フェイズ106−1「第三世界の混乱」
第二次世界大戦から十年も経過すると、約100年ほど続いた一つの時代が終焉を迎えようとしていた。
終焉を迎えたのは、いわゆる「植民地帝国主義」の時代だ。
そして新たに登場したのが、「第三世界」と言われるそれまで欧米列強に虐げられていたアジア・アフリカ世界だった。
「第三世界」の時代は、第二次世界大戦での欧州枢軸に属したヨーロッパ諸国の敗北によって大きく扉が開かれた。
同じ枢軸陣営の中華民国の滅亡も、中華周辺部の自立を促した。
そして1955年の「アジア・アフリカ会議」によって本格的に始まったと言える。
その流れは、完全に植民地維持の能力を無くしたイギリス、フランスなどから多くの植民地地域が独立していった。
カリブ各地の植民地は、ほぼ全てがアメリカの信託委任統治領とされてしまった。
フランスの北アフリカ植民地のかなりは、一時的という建前ながら枢軸に与したフランス本土への懲罰として約、3年間はアメリカの軍事占領下に置かれた。
イギリスはアジアを実質的に手放し、さらに自由英連邦政府の主力として戦った、カナダ、オーストラリアの事実上の完全独立と自立を認めざるを得なかった。
この流れでカナダ、オーストラリアの双方は、1950年代半ばまでに英連邦のオブザーバーとなって国家元首に英国王(または女王)を戴くことはなくなり、大統領を頂点とする民主共和制を敷くことになる。
ニュージーランドは国民投票で連邦残留が決まったが、「英連邦」を構成していた白人国家はほとんど無くなる事になる(※南アも1961年に離脱。)。
ただしカナダでは、英連邦から離れた事でケベック州のフランス系移民の独立運動が激化してしまい、深刻とは言い切れないながらも慢性的な問題と化していた。
加えて1960年は、多くのアフリカ諸国が独立した事から「アフリカの年」と呼ばれた。
また同じ年、「石油輸出国機構(OPEC)」が成立しており、産油国が大きな発言権を持つようになる始まりとなった。
アジア地域も、この頃までにはほとんどが自主独立を達成していた。
そしてイギリス、フランスが植民地帝国としての力を完全に無くした事件が、「スエズ危機」もしくは「第二次中東戦争」と呼ばれる事件だった。
1958年に勃発した「スエズ危機」は、スエズ運河の利権を巡って起きた混乱だった。
スエズ運河は、1869年にフランスのレセップスによって建設され、その後イギリスがエジプトが保有する株式を購入することで英仏の共同利権となり、ヨーロッパ列強のアジア進出の橋頭堡となった。
そして第二次世界大戦で連合軍が占領し、自由英とアメリカとの協定によって英本土の権利(株式)が実質的に白紙化され、アメリカが自由英から多くの権利をレンドリースの代金の形で獲得。
その後フランスとアメリカの間にも正式に株式の譲渡が行われ、アメリカが最大の株主となった。
そしてアメリカは、戦後しばらくするとエジプトに自らの持つ株式を、エジプトに安価で売却しようとする。
アメリカとしては、地理的に重要なエジプトを自陣営に留め置くための外交政策だった。
しかしイギリス、フランス、さらにイスラエルが猛反発。
アメリカの世論までが、株式売却反対に傾いた。
アメリカ政府は、仕方なく正価での売却を計ろうとするがエジプトに購入能力はなく、スエズ運河利権はそのままでエジプトの恨みだけが残る結果となった。
しかしこの時、スエズに若干の兵力を置いていたアメリカ軍が、エジプトとの間に協定を結んで撤退を決定。
これをエジプト民衆へのガス抜きとした。
だが、エジプト民衆のスエズ運河問題に対する怒りは収まらず、1952年のエジプト革命によって王政から共和制への移行が行われる。
そしてエジプトのナセル大統領が歴史の表舞台に登場する。
共和制となったエジプトは、当初こそ東西両陣営に対して中立を取っていたが、英仏の横やりに業を煮やして1955年に東側のチェコスロバキアからの実質的にソ連の武器購入を決定。
これに英仏が反発。
さらに英仏の反エジプトの動きに反応して、ついに運河の国有化を宣言して事態は大きく悪化する。
しかし、いきなりの国有化は、なるべく穏便に事を運ぼうとしていたアメリカを驚かせた。
そしてそれでも、スエズ運河の株式はアメリカの企業ではなく政府が保有していた為、アメリカ国内から極端に強い反発は起きずにすんだ。
これが民間がスエズの株式を有していたら、即座にアメリカ軍は動かざるを得なかっただろう。
そして動かざるを得なかったのが、なけなしの利権を「奪われた」イギリス、フランスだった。
もっとも、本国近辺でソ連の強大な軍事力に怯えるイギリス、フランスに、多数の軍事力を遠隔地に派遣する国力は既になかった。
この事はエジプトも折り込み済みだったため、エジプトとしては交渉相手は実質アメリカ一国と考えていた。
エジプトとしては再び中立路線に戻る対案として、スエズの国有化を認めさせようとしたのだ。
そしてアメリカも、エジプトとの交渉を穏便に進めようとしたのだが、それを認めるわけにいかないのがイスラエルだった。
イスラエルは、アラブ諸国の中でも国力の大きいエジプトとアメリカが接近することは、国防上避けなければならなかった。
当時のイスラエルは、建国当初から軍事力に不安があった。
何しろ周りは敵だらけで、民族問題から国境線は安定せず、しかも国自体が国際的に承認されているとは言い難かったからだ。
1955年には「中東条約機構」という、実質的に対イスラエル同盟までが出現した(※ただしトルコ、イランが加盟するなど、理想主義が目立つ呉越同舟で、イラクの共和革命で実質的に崩壊。)。
いつ滅ぼされてもおかしくない状態であり、自らの安易な攻撃は避けなければならなかった。
だがそこに、スエズを奪われたイギリス、フランスが、利権奪回もしくはエジプトから少しでも代金を回収しようと、イスラエルに有力な武器をかなり売却。
この事は発覚後すぐに国際世論から非難されると、今度は第三国を通じて中古兵器もかなり横流しをした。
中古兵器は第二次世界大戦中のものがほとんどだが、中には新型の火砲なども含まれていた。
そしてこれでかなりの兵器を手に入れたイスラエルは、シナイ半島にエジプト軍が入ってきたのを自国防衛を脅かすとして軍事行動を開始する。
「第二次中東戦争」の勃発だ。
戦争は、有力な戦車や戦闘攻撃機を手に入れたイスラエル軍の一方的といえる有利で進み、イスラエル軍は短期間でスエズ運河のすぐ近くまで進撃する。
しかしエジプトの危機に他のアラブ諸国も色めき立ち、中東での全面戦争の気配が漂い始める。
だがそこで、アメリカのアイゼンハワー大統領が動き、自らの下腹部とも言える中東での大規模な戦争を望まないソ連も共同歩調を取り、即時停戦とイスラエル軍のシナイ半島からの撤退を、国連安全保障理事会の決議の形で突きつける。
流石にイギリスも、これには文句を言わなかった。
これで「第二次中東戦争」は終息し、中東世界でエジプトの存在が際だつことになる。
また同時に、旧植民地型帝国の最右翼だったイギリス、フランスには、もう植民地を維持する力が無いことが表にさらけ出される事になった。
そして1960年の「アフリカの年」へと続く事になる。
そしてこの頃、アメリカ、ソ連そして日本の動きが鈍い理由が別にあった。
中華地域で大きな混乱が見られた為だ。
中華地域の混乱の最初の原因は、中華人民共和国だった。
中華人民共和国(西支那)の主席林彪は、1957年に新たな国家の産業開発計画を立ち上げた。
それは国家の重工業化を目指すものだが、たった10年で満州ばかりか日本を越える重工業化率の達成を目標としていた。
特に重視されたのが重工業化の指標とされる粗鋼生産で、自国産業の実状、市場原理、経済原理など全てを無視して非常に強引な命令を全国民に実行に移させた。
この命令は林彪主席の「最優先」という言葉によって、農業生産の実質的な放棄すら意味しており、農民にすら家庭の竈のような原始的な炉での鉄の生産すら積極的に行わせた。
しかも製鉄のため、手段を問わない木材の入手を実施させる。
この時の伐採は単なる森林伐採を越えており、果樹園など農業用の樹木にも及んでいた。
これは実質的な農業放棄と重なり、農業生産を大きく低下させる原因となる。
しかも北部は乾燥した気候のため、森林破壊は現代に至るも悪影響を与え続けているほどだった。
さらに炉を作る為の煉瓦獲得の手段として、各地にある古代の遺跡や史跡、宗教施設が乱暴に解体されている。
万里の長城も例外ではなく、多くの場所で遺跡が失われ廃墟となっていった。
しかも、国家が宗教や古いものを否定する共産主義政権の為、奨励する者こそいても止める者はいなかった。
また、鉄鋼と共に重視された農業については、「人民公社」というソ連のソフホーズ(国営農場)、コルホーズ(集団農場)をモデルにした集団農業を取り入れる。
今までの伝統的な農業体制の否定となるため、これも大きな混乱と反発をもたらした。
さらに、常識を無視した無理な農法(密植、益鳥の駆除など)を行って、大規模な凶作を誘発させた。
そして1958年も秋が近づく頃になると、惨状が露わになった。
全土で作った鉄は、そのほとんどが屑鉄の価値しか無く、他の製品への加工は無理だった。
作った多くが農民だった為、農業生産も激減した。
しかも無理な農地改革のため、農業生産はさらに落ちた。
ソ連の援助で作った小規模な製鉄施設なども、経済効率を無視した過剰生産のため、採算は全く採れていなかった。
農業生産は激減して工業生産も実質的な伸びは大きなマイナスで、林彪たちの思惑とは真逆に国力、経済力は大きく低下した。
しかも農業生産の激減は、全国規模での極めて深刻な食糧不足、つまり大飢饉を意味していた。
ソ連などから輸入したくても、そのための資金、外貨が無かった。
バーター取り引きできる天然資源も少なく、食糧の交換に出せるのは人的資源、無償の労働力の輸出、つまりは実質的な奴隷の提供ぐらいしかなかった。
しかも同政策については、ソ連が強く反対したにも関わらず強引に実施されており、ソ連と西支那の関係が冷え込んでしまっていた。
食料援助を受けることはできず、正規の貿易でしかソ連も対応しないため、西支那は窮地に追い込まれる。
しかも西支那は、周辺のプリ・モンゴル、東トルキスタンから支援や援助が断られると、あからさまな恫喝外交を実施。
友邦の国境線に軍隊すら並べる。
これはソ連が一言言う事で西支那もしぶしぶ引き下がったが、両者の関係はいっそう悪化した。
彼らにとって反乱勢力によって不当に占拠されているチベット、ウンナンに対しても、国境線近辺での越境掠奪が横行した。
越境掠奪は、少しでも食糧を得ようとした現地軍、住民がほぼ独断で起こした事だが、西支那政府が止めることも無かった。
これは重大な国際法違反であり、また軍事行動ではなくても軍隊が越境したことそのものが国際問題だった。
しかし、当時の中華人民共和国(西支那)は、ソ連など東側諸国しか承認していないため、アメリカ、日本など西側諸国は国境を接する国への支援を厚くする程度の対応しかとれなかった。
一方で、中華人民共和国(西支那)の醜態を千載一遇の好機ととらえた国があった。
言うまでもないが支那共和国だ。
支那戦争で、ただでさえバラバラに分裂している国土をさらに分裂させられたと考える北京の支那共和国政府は、西支那に対する再戦の機会、西支那を滅ぼす機会を狙っていた。
そして二度と国土を蹂躙されないためという理由で、主にアメリカから支援、援助を受けて軍備を増強していた。
アメリカとしても自国の武器産業を一部支える手段として、支那共和国への支援と援助を積極的に行った。
支那共和国への武器の輸出では、アメリカ企業のノックダウンやライセンス生産もしている満州帝国も関わった。
そうして休戦以後に蓄えた軍備は、5年後の1958年には西支那軍に拮抗するか越えるほどとなっていた。
少なくとも支那共和国政府及び軍はそう考えていた。
そこに西支那の愚かな惨状が伝わり、しかも軍の一部が自分たちの国境線を離れているという情報も手にする。
これを受けて、軍事行動の準備が秘密裏に進められた。
支那共和国政府および軍の動きは、行動直前にアメリカの知るところとなり、アメリカ政府から特使までが飛んで自制を求めた。
止める手段として大規模な支援と援助が約束され、アメリカ政府としては支那共和国の動きは支援と援助を引き出すことが目的だったのだと理解した。
支那共和国も一旦は活動を停止させ、軍隊の動員体制をある程度は解除した。
しかし1959年春になると、西支那の大飢饉が決定的となった。
西支那の政府と軍は、飢饉に伴う国民の暴動や激発を抑えるのに懸命で、国防が疎かになった。
民衆によるチベット、プリ・モンゴル、東トルキスタンに対する越境掠奪も酷くなり、西支那と近隣東側諸国の関係はさらに悪化した。
そこで支那共和国は、昨年よりも秘匿度合いを強化した上で軍の動員と戦争準備を進め、記念日とも言える6月25日に一斉攻撃を開始する。
もちろんだが、支那共和国内に駐留するアメリカ軍に対しても秘密裏に進められ、事が巧妙に進められたためアメリカも気付く事はなかった。