#9「歪んだ 親子」
それから1時間半。6時を過ぎた。
「これは、こっちの二つを先に足し算して……そしたら、ほら。さっきの公式がまた使えるよ」
「ん……あー、なるほど!」
静寂の部屋には、時計が針を刻む音と、ペンがその身を紙の上で滑らせる音だけが鳴っている。
私は解答書に目を通す。ちーちゃんが書いた数字は、そこに載る数字と一文字も狂わず一致していた。
「……うん。全部オッケー」
「おーし!はぁぁ、疲れた」
「じゃあ、今日はこのへんにしよっか」
最初はどうなることかと思ったけど、ちーちゃんは想像以上に覚えが早かった。ちゃんとやれば出来る子だった。
ちーちゃんが畳に寝そべるのを横目に見ながら、私はスマホの電源を入れた。
『今千夏ちゃんの家?夕飯食べる?』
お母さんからの通知だ。私は画面のキーボードに指を乗せる。
『食べる。もうすぐ帰ります』
そう打ち込んで返信し、スマホをポケットにしまってカバンを拾い上げた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「おー。外まで送るよ」
ちーちゃんはゆっくりと起き上がり立ち上がり、部屋の戸を開けた。
「いい感じに進んでるから、この調子で毎日頑張れば大丈夫かな」
「マジで!?」
「うん。明日も頑張れる?」
「たりめえよ!」
ちーちゃんは笑顔でそう言った。話すうちに階段を降りきり、玄関が見えるところまで来ていた。
「あれ?」
玄関の戸が、丁度開くところだった。
「あっ……」
ちーちゃんが小さな声をあげた。少し震えたような声。
戸を開けたのは、スーツを着た男の人だった。カバンを右手で持ち、左腕に白衣を抱えている。整った黒髪に、引き締まった厳格な面持ちだ。
「……千夏、その人は?」
その人__それが私を指していると気づくのに、2秒かかった。
「……あー、えっと。柿田翼、です。初めまして。ちーちゃ……千夏ちゃんの友達です」
私は深く頭を下げる。視線を向けられて緊張してしまい、たどたどしい話し方になってしまった。
「柿田さんか……初めまして。矢市垣理創です。まあ、私の名は忘れてしまって構いません」
理創さんは、私よりも深く頭を下げた。矢市垣。上の名前だけで、ちーちゃんのお父さんだと理解できた。
「娘がお世話になっています。こんな娘ですから迷惑をかけるでしょうが、どうか__」
理創さんが話す最中。
「邪魔」
ちーちゃんが私の前に立ち、片手で彼を押しのけようとした。
「ちょ……ちーちゃん!お父さんにそんな……」
「千夏」
理創さんはじっと動かず、ちーちゃんの顔を見つめる。ちーちゃんの顔は見えない。睨み返してたりしたらどうしよう……。
「私は柿田さんと話しているんだ。お前こそ邪魔するな」
私はこの時、確かに感じた。この二人の関係の違和感を。歪みを。
「……そうかよ!」
ちーちゃんは怒鳴るように言いすてると、踵を返した。
「あの、ちーちゃ__」
「……気をつけてな。事故んなよ」
すれ違いざまに私の肩を叩いてそう言うと、階段を上がっていった。
ガンッ!戸を強く閉める音が響いた。
「ひゃっ……じ、じゃあ私、これで……」
色々起こり過ぎて、頭が追いつかない。けど、とりあえず理創さんにそう言った。
「……すみません。お気をつけて」
最後まで、彼は丁寧な口調で。
それは、機械的だった。
「…………」
時刻は7時を回った。あれからずっと、さっきのことが忘れられない。
リビングには時計とエアコンの音が交差する。今日はかなり蒸し暑い。
「翼?」
「……え、あ、何!?」
だいぶぼーっとしていたらしい。お母さんの呼びかけに気付くまで数秒かかった。
無意識に、視線は自分の目の前のテーブルに向かう。夕飯はほとんど食べ進んでいなかった。
「大丈夫?全然食べないけど……具合悪い?それとも学校でいやなことあった?」
「ああ……大丈夫!平気だから!」
私は慌てて答えた。何にせよ、お母さんには心配をかけたくない。今まで散々迷惑かけてきたんだから。
だけど……ダメだ。やっぱりちゃんと聞かないと。じっとしていられない。
私は椅子を強く引き、立ち上がった。
「ごめん、後で食べるから!」
お母さんが何と言ったかも聞かずに、私は部屋を飛び出した。
お母さんにも、この話は聞かれたくない。私は自室にあがり、スマホの電源を入れた。ちーちゃんの連絡先をタップして、電話マークを押す。
プルルル……プルルル……聞き慣れた発信の音が5回ほど鳴った後、止んだ。
「……翼か。もしもし」
「あ、ちーちゃん?えっと……」
……あぁ、なんて切り出そう。電話かける前に考えておけばよかった。
「……悪かったな、さっき」
いつもより低いトーンで、ちーちゃんは言った。口調も落ち着いて……というより、沈んでいる。
「ああ、うん。私は大丈夫だけど……」
向こうから話を切り出してくれた。チャンスは今しかない。
「ねえ。お父さんと何があったの?」
そう聞いた。的確な聞き方だったかなんて、確かめる術はない。
「…………」
ちーちゃんはしばらく、黙ったままだった。冷たい静寂は、10秒ほどして破られた。
「ごめん。あたしんちの問題だから」
「それは、そうだけど……でも」
確かにそうだ。私は首を突っ込んでいい話じゃないのかもしれない。
「……でも、心配だよ!友達だもん!」
でも、私は"首を突っ込みたい"。大切な友達のために。
「役に立てるかは分からない。でも私、力になりたい!だから……」
「………………あーあ。わーったよ!」
ぶっきらぼうに、ちーちゃんは言い捨てた。
「ほんっとにお人好しだな、お前!」
「ちーちゃん……?」
「……でも、ありがとな」
ちーちゃんの声は、またいつもの声色にもどった。クールだけど、優しさのあるあの声色。私の好きな声に。
「じゃ」
ちーちゃんが言う。
「昔話だ。むかーしむかし、3年前の物語」
時は、過去へと流れていく。