俺はヴィンツェンツ。-Ich bin Vincenz.-
婚約破棄はこれで二度目だった。
一度も手紙を出さず夜会で手を引かず、誘われた観劇もすっぽかしたらそうなる。
相手の御令嬢の顔も憶えていない。
最初から憶える気などなかったから。
こうなることを望んでいたから。
それは俺と結婚することが御令嬢の幸せにつながらず可哀想とか、そんな相手を思いやっての考えではない。
残す気のない俺の胤を、誰にもやる気がないだけだ。
家には数年帰っていない。
だから今日も眠るのは朝廷宿舎で割り当てられた自分の部屋。
家政はすべて幾度か話したことのある家令に任せ、必要な書類だけ署名して送る。
叙爵され領地をあてがわれ、それをいじるのが楽しかったのは始めの数年だけだった。
今はただ問題が生じたときにいくらか指示し、その責任を負えばいい。
とてもつまらなかった。
仕事が楽しいかと言えばそうでもない。
特に目新しいことはなく、すべてがやり過ごすだけの繰り返しだ。
時折なにか目を惹く問題が起こっても、心を惹くまでには至らない。
世界の広さなど知らないが、少なくとも俺の周りはくだらないことだらけだ。
なにか楽しめることを探しに行こうなどという、希望に満ちた気持ちははなからない。
疑問に思うこともやめてしまった。
それはいつのことだったか。
たぶん俺の中には考えることを諦めた俺がいる。
上滑りの毎日をただ繰り返す。
勅命によって今の役に就いた。
排せないなら利用するということだろう。
体の良い拘禁だ。
きっとそれはとても都合がいい。
俺を閉じ込めておきたい父親にとって。
世間体を気にしながらも俺を疎む父親。
未だに確証がなくて俺を切り離せない父親。
父親?それはなんだろう。
ただの呼称でしかない。
顔もよく憶えておらず、物心ついてから今に至るまでまともに会話もしたことがない。
俺によく似ていると言う者もいれば全く似ていないと言う者もいる。
どちらも似たような奴らだ。
誰かの醜聞を主食とする奴ら。
母の姿はもう記憶の彼方にしかない。
奴らが言うにはあばずれらしい。
俺は誰の胤だ。
ふたりの秘書が着いた。
どちらも笑えるくらい裏のない人間。
一体どういうつもりなのか。
監視目的ならとんでもない人選ミスだ。
しかしこれはこれでいい。
くるくると変わるその表情を、眺めていれば時間が過ぎる。
面白い、と思い始めた。
ある時から秘書の片割れが笑わなくなった。
もうひとりに訊くと奥方が危篤なのだという。
言葉の意味は分かったが、それでなぜいつものように笑わなくなるのかわからなかった。
勧めに応じて笑わない秘書に休暇をやった。
倒れそうな様子で礼を言った。
葬儀には参列した。
行く必要について訊ねたら、もうひとりの秘書が珍しく声を荒げて怒ったから。
驚くという気持ちを久しぶりに感じた。
生まれて初めて参加した葬儀だった。
だれもかれも悲しそうで、俺はただ笑わない秘書の横顔を見ていた。
年が変わったその時季。
少しずつ笑うようになった秘書が、俺と同じように朝廷宿舎に寝泊まりするようになった。
どうしてかを片割れに訊いてみた。
きっと、寂しいのだ、と言われた。
奥方がいないことが思い出されて、きっと独りであることが堪えられないのだ、と。
堪えられないほどの気持ちとはなんだろう。
そんなものがこれまでの俺にあっただろうか。
どれだけ振りかわからないが考えることをした。
寂しいとはどんなことなのか。
あてがわれたふたりの秘書を見る。
もしかしたら、このふたりが死んだりしたら、この部屋から消えたりしたら、寂しいと感じるのかもしれない。
そんなことを、ふと、考えた。