせないように、相互連絡体制の強化という名目で監視体制も大幅に強化された。
紛争を起こした支那共和国は、弁解すら許されなかった。
また、今まで支援や援助だった支那共和国軍の武装については、大幅に改訂されて同盟国価格ながら正規の売買(貿易)のみとされる。
これは弾薬、燃料、諸々の物資についても同様で、以後支那共和国の財政を強く圧迫していくようになる。
この点については、アメリカだけでなく日満など他の国々も同じ措置を取った。
そしてこの点で問題なのは、第一次支那紛争で支那共和国軍は弾薬、燃料、物資の備蓄のほとんどを既に使い切っていた事だった。
当然補充しなければいけないが、自力での生産能力はないので購入するしかなかった。
当然国庫を圧迫したので支那政府はアメリカに泣きついたが、勝手に行動したばかりの支那政府にアメリカは極めて冷淡だった。
次に助けを請われた日満も、ただ呆れるばかりだった。
しかも今の西支那に攻撃能力がない事が分かっているだけに、西側諸国はいっそう冷淡だった。
さらに勝手に戦闘を開始して国際環境を悪化させた事で、支那共和国の国際的信用は無くなった。
危機管理の観点から貿易を自粛する国も多く、食糧以外の多くを輸入に頼っていた支那共和国の経済状況は短期間で悪化していった。
1959年の経済成長は、マイナス5%以上を記録。
インフレも激しくなり、民衆の不満は一気に高まった。
そこに政府は、戦費の回収と備蓄弾薬などの購入のために大規模な増税を発表。
しかも不公平な増税のため、民衆や華北以外の地域の反発が強まった。
そして今まで積もってきていた、地方の不満がここで噴き出してしまう。
支那共和国での地方の不満とは、北京を中心とする華北を重視している事と、国家の統制の強化と国力増強を理由に、言語の事実上の統一を行った事だった。
首都重視はどの国でも見られるが、中華地域の場合は重視=権力の集中と「金」の集中を意味する。
しかもこの場合の「金」とは賄賂や横領、不正蓄財であり、国庫の多くが権力者達の懐に消えていた。
ある程度は「有史以来の伝統」なので許容されるし、地方でも権力を持つ者は同じような行動に出るので問題も少ないが、国全体が貧しい状態で、しかも国庫が尽きたような状態でも改めない点が不満の温床となった。
また「金」よりも問題なのが、言語だった。
この頃、支那語もしくは中華語は、他国から見れば漢字を文字とした一つの言語と捉えられがちだった。
そして他国にとっての支那語とは、歴史的な経緯から香港のある広東語、上海のある上海語が主流だった。
にも関わらず支那共和国が重視したのは、北京を中心とする地域で普及している北京語だった。
同じ漢字でも発音が違う場合があり、それ以外にも違う点が見られ、もはや違う言語とすら言える場合もあった。
ヨーロッパで言えば、文字はアルファベットだが言葉が違う状態に似ている。
ヨーロッパほど違いは少ないが、それでも違いは違いだった。
そこに支那政府により、北京語の「強要」さらには義務教育化が実施され、反面各地の言葉を公教育では行わなかったので、年々不満が溜まっていた。
そうした不満が、この時の増税で一気に噴き出した。
最初は小さなデモ行進、暴動だった。
それが各地に広がり、政府への攻撃に変化するまで時間はかからなかった。
そしていまだ貧弱な警察組織では鎮圧できないため、支那政府は軍隊の大量投入を実施。
そこから軍隊の発砲、大量の死傷者の発生へと繋がり、事実上の内乱状態に陥ってしまう。
諸外国が事態を把握できないまま半ば呆然としている間に事態は進んだが、政府が国民を攻撃しているのでアメリカなどは支那政府を非難して、支那政府が求めた支援は行いたくても出来なかった。
そしてここで、支那地域独自の地方情勢と支那共和国の弱体が分裂を呼び込んでしまう。
国家の分裂だ。
支那地域は、ヨーロッパに匹敵する広大な地域を一つの国家(帝国)がそれぞれの時代に治めてきた。
しかし、力のある中央専政政府が存在しない時は、広大であるだけに分裂している事が多かった。
支那の支配構造を簡単に書くと、士大夫と呼ばれる地主もしくは土豪が農村に根を張っており、その上に地方政府が乗って、さらにその上に中央専政政府が統治を行う。
地方組織が勢力の大きな士大夫の場合もあるし、中央の有力政治家が士大夫出身というのもよくある。
裕福な者が高度な教育が受けやすく、中央政府の官吏になるには非常に難しい試験を合格する必要があり、勉強する時間と金があるのは裕福な者だからだ。
そうした一人に、トウ小平(トウ=「登」の右にこざとへん)がいた。
トウ小平は、生まれは四川の客家の裕福な家の生まれで、フランス留学中に共産主義に出会うが、フランス政府から危険視されて国外追放される。
その後、何とか帰国して中華共産党に合流するが、1934年の共産党壊滅で行き場を失う。
しばらく中華民国に投獄されるが、共産主義思想を棄てる事を誓い社会に復帰。
その後は才覚を発揮して出世した。
だが、もと共産党員ということで中央政府には参画できず、地方官僚として過ごさねばならなかった。
第二次世界大戦では滞在場所が早々に連合軍占領下となり、その後は能力を買われて連合軍統治下の官僚となる。
そして素性を深く掘り下げない連合軍のもとで便利がられ、支那共和国政府成立頃には政府中枢で重要な役職を任されるようになっていた。
大戦終盤頃には、大陸奥地で復活しつつある中華共産党から復帰の誘いがあったと言われるが、国と国民を豊かにする為なら主義を問わない政治姿勢となっていたので、共産主義に戻ることは無かった。
そして戦後は国家の中枢で活躍(※最高位は財務大臣)するが、支那戦争ではもと共産主義者ということを理由に政敵から事実上の粛正を受けて、地方に左遷されてしまう。
その後は左遷先の広東省で自らの勢力の再構築を行い、客家の多い現地で中心的人物となり勢力を再び拡大していった。
支那紛争の頃には、実質的に広東など中部、南部沿岸部の最有力者となっており、新たに形成されつつあった「広東閥」、「上海閥」の実質的な指導者となっていた。
そこにきての内乱騒ぎで、トウ小平は中部、南部を豊かにするべきだと考え、華北(支北)との決別を決意。
「支那連邦共和国」の建国を宣言して、宣言に従う華中(支中)、華南(支南)沿岸地域の勢力を糾合した新たな国家を作る。
境界線は支那中部の准河。
ちょうど稲作地帯と小麦地帯の境目辺りになり、風土的、文化的な境目でもあった。
首都は暫定首都ながら上海に定められた。
支那連邦共和国側には、四川で人民解放軍と睨み合う部隊以外の域内の軍事力全てが参集しており、先の紛争で物資のない支那共和国軍に鎮圧や制圧する力は無かった。
それ以前に、軍主力を西安方面から引き離すことは無理だし、華北(支北)地域も事実上の内乱状態で残りの軍も動かせなかった。
対して支那連邦共和国側は、建国に反対する勢力を事前に割り出して、最初に制圧していたおかげで混乱は最小限で、民衆の多くも新政府、新国家を支持したので、四川方面以外の軍事力を新たな境界線に置くことができた。
そればかりか義勇兵まがいの志願兵が続出し、軍は満員御礼状態だった。
そしてこれに慌てたのが、西側陣営だった。
わけても、チャイナ主要部を自らの経済勢力圏を自認していたアメリカの焦りは大きかった。
既に当時レームダックと言われていたアイゼンハワー大統領の特使が北京に飛び、上海にも水面下で接触が行われた。
しかもアメリカにとって意外だったのは、日本、満州をはじめ近隣諸国の動きが、冷静とはいわないまでも落ち着いており、当初から分裂を歓迎する向きすら見られた事だった。
支那共和国の事実上の分裂状態は、西側陣営としては決して受け入れられない事の筈だが、東アジア世界はそうとは考えていなかったからだ。
それに支那連邦共和国政府も、支那共和国とは決別するが敵対する意志はなく、自分たちも西側陣営の一員として行動すると公式に明言していた。
自力解決が難しい支那共和国政府は、事態を国連に持ち込む。
国連やアメリカの圧力で分裂状態を解消して、国家の再統合を計ろうとした。
支那共和国としては、アメリカが自らを市場化している事を逆手に取ろうという考えでもあった。
そして市場の半分以上は、分裂したトウ小平らの手にあった。
自分たち以外に国が分裂して困るのは、アメリカだと考えたのだ。
もっともアメリカは、国土の半分以上の分裂を許したばかりか、残された領域すら満足に安定化させられない支那共和国政府に強い失望を抱いていた。
逆に短期間で分裂と域内の安定化に成功した、支那連邦共和国政府を高く評価した。
しかもトウ小平の政治手腕、外交手腕は、支那共和国を大きく上回っていた。
客家のネットワークを使い、海外の華僑や移民と繋がりが深いのも連邦共和国中枢の方だった。
しかも支那の最も人口の多い、つまり市場価値があるのは支那連邦共和国政府統治下にある長江流域であり、アメリカにとって最も価値があった。
その後、国連を舞台に分裂か再統合かで争われたが、その間に支那連邦共和国の既成事実化が進んでいった。
そして政治、外交、軍事、全ての面で強引な手法が取れない支那共和国は、自力での解決ができない事からアメリカを頼らざるを得なかった。
そしてアメリカは、このまま情勢が安定化するなら、得られる経済利益はむしろ大きくなると判断を下す。
分かれている方が、支那共和国も政治的にコントロールし易いと判断された。
この判断は、第二次世界大戦での中華民国の裏切りへの悪感情も重なり、完全な分離独立に向けて動くようになる。
もっとも支那連邦共和国は、なかなか正式独立を国際的に認められる事は無かった。
トウ小平が強く望んだ海外資本の導入についても、企業の方が近隣地域との政治的不安定さから嫌い、また連合軍によるチャイナの非工業化という半ば伝統化していた政治目的もあるため、すぐに叶うことはなかった。
いっぽう沿岸部の混乱から無視された形の西支那(中華人民共和国)は、敵が二つに分かれた事で当面の安全を手に入れたが、大躍進と第一次支那紛争での傷は深く、ソ連からの援助を受けても大躍進前の現状回復すらままならなかった。
当然ながら、分裂した二つの敵の両方もしくは片方に対する攻勢など出来る筈もなかった。
しかも敵が二つに分かれた事で、自分たちの国内でも四川盆地への統制が弱まるという影響が出ていた。
その後支那中央部は北支那(支那共和国)、南支那(支那連邦共和国)、西支那(中華人民共和国)の三つに分かれる形で固定化され、1969年の支那連邦共和国の国際承認によって確定的となる。
なお、支那沿岸部での分裂劇は、支那の歴史上でよく見られる、強い中央集権体制が存在しない場合の伝統的と言える政治的動きでしかなかった。
そして南の地でも、国土の混乱と分裂が進んだ地域があった。