#6「蓮業寺の カリスマ」
秒針の刻む音だけが鳴る寝室で、あたしは今日も目を開けた。7時半。月曜日の朝7時半。
「……起きなきゃ」
心の中の怠惰な自分を押しのけ、あたしは起き上がった。立ち上がり、ゆっくりと背中を伸ばす。
質素な部屋を歩き回り、靴下を履き、制服に着替える。顔を洗い寝癖を直し、あーやること多いな。荷物の用意(置き勉してるから筆箱ぐらいだけど)を済ませて、階段を降りて一階に向かう。
キッチンに行き、水筒にお茶を注いでカバンに入れた。買い置きしていたパンを手に取り、そのまま玄関へ向かう。朝飯はいつも登校中に片手に摘んで食べている。
玄関へ歩いて行く途中、ふと隣の和室が目に入った。半開きの戸の隙間から、テレビでニュースを見る男の姿が__親父の姿があった。
「…………」
挨拶はしない。顔を合わせてしまう前に、あたしはそそくさとその場を離れた。まともに日常会話もしなくなって、もう何年だろうか。それだけどうでもいい父親なんだ。
母はこの家にいない。昔離婚した。この家で、あたしたちは"二人"で"独り"だ。
忘れよう。あたしはすぐに靴を履き、ドアを開いて駆けるように家を出て行った。
彼女を迎えに行こう。
午前8時41分。私、柿田翼とちーちゃんは、教室に続く廊下を早足で突き進んでいた。1時間目は45分に始まるから、かなり切羽詰まっている。
「まさか、自転車ひさびさすぎて乗れなくなってるなんて……」
ちーちゃんに迎えにきてもらった後、私も自転車に乗り込んだ。だけど一漕ぎ目で大きくずっこけた。メタボにならないよう、引きこもり中も軽い筋トレはしていたのだが、自転車は定期的に乗らないと筋力関係なくダメになるようだ。
「ごめん、私のせいで……」
「気にすんな。遅刻しなくて済むっぽいし、遅刻しててもあたし日常茶飯事だし」
ちーちゃんは、笑ってそう言ってくれた。
「おー、こっちこっち」
歩きすぎた私の肩を、ちーちゃんが掴んだ。私たちのクラスは1年3組。いつのまにか、隣の4組にまで行ってしまいそうになっていた。
「えと……教室入れそうか?」
ドアに鍵がかかってないか、とかそういう意味ではなかった。私の心中を察してくれたらしい。
「……ちょっと、緊張する」
正直、ちーちゃん以外の子とはまともに話せる気がしない。柿田と矢市垣では、席もだいぶ離れているだろう。少し不安なのが正直なところだ。
「じゃ、後ろのドアからこっそり入れ。あたしが前から入ってみんなの気、引くから」
「うん」
気を引く。どうやって引くのかは知らないけど、ありがたかった。
「翼の席は確か……えっと、貝村の次だから……奥から2列目の、後ろから3番目な。じゃ」
ちーちゃんはそう言って、教室の前のドアを開けた。私もこっそりと後ろのドアへ向かう。幸い、奇跡的に、教室の誰も私に気づいていない。
「おはようございますっ!!うおっとおっ!!」
ちーちゃんはなんと、大声をあげながら教室に飛び込み、そのまま大げさに大きく転んだ。頭から突っ込んだ。やばい、周囲の視線がちーちゃん一点に完全に集まっている。助かる。助かるんだけど、あんなことされたらもうどうやっても恩返しできそうにない。そのぐらいの羞恥を被ってくれた。
「あら、ごきげんよう矢市垣さん。ついに頭がおかしくなられたんですね」
「るせっ」
偶然ちーちゃんのそばに立っていた綺麗な黒髪の子が、彼女にそう言った。仲悪いのかな……。
でもとにかく、今の内だ。とりあえず席について、そのあとは……うん、とりあえず空気になろう。隣の席の子にさえ気づかれないくらい空気になろう。
とりあえず、そーっと……あれ、なんか鼻が__
「はっくしょん!!」
え……今の、誰のくしゃみ?
「……ちょ、翼……」
ちーちゃんがそう呟いた。周りを見ると、すでにクラスの視線は私に向いていた。
私、自分の鼻を絶対に許さない。
『え……あれ誰?』『柿田さん……だよね……?ほら、ずっと休んでた』『え、学校来たの?』『てか翼って誰の名前だっけ?』
声が聞こえる。雑音に囲まれる。やめて。私の話しないで。他人なんだからほっといて。ただここにいるだけでなんでそんなに注目してくるの。やだ。やだ。やだ。やだやだやだやだやだやだ
「はい!」
雲を搔き切るような声だった。
「皆さん、あと10秒で始業です。お静かに。席について」
先ほどの、黒髪の子の声だった。
『そだねー』『ごめーん、蓮業寺さん』
周りが静まり、みんな大人しく席についていく。まだコソコソ話をする子はいるけど、概ね静かになった。彼女がたったあれだけの言葉で、この場を鎮めた。まるで魔術のようだ。ああいうのをカリスマって言うんだろう。
だけど、気がおかしくなりそうだった私の気分も、あれで少しだけ落ち着いた。とりあえず席に座り、1時間目の英語の準備をした。教科書を机に出すと同時に、始業の鐘が鳴った。
ようやく50分が経ち、1時間目が終わりを迎えた。先生が荷物をまとめて出て行く。
正直死にそうだ。精神が磨り減った。50分間、ずっと周りばっかり気にしてしまっていた。奇跡的に、一回も先生に指されなかったのがありがたく思えた。ちーちゃんはちょいちょい寝ていた。
私はすぐに席を立ち、廊下のそばの席に座るちーちゃんの元へ駆け寄った。
「ちーちゃん……助けて……」
崩れるように彼女の机の前に倒れこむ。
「おーおー。めっちゃ大変そうじゃん」
他人事じみたコメントだ。
「他人事じゃん……」
「わかるよーとか言っても、『あんたに何が分かるの!』って怒られるからな」
「もう!それ馬鹿にしてるでしょ!」
そんなやり取りをしている最中も、やっぱり私は視線ばかり気になってしまって、すぐに周りをきょろきょろする。なんだか、変な目で見られている気がする。多分気のせいじゃない。
怖いものを、異物を見る目だ。怖いのは私の方なのに。
「翼」
ちーちゃんに呼びかけられて、私は視線を彼女に戻した。
「最初のうちだけだから。頑張れ」
「……うん」
小声でそう囁いてくれた。本当に、彼女に助けられてばっかりだ。
「さて、それより……何だよ蓮業寺。そんな目で見て?」
ちーちゃんは言った。私にではない。後ろの席、あの黒髪の子、蓮業寺さんに言った。彼女は目を丸くして私達を見ていた。みんなとはまた違った視線だった。
「や……や、矢市垣さんが、人と他愛のない会話をしている……!!」
必死に声を紡ぐように、彼女はそう言った。
「何だよ。あたしが会話しちゃいけねえのかよ」
「だ、だって、あなたが!?中学の頃からずっと一人で過ごしていた、あの矢市垣さんがお友達を!?それもいつの間に柿田さんと!?」
「あ、あの……」
「ま、まさか!」
私の言葉を遮り、彼女は続けた。
「柿田さん!もしかして、彼女に脅しを受けていますか!?あるいは人質を取られていますか!?まさか両方!?」
「どっちもちげえよ!あたしが悪事を働いてる前提の発言すんな!」
「そ、そんなの有り得ない……矢市垣さん如きと無償でお友達になる人なんて……」
「マジであたしにだけは辛辣だな、お前」
「あの、蓮業寺さん」
私が口を開くと、彼女はこっちを向いた。
「私はちーちゃ……千夏ちゃんのこと好きですし、たった一人の大切な友達ですから。言えないようなことは絶対無いです。本当です」
「……まあ、柿田さんがそこまで言うのなら……」
ようやく、彼女もわかってくれたようだ。そのまま彼女は言葉を紡ぐ。
「申し遅れました。初めまして……ではありませんね。お久しぶりです、柿田さん。学級委員長の蓮業寺と申します」
「えっと……か、柿田翼です」
私が頭を軽く下げると、彼女は微笑みで応えた。
「よければ、私が皆さんに申しましょうか?」
「えっ……」
何のことですか__そう聞こうとした。だけど、すぐに何を言っているか分かった。
「お願いします。すみません」
「お安い御用です。クラスの共和を保つのが私の仕事ですから」
蓮業寺さんは立ち上がると、皆さん、とクラスの注目を瞬時に集めた。やっぱりすごい魅力、いや魔力だ。
「柿田さんが、せっかく勇気を出して登校してくださったんです。そんな風に異形を見るような目を向けるのはやめませんか?それよりもとるべき対応が、皆さんは分かっているはずです。これまで交流してきたクラスの一人一人と同じように、彼女とも接していきましょう」
簡潔なそのスピーチのあと何が起こるかは、もう予想できた。
『さんせーい!』『そうだね』
反対する子はいなかった。
「ありがとうございます……蓮業寺さん」
「いえ。これからよろしくお願いしますね」
「はい!」
彼女はまた、微笑んでいた。
「あ、ですが皆さん。矢市垣さんにだけは辛辣な態度で構いません」
「おい」
なんかもう、もう持ちネタみたいだなあ……。