フェイズ103−2「共産主義の拡散」
1959年春、東南アジアのインドネシアで共産主義革命が燃え広がり、世界にもう一つ赤い国が誕生した。
インドネシアは、17世紀からオランダ (ネーデルランド)王国が徐々に植民地化を進めた地域で、最終的にオランダが領有した総面積は日本本土の約5倍に達する。
オランダでの反植民地運動は第一次世界大戦後に始まり、スカルノやハッタを中心として主にジャワ人を中心とするグループによって行われた。
しかし彼らは投獄され、一旦は運動も下火となった。
第二次世界大戦でのオランダは、本国は選択の余地もなく枢軸陣営に与したが、インドネシア地域の蘭領東インドは日本、アメリカを中心とする連合軍が進軍してくると連合国側に付いた。
その後も、蘭領東インドは現地のオランダ総督府が統治するところとなった。
しかも連合国諸国は、インドネシア地域の石油、天然ゴム、錫、キニーネが必要なため、自由オランダ政府ともなった蘭領東インドの総督府に手厚い支援を行った。
支援は戦後も続き、何とか自由主義陣営に残ったオランダ本国の国力が大きく低下していることもあり、日本、アメリカは蘭領東インドの支援を続けた。
特に日本は、資源の安定供給のため手厚い支援を実施した。
そこにソ連に亡命していた共産党勢力が戻ってきて、左派勢力を糾合して反植民地運動を展開する。
これに対してオランダとオランダを支援する自由主義諸国が鎮圧を行うが、その隙にスカルノら民族組織の活動が活発化し、さらには左派と民族派が合流。
反植民地運動は、ジャワ島を中心にして反乱や革命戦争へと拡大していく。
反植民地組織に不足する武器弾薬も、民間船に紛れる形でソ連などが供給することで解消され、オランダは徐々に劣勢に追いやられる。
そこでオランダは、左派と民族派の分断を画策する。
左派だけを攻撃する一方で民族派と水面下で接触して、穏健な形でのインドネシア独立を吹き込んだ。
オランダとしては、社会主義国家が誕生して国有化で全てを失うよりも、企業の経営権の維持や影響力の確保ができる民族派を選んだ構図だ。
しかし、戦後経済が低迷するオランダの本意は自治の拡大程度で、独立まで認める気は無かった。
そしてしばらくしてこの事を民族派に見抜かれてしまい、事態はより悪化していく。
そこで今度は、島と島の対立、ジャワ人とそれ以外の民族の対立を利用しようとした。
左派も民族派もどちらもジャワ人中心で、他の民族や島から見れば、支配権がオランダ人からジャワ人、ジャワ島に移るだけというわけだ。
そしてそれは真実であり、しかもオランダの方がマシという風に誘導が行われた。
ジャワ島以外への慰撫も積極的に行われた。
オランダとしては今までの統治方針を破壊するような変更だったが、自らの弱体化もあって最早なりふり構っている状態ではなかった。
この謀略はうまくいき、インドネシア各地域の団結は乱れて、反植民地運動はジャワ島中心に絞られることになる。
民族派はもちろん、共産主義勢力まで幾つにも分裂した。
そして少数勢力となったジャワ島以外の勢力は、鎮圧されるか勢力を縮小させた。
だが、峻険な山岳地帯で構成されるジャワ島は、熱帯では珍しい農業に適した土壌を持つ事などから人口が他より飛び抜けて多いこともあって、簡単には反植民地運動は鎮圧できなかった。
しかも左派と民族派が、ジャワ人によるインドネシア統一という点で団結し、1957年に内乱は完全に紛争状態となる。
オランダは日本、アメリカから支援を受けつつ軍隊を本格的に投入し、大規模な兵力をジャワ島に送り込んだ。
しかしこの動きは、オランダの財力不足、西欧正面でのソ連軍の圧力強化でうまくはいかなかった。
結局、1958年にオランダ人は戦闘で負けてもいないのにジャワ島から逃げ出して、他でも勢力を最低限にしたうえで事態を国連に放り出した。
統治コストが酷い赤字になりすぎて、恥をかく方がマシと判断したのだ。
そこまでなら、この頃世界各地の植民地で起きていた植民地独立や独立運動と大差なかった。
問題なのは、独立を主導した集団のかなりが共産主義者で、ソ連が裏から援助していた事だった。
オランダが逃げ出した時点で、民族派はジャワ島以外での活動を拡大したのだが、左派は同じ動きをすると見せかけて、民族派の中核を一気に攻撃して殲滅。
戦力が分散していた民族派は、不意を突かれてスカルノら幹部の多くが殺害されてしまう。
また、民族派を支援していた蘭印の華僑もこの時に多くが犠牲になり、その後も共産主義に反する富裕層が多いことと、外来の異民族である事から強く弾圧されるようになる。
これで蘭領東インドのジャワ島を中心とする地域が共産党勢力下となり、彼らは「インドネシア人民共和国」の建国を宣言。
1953年から指導的地位にあったディパ・ヌサンタラ・アディットが初代書記長に就任した。
そしてソ連など他の共産主義国家の承認と後押しを受けて、旧蘭領東インド全土へとその手を伸ばそうとする。
しかし、自由主義陣営も黙って見ているわけではなかった。
ジャワ島でジャワ人中心の民族派が殲滅された時点では、介入していた各国はインドネシア共産党を正統な政府とは認めず、各地に軍を進めた。
またインドネシアの「正統な政府」として、辛くも暗殺を免れたモハマッド・ハッタを中心として、ハッタの故郷でもあるスマトラ島で政府の再編成が進められた。
これを「インドネシア臨時政府」と呼称した。
しかし臨時政府には実行力がないため、臨時政府の承認という形で西側陣営の各国が積極的に介入した。
ボルネオ島(カリマンタン島)には、形だけサラワク王国軍が先頭を切るも、サラワク王国軍の多くが傭兵で、実質的には日本軍が主力となった部隊が進駐した。
スマトラ島には、日本軍、アメリカ軍、満州軍が進駐した。
西部ニューギニア島には、島の東部を持つオーストラリア軍とニュージーランド軍、アメリカ軍が進駐。
北東部のスラウェジ島、モルッカ諸島などにも、現地の民族派の手引きで日米軍が進駐。
その他の小さな島々にも、そこが共産党支配下でない限り、少数でも部隊が派遣された。
場所によっては共産党との戦闘も発生したが、各国軍は武力で圧倒した。
臨時政府が自力で何とか統治できたのはスマトラ島だけだが、それすら西側各国の援助がなければ厳しかった。
それだけ当時のインドネシアの政治、軍の中心が、人口地帯のジャワ島に集中していた証拠だった。
しかも共産主義者にはスンダ海峡を越えられ、海峡を制御できるスマトラ島の南端部一帯が共産主義陣営の実質的支配下となった。
この事は、後々まで大きな影響を及ぼすことになる。
この失点を挽回するべく、共産党が支配するジャワ島自体には日本軍などの手により実質的に海上封鎖され、ジャワ島の共産党軍が他の島に軍隊を送り込むことが非常に難しくなる。
少なくとも、大規模な派兵は不可能となった。
この出動では海軍や海兵隊(陸戦隊)が改めて見直され、日本、アメリカでの海軍及び海兵隊復権の大きな一歩ともなった。
その後、各地での民族自治政権が武装して、進駐した各国部隊と共にそれぞれの地域の共産党殲滅を行う。
だが、介入した各国軍もそれほど大規模な軍隊を派兵したわけではないので、ジャワ島へ攻め込む事は難しかった。
そしてジャワ島以外で「インドネシア連邦共和国」の建国が進められると、インドネシア人民共和国政府はソ連などの仲介を受けて事態を国連に持ち込む。
しかし会議は国連本部のあるニューヨークで行われず、米ソの勢力境界とも言えるスイスのジュネーブで行われる。
ニューヨークでは、ソ連が不利すぎたからだ。
そして1959年、アメリカ、ソ連、日本の三大国の思惑によって、ジャワ島を中心とした「インドネシア人民共和国」が承認される代わりに、それ以外の地域にはスマトラ島のパレンバンを首都とした「インドネシア連邦共和国」の成立が認められることになる。
しかし西部ニューギニアは、連邦共和国の統治能力不足を理由にオーストラリアの国連委任統治領に変更された。
共産主義陣営としてはジャワ島だけでも共産化できたことで、取りあえずは成功と判断していた。
この後、徐々に勢力を広げればよいし、東南アジア共産化のこれ以上ない橋頭堡が確保できたからだ。
一方の自由主義陣営は、ほぼジャワ島だけに封じ込めた事で一応は満足していた。
また、特に日本が求めていた現地の資源が共産党支配下の地域にはない事も、この時の妥協に大きく影響を及ぼしていた。
要するに、地下資源とマラッカ海峡以外、インドネシアに興味が無かったと言うことになる。
しかしこの中途半端な決着は、その後当然のように大きな問題を引き起こすことになる。
なお、日本においては、ジャワ革命、キューバ革命に呼応するという名目で、1959年に国内の共産党勢力、反政府勢力が蜂起して帝都の一部が争乱状態に陥った。
これを「34年争乱」や「帝都争乱」などと呼ぶことがある。
今まで治安維持法で「弾圧」されていた人々(※ほぼ全員が日本人)が、第二次世界大戦での囚人動員(とその犠牲)の恨みも重なって争乱を起こした形だったが、日本人達が本気で「革命」や「反政府活動」をしたかは疑わしいと言われている。
争乱で逮捕された多くも「政治活動」としか証言していないからだが、何か事を起こすには何もかもが不足していた事が大きな理由だった。
また原因の一つに、扇動に乗せられやすかった貧困層の問題があった事は間違いない。
しかし争乱と言っても、政府施設への武器、手製爆薬を用いた攻撃、要人暗殺などのテロ行為は、事前に情報が漏洩した事もあってほぼ全て失敗していた。
これは日本政府の対応が水際立っていたからでもあるが、事を起こした日本国内の共産党およびそのシンパ、反政府主義者の者達で仲間割れを起こして密告が多発したからだ。
特高が主要人物を事前逮捕できたり、憲兵隊によって爆弾製作現場が制圧された事例もあった。
争乱では、数十名の死者と数百名の負傷者、数名の亡命者、そして千名を越える逮捕者を出したが、日本自体の何かが変化することも無かった。
アメリカ、西欧諸国の市民は配信された映像を見て日本の赤化を心配したが、国民のほぼ全ては共産主義には毛ほどもなびかなかった。
むしろ共産主義への嫌悪感、忌避感を強め、日本国内での共産主義活動に類する活動がなお一層やりにくくなっただけだ。
同年の選挙でも無産党、社会党は惨敗を喫し、政治的影響力をほとんど無くしてしまった。
この時期の総理大臣は自由党の岸伸介。
公選制で最初の総理大臣となって支那戦争を指導した民主党の山本五十六と接戦の末に国民から選ばれた。
岸は、1953年の総理選挙の際に二期目を狙った山本五十六と競い合ったため軍(海軍のみならず陸軍含む)からの政治的反発もあったが、この時は軍からも協力を取り付けた事態を乗り切った。
また世論も、この時の総理が軍人出身の山本では無くて良かったと見ている。
軍人出身の山本が総理だったら、暴動鎮圧に軍が大量に動員されていたと考えたからだ。
なぜなら文官出身の岸ですら、警察だけでなく軍(憲兵隊)にも治安維持活動に出動させる事で速やかに鎮圧に成功し、一週間ほどで情勢は沈静化したからだ。
しかし、警察がテロリストや暴徒相手とは言え国民に対して銃を向けた事件ともなり、しかも編成されたばかりの重武装警察、通称「機動隊」が活躍した。
そして日本では、この争乱を切っ掛けに警察の重武装化、暴徒鎮圧組織が本格的に編成されたのが変化と言えば変化であり、軍と警察(内務省と兵部省)が協力したことは日本の近代官僚制度上で大きな前進と言われた。
また、テロ・暗殺対策として要人警護体制が大幅に強化され、要人警護隊(SP)も発足している。
さらには、「左派史観」上では近代日本史上で初めて民衆が国に対して反旗を翻したと言われる事もあるが、行ったのは一部の共産主義者と煽られたごく一部の大学生などの若者だけだった。
しかも日本人に共産主義の脅威を印象づけただけに終わり、日本人全般に対してはむしろ逆効果の方が強かった。
しかしこの事件では、「岸の草刈り」と言われたほど報道各社、報道関係者、大学・学識経験者、さらには政財界、官僚など多くの人々への「アカ狩り(レッドパージ)」が官民あげて行われたことは、異常な数の逮捕者もあり行き過ぎていたと言われることも多い。
その影響で、治安維持法の見直しが行われたほどだった。
そして今まで行き過ぎていた点を改めると共に、共産主義、全体主義以外の広い範囲を含んだ反社会的勢力に対する法律として見直され、過激な新興宗教にもその矛先を向けるようになってもいる。
警察組織も、特高(特別高等警察)の事実上の解体と広域警察としての再編が行われた。
また、この時期には大規模な凶悪事件が多数あったが、従来の刑法では裁ききれないため刑法の大幅改訂にも大きなメスが入れられ、時代に合わせた厳罰化が行われた。
そして岸内閣は、国内の混乱こそ見事鎮圧するも、国内外での共産主義の奔流に流された事そのものについては国民に不安視されてしまい、次の選挙で自由党が勝利するため連続二期については諦めざるを得なかった。
そして日本人が共産主義の脅威を間近で感じたように、世界中での自由主義陣営と共産主義陣営の対立は、いっそうの強まりを見せるようになっていく。