フェイズ103−1「共産主義の拡散」
第三世界が世界、特に欧米及び日本に認識されると同時に、イデオロギーで対立するアメリカ合衆国とソビエト連邦は、その第三世界をも自らの陣営に組み込もうと画策した。
主にアメリカは、自らの圧倒的な経済力を背景にした進出や援助という名の干渉を行い、広大な植民地を有したヨーロッパ列強に成り代わって、自らの価値観の押しつけと資本主義的拡大を行った。
そして即物的な金銭は大きな効果を発揮し、アメリカの影響力は最も広がった。
対するソ連は、共産主義との親和性が非常に高い「虐げられた人々」への思想浸透と軍事的なものを中心とする支援や援助で、影響力の拡大と共産主義革命の輸出を積極的に行った。
特にソ連の方が国力的、勢力的に大きく劣勢なため、勢力拡大への熱意は高かった。
そして共産主義陣営の努力は、1959年に相次いで実を結んだ。
1959年は、共産主義陣営にとって躍進の年と言われた。
韓王国、キューバ共和国、蘭領東インドの三カ所で、共産主義革命が成功したからだ。
また、共産主義が関わる騒動は日本でも起きた。
順に見ていこう。
韓王国は、西暦1392年に成立した朝鮮王国(日本側通称:李氏朝鮮)が、近代国家として完全独立した後に名乗った国名だ。
長い歴史の中である程度繁栄した時期もあったが、19世紀半ばの帝国主義全盛の頃は、酷い衰退と停滞の中にあった。
あまりにも停滞し過ぎているため、自力での近代化の能力も無かった。
それ以前の問題として、長らく清朝の属国状態にあった。
欧米列強が食指を伸ばさなかったのは、あまりにも経済的価値がなかったからに過ぎない。
清朝がこだわったのは、彼らに残された最後の属国だったからだ。
そして日本が自らの勢力下としたのは、ロシア帝国から日本を守るためだった。
そして1910年に韓王国と改名したうえで日本の保護国となり、1947年に完全独立を果たした。
しかし独立自体が「与えられた独立」でしかなく、国の実権を握る権力層は旧態依然とした統治以上のことをする気がほとんど無かった。
抜本的な近代化政策に手を付けると、権力層の既得権益、権力が民衆に強く脅かされるためだ。
しかしその結果、自然環境面では比較的暮らしやすい北東アジア地域にある国家としては、技術発展や近代化がひどく遅れたまま放置されていた。
日本と同程度に開発が進んでいれば4000万人に達していたと評価された総人口は、1955年の時点で約1500万人。
この数字も、日本などからの多少の技術や概念の導入と、一部の心ある人々、祖国に革新をもたらしたいと考える人々の努力があっての数字だった。
開国以前よりも、疫病などがあっても200万人ほど人口は増えていた。
また毎年数万人が、朝鮮の発展の遅れ具合に絶望して、主に満州に流民として流れていたのも停滞に影響していた。
総人口が少ない原因は、国土開発が中世レベルのまま放置されていて農業の生産性が非常に低く、医療技術と衛生観念が非常に悪いなどから、平均寿命が驚くほど低くかったからだ。
特権階級以外の教育程度が低すぎる事も、平均寿命の短さに強く影響していた。
医者の数も驚くほど少なかったし、西洋医学を修得した者となるとアフリカ並みとすら言われた。
20世紀初頭で識字率4%という数字は、とても独自の文字を持つ国家とは思えなかった。
だからこそ日本やアメリカは、発展の基礎となる公教育の普及を強く勧めたのだが、権力維持に汲々とする両班と呼ばれる世襲官僚達は、聞く耳を持たなかった。
善意に満ちたキリスト教の牧師が庶民に教育を施そうとしても、その牧師を投獄したり国外追放するのが常だった。
しかも特権階級は、ごく僅かに上辺だけ近代化された恩恵を自分たちだけが受けて、日本などから無理矢理ねだって得た支援で私腹を肥やすことしかしなかった。
特権階級の優秀な人の一部も、祖国に絶望して国外へと活路を見いだした。
そしてこうした状態は共産主義の温床になるため、日本などは韓王国に警察と軍隊の強化を支援して行わせたのだが、結局、イデオロギーの時代にあっては、独立から10年も保たなかった。
ソ連にとって、第二第三の仮想敵である日本、満州の間にあり、裏切り者のシベリア共和国(※極東共和国より改名)の裏側にある朝鮮半島は、非常に魅力的な場所にあった。
しかもそこにある国が、共産主義が浸透しやすい環境にあるのだから、手を出さない筈がなかった。
早くは第二次世界大戦前の1920年代から共産主義浸透の工作が行われたが、当時は保護下に置いていた日本が目を光らせていた事もあり、うまくはいかなかった。
また、第二次世界大戦中は、日本、満州への配慮としてソ連の側から浸透を中断していた。
だが、韓王国が完全独立すると、官憲の質の低下から締め付けが甘くなった。
しかも国内の経済状況が悪化し、特権階級への富みの集中がいっそう進んだ事も重なって民衆の不満が高まり、一気に共産主義の浸透が進んだ。
1950年の支那戦争の間は、特に日本などの目が緩んだこともあり、朝鮮半島内の共産党勢力は拡大した。
とはいえ支那戦争中は、ソ連の民間船舶が朝鮮半島に行くことが政治的に難しかったので、問題が深刻になることもなかった。
だが、支那戦争が休戦して北東アジア地域が表向き平和になると、ソ連の貿易という名の支援も再開されて共産主義勢力の浸透と拡大が進む。
賄賂で懐柔された朝鮮の官憲は、本来なら入港拒否すらしなければならないソ連の船を貿易船として招き入れた。
内政的な政情不安の決定打は、「アジア・アフリカ会議」での「失墜」にあるとされる。
歴史と伝統に裏打ちされた存在感を発揮するはずが、諸外国にまったく相手にされなかったからだ。
これが民衆に知れ渡ってしまい、さらに他国との比較情報が広く伝わり、特権階級の言う「世界に冠たる大韓国」や「優れた統治」が嘘だと暴露された。
この「情報漏洩」は、ソ連がバックとなって朝鮮国内の共産主義勢力が行ったことだった。
そして約2年の混乱を経た1957年3月1日、金聖柱率いる朝鮮共産党が蜂起する。
金聖柱は、長らく韓王国国外で共産主義活動をしていたとされる人物だが、今ひとつ素性は分かっていない。
第二次世界大戦が終わってすぐぐらいに誕生したとされる朝鮮共産党は最初は小さな勢力で、韓王国政府はもちろん日本や満州も事態を楽観していた。
日本や満州そしてアメリカは、頑なに近代化を拒む韓王国政府、特に権力や権威を笠に着て国民に対して悪事の限りを尽くす特権階級の官僚たちには、丁度良い薬だと考えていたほどだった。
しかし、事態は極めて短期間のうちに深刻化し、貧民階層と農村部を中心にして共産主義勢力が大きな広がりを見せた。
しかも広がったのは「原始共産主義」であり、共産主義の中でもたちが悪い思想だった。
原始共産主義が急速に広まるほど、当時の朝鮮半島の発展が遅れていた証拠でもあった。
そして枯れた野に広がる野火のように、革命と言うよりも歴史的な意味での反乱が広がっていった。
そして内乱であるため、近隣の日本、満州も簡単には干渉することが出来なかった。
しかも韓王国政府は、武器の無償供与や資金援助こそ求めるも頑なに直接的な支援や救援の要請を出さないため、事態は短期間のうちに悪化の一途を辿った。
内乱鎮圧の軍隊は、特権階級である将校(武班)を殺害して兵士が寝返る事件が頻発し、瞬く間に共産党軍の規模は膨れあがった。
状況としては、フランス革命の初期に少し近かった。
フランス革命で離反した中心が下士官、下級将校だったのに対して、朝鮮半島での場合は階級がさらに低い兵卒が離反勢力の中心だった。
故に統率は取れず、無軌道に混乱を拡大していった。
王族が空路で首都京城 (ソウル)を脱出したのは1958年2月で、取りあえず確保されていた済州島へと逃れた。
しかしそこには、既に救援の日本軍の姿があった。
もっとも、王族などは最初は日本に逃れようとしたのを、日本の航空機(戦闘機)が強引に済州島に行かせるために進出したと言われている。
そしてしばらくの間、朝鮮半島全土では数百年間たまりに溜まった膿が吹き出したかのような、民衆による特権階級への凄惨な復讐と殺戮が繰り広げられた。
その間日本を中心とする近隣諸国は、海軍と空軍を総動員して朝鮮半島を海外の共産主義勢力に対して封鎖。
陸続きとなる北の半島の付け根も、満州帝国軍とシベリア共和国軍が封鎖して、誰も入らせないようにした。
逆に韓王国から逃げ出した者は、国境近辺の収容施設に留め置いた。
共産党のスパイの可能性もあったからだ。
当然ながらソ連など共産主義諸国が強く非難したが、日本などは一歩も譲らなかった。
朝鮮半島に近づこうとした国籍不明の潜水艦に、威嚇のソナー照射や遠距離からの爆雷投下までしたほどだった。
この封鎖では上記したような海軍の活躍が目立ち、大戦後不遇な扱いを受けていた海軍復活の切っ掛けの一つともなった。
日本、満州が本格的に動き出したのは、革命という名の反乱がいよいよ共産主義国家誕生に傾いた時だった。
まずは、潜入させていた特殊戦部隊が突き止めた共産党勢力の中枢部を、韓王国軍に所属を変えていた機体が奇襲攻撃で空爆。
混乱を狙ったものだったが、外国勢力の干渉はないと考えていた為、朝鮮の共産党はほとんど何の対策も取っておらず、この時点で朝鮮共産党幹部の多くが死傷。
金聖柱も、以後姿を見せることはなかった。
独立準備のため、京城の中枢に集中していたのが徒になった形でもあった。
さらには朝鮮国内に放たれた「暗殺部隊」の手によって、さらに多くの幹部が殺害された。
また少し前からは、内輪もめをさせるために様々な欺瞞情報を流して、共産党内に内紛と不協和音をもたらす。
このため内部での粛清、権力闘争も少なくなかった。
そして空爆と同時に、すでに進駐準備を終えていた満州帝国軍が、国内で待避中の韓王国政府の要請を受ける形で、朝鮮北部国境を流れる鴨緑河を渡河。
その際に、満州帝国旗だけでなく皇帝旗である龍旗(黒旗)を高らかに掲げて進軍した。
そして依然として中世の中に生きていたに等しい朝鮮半島の人々は、共産主義的情熱で外国の干渉に敢然と立ち向かうどころか、俄作りの赤い旗をその場で棄てて共産党委員、赤軍将校を殺害し、恭しく皇帝旗に深く跪いた。
一通り両班など特権階級への復讐をちょうど終えた今、実現されるかどうかも分からない公平や平等を唱えながらも、かつての官憲(両班)のように掠奪や蓄財に励む何だか良く分からない連中よりも、皇帝旗こそが自分たちには必要と感じられたのだ。
歴史上でまともな統治を施してくれるのが、大陸中央からやって来る皇帝旗を持った者達だからだ。
満州が中華帝国ではないと言う反論もあったが、既に中華帝国と呼ぶべきものは他に存在せず、中華帝国最後の皇帝を担ぐ国なのである程度の資格があると見られていた。
日本軍が主力となった南部からの「韓王国救援部隊」も、形だけ満州帝国が参加してこちらでも皇帝旗を前に押し出して進んだ。
日本の旗には形だけは跪くだけの朝鮮半島の人々も、皇帝旗には心から跪いた。
そして俄赤軍となった筈の朝鮮半島の民衆は、皇帝旗とその旗を掲げた軍隊が持ってきた物資と外貨になびいた。
独立一歩手前までいった筈の朝鮮共産党軍は、夏の日差しに晒された氷のように消えていった。
もはや新国家建設や革命、反乱どころではなく、僅かに残った生き残りの共産党員は北部の山奥に逃れるより他無かった。
そしてその後は細々とゲリラ活動を続けるも、民衆からの支持を得ることはついに無く、小規模な「共産党ゲリラ」以上に発展する事は無かった。
そしてソウルに返り咲いた韓王国の王族と政府は、日本、満州、特に満州の指導のもとで、ようやく数百年ぶりの大改革と近代化を始める事になる。
とはいえ、近代的な統治体制の構築は当然として、初歩的な治山治水、公教育普及など近代国家の土台から作らねばならない朝鮮半島では、これ以後半世紀以上かけた西側世界で標準的とされる立憲君主国建設の長い長い旅が待っていた。
しかしあまりにも酷い国内状態のため、まともな国家だと日本などが認めるまで朝鮮住民の海外渡航の大幅制限などを実施するなど、大きな制約下に置いた。
内乱と粛清の嵐で識字率が1%台にまで低下しており、旧来の官僚組織も壊滅しているため、自力ではほとんど何も出来なくなっていたのだ。
一時は国連の介入も考えられたが、国連を介したソ連の干渉を警戒したため満州、日本主導となった。
特にこれ以後、朝鮮半島の世話は満州が見るようになっていく。
事態の進展に唖然としたのはソ連など共産主義陣営だったが、その後彼らの公式文書には朝鮮半島での共産主義運動は無かったことにされ、単に韓王国の腐敗した特権階級に対する民衆蜂起に過ぎないと記録されるに止まった。
何にせよ、これほど見事に民意によって共産主義革命が完全に失敗したのは、後にも先にも朝鮮半島だけだった。
朝鮮半島情勢が一瞬で沈静化した頃、アメリカのすぐ側にあるキューバで革命騒動が起きた。
キューバは、米西戦争後の1898年にアメリカ手によって一応は独立していた。
しかし扱いは実質的に保護国で、植民地も同然だった。
アメリカにとってのキューバは、砂糖と南洋のフルーツ、タバコ(葉巻)の生産拠点にすぎなかった。
キューバ市民も実質的に農奴でしかなかった。
経済植民地という言葉がこれほど相応しい場所もなかった。
しかし、第二次世界大戦中盤では激戦地の一角となったため、アメリカ政府はキューバに慰撫を兼ねてかなりの援助を実施する。
加えて戦争協力の報償も兼ねて、奪っている形の自治権の幾つかも手放していた。
このおかげで、特に第二次世界大戦中はキューバの国民感情はある程度親米的となった。
親米的状態は戦後もある程度続いたが、1950年頃にはアメリカ政府はキューバへの慰撫はもう不要だと考えるようになった。
しかも全ての期間において、アメリカによるキューバの経済支配が緩んだわけではなかった。
戦争中と戦後は、政府の働きかけもあって多少は労働者への還元も行われた。
だが、ほとんどが形だけで、民衆の経済的不満の解消は実質的にアメリカ政府の援助だけとなった。
しかもアメリカは、キューバの民主化を進める事はなく、むしろ親米独裁政権を後押しし続ける。
この点は、アメリカのアジア政策と対照をなしているが、これはアメリカにとってのカリブ海地域が「裏庭」に過ぎず、侵される事のない自分たちの利権だと考えていたためだ。
しかも戦後のアメリカ合衆国は、ジャマイカ島、小アンティル諸島全域など旧欧州枢軸陣営の島々を国連委任統治領の形で支配下に置くことで、キューバだけでなくカリブ海地域への支配欲とでも言うべきものを強めてしまい、戦争中に緩和されたキューバでの親アメリカ感情を急速に悪化させてしまう。
そして1952年の軍事クーデターで独裁色のより強いバティスタ政権が成立すると、アメリカの政権への支援と平行してアメリカの経済支配がさらに強まった。
しかも軍事政権は、アメリカが緩和を求めるほど刃向かう民衆を容赦なく弾圧したため、プランテーションで虐げられる農村部を中心に共産主義的な反バティスタ運動が広がった。
1953年から始まった革命運動は最初は失敗した。
しかし諦めることなく続けられ、1959年の新年にバティスタが突如辞任と亡命をすることでキューバでの革命は成功する。
あまりに突然だったので、アメリカも干渉する事が出来なかった。
この時点で革命を主導したフェデロ・カストロらは、アメリカと交渉を持とうとした。
革命を行った組織のかなりが共産主義的だったが、カストロ自身は革命を起こしはしたが共産主義政権を作るつもりはなかった。
だが、アメリカと言うより、それまでキューバを経済的に支配していたコングロマリット、シンジケート、マフィアたちは怒り狂い、キューバの革命政権に共産主義のレッテルを貼り、アメリカ軍を大挙出動させて革命を押しつぶそうとした。
今までキューバに散々悪行を行ってきた彼らに相応しい行動だった。
同時に、アメリカの対キューバ政策を失敗させたのは、間違いなく強欲極まりないアメリカのコングロマリット、シンジケート、マフィアたちだった。
ここでカストロらキューバの中道勢力も腹を括り、ソ連が助けの手を差し出すことで社会主義国家キューバの道筋が一本道となってしまう。
同じ民衆の手による革命ながら、その結末は朝鮮半島と正反対の結末となった。
そして以後のキューバは、巨人アメリカにとって喉に刺さった小骨のような存在となり、数年後には世界を揺るがす事件へと発展していく。
そしてもう一つ世界を変えたのが、インドネシア(蘭領東インド)での共産主義革命だった。