フェイズ102−1「第三世界と欧州世界の再編」
1955年4月、「アジア・アフリカ会議(AA会議)」が、タイの首都バンコクで開催された。
会議には、この時点で独立を勝ち取っていたアジア、アフリカ地域の首脳もしくは首脳級の人物が集った。
会議を主導したのはインドのネルー首相、エジプトのナセル大統領、満州の鮎川首相、イランのモサッデグ首相だった。
タイは会議開催のホスト国となったが、それは帝国主義全盛の時代に独立を守り通した事への敬意を現したためで、強い指導力を持つ首相がいたわけではなかった。
(※同様の理由でエチオピアも候補に挙がったが、当時政情不安があるため選ばれなかった。)
また、植民地独立運動で忘れることの出来ない人物であるインドのマハトマ・ガンジーは、1953年に84才で老衰で死去していた。
満州では、鮎川首相ではなく康徳帝(溥儀)が出席するという噂もあったが、周囲の強い反対もあって実現しなかった。
その代わり康徳帝は、後日インドやイラン、タイ、サラワクなどアジア諸国を、絢爛豪華な帝室ボートで時間をかけて歴訪している。
日本にも長期滞在して、存在感を発揮した。
また、主に支那地域にある共産主義陣営に属している国は、ほとんど招待されていない。
支那共和国も、戦争再開の切っ掛けになりかねないとして招待されなかった。
さらに日本も首相級の招待はされず、ほとんどオブザーバー参加にとどまった。
共産主義陣営の国と日本が招待されなかったのは、日本は会議の趣旨に反する国際影響力の大きい大国であり、共産主義陣営に属する国はまさに共産主義陣営に属していたためだ。
逆に満州が招待されているのは、大戦後に日本、アメリカの衛星国から脱却した国だと見られていたからだ。
しかし会議自体は、今まで自分たちを虐げてきたヨーロッパ、アメリカに対する反発が強い国がほとんどのため、反ヨーロッパ、反アメリカ色がどうしても強くなりがちで、共産主義国家の総本山であるソ連と関係の近い国も少なくないなど、完全な中立、完全な第三の陣営とは言えなかった。
なお、会議開催の時期は少しばかり微妙だった。
それまで続いていた欧米諸国による植民地支配の綻びが本格化して、いよいよ由来で独立の機運が高まっていたからだ。
実際、会議に参加したスーダンは、会議の時点ではまだ正式に独立していなかった。
東南アジアは、混沌としていた。
インドシナ地域では、ベトナムで共産主義勢力によるゲリラ活動を中心とした独立運動が第二次世界大戦末期から長年続き、それが1954年にようやく沈静化したばかりだった。
特に支那戦争が終わった直後に、中華人民共和国(自称)がウンナン共和国を強引に通過してベトナムの共産主義勢力を支援した事で情勢が悪化しかけた。
しかしアメリカ、日本などが断固とした態度をとってウンナン共和国を支援した事もあり、ベトナムの共産主義勢力に大量の武器が渡ることもなかった。
しかも副産物として、ウンナン共和国、コワンシー共和国での共産党狩りと漢族系住民の強制移住がさらに進められ、混乱は見られたものの結果として政治的安定性は増す事になった。
そして支援のないベトナム共産主義勢力は、日本などの支援も受けたフランス軍に軍事的に押しつぶされ、一部の生き残りが何とか共産圏の国に亡命して内乱は鎮圧された。
一時期激戦の行われたディエンビエンフーは、結果としてベトナム共産主義勢力の墓標となった。
だが、インドシナの植民地維持に疲れ果てたフランスは、インドシナ地域を放り出して、以後の事を国連に委任。
そして日本などの支援のもとでベトナム王国、ラオス王国、カンボジア王国が正式に独立し、国連に加盟したばかりだった。
また、近在のインドネシア地域(蘭領東インド)では、まさに独立運動が燃えさかっていた。
独立に至っていないのは、本格的な独立運動が起きたのが1954年に入ってからだという事と、民族(ジャワ人と非ジャワ人)、宗教(イスラム教と非イスラム教)、そして共産主義とそれ以外という複雑な状態で強く対立しているためだった。
独立運動の中心人物も、主に民族主義と共産主義に別れており、統一性に欠けていた。
今までインドネシアでの独立運動が低調だったのも、戦後のオランダがインドネシア内の対立をうまく利用していたためだった。
インド連邦共和国でも、国内での宗教対立と民族対立のため、この時期はやや不安定だった。
特にガンジー(初代大統領)の死去で、ネルー首相の権力が強まっていた事が影響していた。
と言うのも、ネルー首相は強硬ではないにしてもヒンズー至上主義者で、他を冷遇する政策が多くなった為だ。
二代目大統領には宗教的調和を求めてイスラム系のグラーム・ムハンマドが選ばれたが、それでもネルーの実質権力は非常に大きくなっていた。
しかし既に建国から十年近く経っていたおかげで、インド全土での政治的安定性は既に高まりを見せていた。
またヒンズー優位の状態も、「ガンジー派」とでも呼ぶべき中道勢力の成長でかなり緩和されていた。
イスラム教勢力も、ヒンズーとの混在地域に根を張る共存派と穏健派が中心となって、何とか激発することはなかった。
そしてこの時期の混乱を乗り越えて以後のインドでは、ヒンズー系政党と非ヒンズー系(イスラム系中心)+中道勢力系の連合政党による二大政党時代へと流れ込み、多少不安定な状態を続けつつも世界最大規模の民主共和制国家として大成するための動きを強めていくようになる。
この政治構造では、優位にあるヒンズー教に対して、世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教(+ラマ教))が連合するという非常に珍しい光景を見ることができた。
そしてインド中心部ではヒンズーが強いが、他国と接する地域に近いほどヒンズー以外が強くなるため、インド全体としてヒンズー以外の宗教を疎かに扱うことも難しかった。
また、少数民族、少数宗教を必要以上に冷遇すれば国内問題になるため、穏健な政治が心がけられるようにもなった。
ちなみに、日本は旧イギリス領インド帝国を中核に、隣接する多くの地域を内包したインド連邦共和国の建設に尽力した。
日本にとっては大きな市場だったからだ。
しかし民族の自主独立に反すると国内外の一部で非難もされたが、この時は国連委任統治とする事の面倒と、統治能力の低い小国の早期の軍国主義化を嫌った事、分立した場合に隣国となった国同士の対立、などを原因としていた。
だが宗教的に見ると、インド連邦全体としての安定につながっていたため、日本の深謀遠慮があったと言われることがある。
しかしインド地域全体が一つの巨大国家となった影響で、インド自身が「外の世界」を気にする傾向を強めたと言われる。
当時は覇権主義はなかったが、1960年代以後のインドはアジアの大国として近隣に対する傾向を強め、また各地に影響力を拡大するようになっている。
分立していたら、隣国同士となったことによる内輪もめで、影響力拡大を外に求めるどころでは無かったと言われる事も多い。
だがそうなると、今度は地域全体の安定性が低下する可能性が高いため、インド周辺の安定を求める国々にとっては一長一短と言えた。
もっとも、この頃のアジア、アフリカ世界にある主権国家は、君主国か立憲君主国が非常に多かった。
君主国の中には、サラワク王国の白人王族のような変わり種までいた。
アラブ地域も王政(絶対王政)がほとんどを占めていた。
参加国で戦後安定していたのはイラン、満州、シベリア、タイぐらいで、インドは世界最大規模の民族問題と宗教問題を抱えながらも、随一の大国という事とネルーの指導力によって会議の中心にいる状態だった。
エジプトも、各国に利権が切り刻まれたスエズ運河の国有化問題を巡って主にイギリス、フランスと対立し、第二次世界大戦後に運河会社の株式の半分を持つようになったアメリカとの関係も思わしくなかった。
シベリア共和国は、戦後はいっそう日本、アメリカ、満州など自由主義陣営の国々との関係を深め、ソビエト連邦からの決別の決意として国名も極東共和国からシベリア共和国に変更。
国内で一応は共産主義が認められるも、完全な民主共和制国家となった。
同会議にも独立国として参加したが、ほぼ唯一の白人国家のため終始控え目な態度を通すことになる。
満州は、企業国家と言われるほど合理的で強引な経済発展で躍進を開始していたが、ソ連と直接国境を接して軍事力を向け合って、さらに日本、アメリカとの同盟関係にあるため、会議を主導できる立ち位置にはなかった。
イランも直接ソ連と向き合う点は満州と同じだが、戦後日本の支援と指導による「イラン・モデル」とも言われる少し特殊な民主制の導入によって、政治的な安定を得ていた。
また、日本が長期的に安定した資源供給に力点を置いて、イラン石油会社(旧アングロ・イラニア石油)とイランの関係を通常の国家と企業の関係に順次置き換える事で、経済的な安定と発展の道が開かれていた。
しかもイランは、石油で得た資金を一部の者が牛耳ったり安易に国民にばらまいたりせずに、公教育の普及、社会資本の整備、循環型産業への投資、近代産業の育成など国家の土台作りに投じることで安定性をさらに増しつつあった。
しかも日本が全面的に支援しており、その発展速度は近隣諸国が警戒感を高めざるを得ないほどだった。
そしてイランは、イスラム教の中では他と違う宗派(※スンニー派とシーア派の違い)と、宗教要素を残すも民主共和制を取り入れた事で、アラブ諸国との関係が悪化とは言わないまでも冷めていた。
特に隣国イラクの警戒は、国内にイランと同じシーア派イスラム教徒が多い事もあって年々高まり続けた。
アジア・アフリカ会議で失笑レベルの失態を演じたのは、誰も注目していなかった韓王国だった。
同国は現王朝だけで550年以上の歴史と伝統を持つ国と自ら宣伝してリーダーシップを取ろうとしたが、歴史と伝統ならギネスブックにも記録される世界最古の皇族を持つエチオピアと日本に太刀打ちできるはずもなかった。
また、国力もなく指導力のある首脳級の人物もいないため、同国の行いは全て空回りするだけに終わっている。
この時の空回りが、その後の混乱に影響したと言われるが、全ては自業自得とも言えるだろう。
以上のように、それぞれの国が大なり小なり問題をかかえながらも会議は成功裏で終わり、米ソ両大国を中心とした対立構造が色濃く見える中での「第三世界」の存在を世界に印象づけることに成功した。
また会議では、米ソを中心とする大国主義に対抗して反植民地主義と平和共存を基調とする「平和十原則」を採択。
しかし、10年後の第二回会議は、開催予定国だったアルジェリアで政変が起きたため実現せず、その後も開かれなかったため会議はこの一回限りとなった。