#4「外出 一年ぶり」
新しい朝が来た。カーテンの隙間から覗く陽射しが、私の顔を撫でる。
目覚めた私は1分ほどぼーっとしたあと、部屋の壁にかけられた時計に目をやる。6時40分、じゃなかった、8時半を指していた。
お母さんはもう仕事に出ているだろう。我が家にお父さんはいない。私が2歳ぐらいの頃に亡くなってしまったから、彼の記憶はほとんどない。そういうわけで、お母さんは独り、朝早くから懸命に働いてくれているのだ。
今日は『おはよう』も『行ってらっしゃい』もちゃんと言うつもりだったのに、うっかり寝過ごしてしまった。またやり直すと決めた以上、まずは生活リズムを正すことから始めないと。
「……そうだ」
そうだ。やり直すって、昨日決めたんだ。次に彼女に__千夏ちゃんに会うときは、もっと"良い顔"で会えるようにするんだ。
「頑張れ、私!」
自分に言い聞かせながら、私は階段を降りて洗面台に向かう。足取りはいつもより軽かった。二段ジャンプでも何でもできそうな気がして、気分が良い。
顔を洗って、すぐリビングに直行した。お昼はお母さんが作り置きしてくれるけど、朝食はいつも自分で用意している。食パンを焼き、牛乳をコップに注ぐ。
「いただきます」
これも長いこと言っていなかった。いつもより美味しい朝だった。
朝食を食べ終え、準備が完了したところで、私はしっかりと玄関と向かい合う。
「よし!」
両足とも、靴を履いた。靴下以上に足を締め付ける感覚。久しぶりの感覚。
そう。今日、外に出るのだ。今日からやり直す、人生の第一歩だ。
ドアの取っ手に手をかけるところまでは上手くいった。だけどドアが開かない。多分開かないんじゃなくて、私が開こうとしてないんだろうけど、でも開かないとしか思えなかった。
「しっかりしろ!」
再び自分に言い聞かせ、今度は思いっきりドアを開けた。
外から風が吹き、顔を撫でる。暑いほどの日差しが前髪に差す。昨日まで帰ることを諦めていた"世界"が、確かにそこにあった。
もう迷わない。私はゆっくり右足を上げ、玄関の先の石段へと踏み出した。
はずが、その場で足踏みして留まっていた。
「…………」
踵を返し、靴を脱ぐ。そのまま自分の部屋に戻ると、ベッドの上の犬のクッションを手に取った。
「……一回、癒し補給」
私は言い、それをしっかり抱きしめる。鳥と猫のクッションも拾い上げ、触り心地の良い頭を撫でた。こういうのはちゃんとした準備と、直前の十分な休息が必要なのだ。
「よーし。もう行こう」
再び玄関に戻り、ドアを開けた。
足は__今度は意外とすぐに、前に出てくれた。靴の底が地面に触れる。家の前の石床に立っている。確かに、外にいる。
「……出れた!」
それからはもう、心の不安はワクワクに変わっていた。久々に街を見渡すと、まるで全く知らない場所に旅行に来たように思える。というか、数ヶ月ぶりに見る外の世界では、もはや自宅の手前5メートルさえも新天地のように感じられた。
私の足は、さっきまでのことが嘘のように軽やかだった。足を進める。また進める。一歩、二歩、三歩。もうとっくに私の家が見えなくなった。
平日の午前中に人なんて全然いないから、安心して歩き回ることができた。なんだ、外なんてぜんっぜん怖くないじゃん!
「ははっ!」
某鼠のような笑いをあげながら、テンションが無駄に上がった私は走った。
「あのお姉ちゃん変だよ」
「しーっ」
幼い少年とそのお母さんと、完璧に目が合った。
「…………ごめんなさい」
顔だけ真夏日のように熱い中、私は言った。
「恥ずかし……外怖い……」
そらそうだ。いくら平日の午前中といっても、通行人が0人なんて流石にありえない。私はここ最近で最大級の羞恥心に苦しみながら、1分前の浅はかな自分に殺意を抱いた。
切り替えよう。もうすぐ目的地だ。
私は道端で足を止め、横を見る。緑と白の四角い建物が__一年ぶりに訪れるコンビニがそこにあった。駐車場が綺麗になっている。コンクリートを新しくしたのだろう。
窓の奥に、二人の店員と一人の男性客が見えた。
「人がいる……」
当たり前だ。脳内でツッコミながら、私は少しだけためらい、だけどすぐに前に足を踏み出す。
「…………」
唾を飲み込む。変に緊張するけど、こういう時は思い切って行ってしまった方がいいと、家を出る時学んだ。
自動ドアが開く。ピロロンと音が鳴る。入り口を踏み越えると、冷房の効いた店内の空気が心地よく肌を通り抜けた。
「いらっしゃいませ」
レジの店員さんが頭を下げる。あれ……これ挨拶返さなきゃダメだっけ?コンビニって入ったらまず何するんだっけ?やばい。一年の引き篭もりは想像以上に大きくて重い。
「…………」
やっぱり、外なんてまだ早かったのかな……もしかすると、そもそも普通の生活に戻ること自体、叶わぬ願いなんだろうか。
声が聞きたい。
……え?いや、誰の?
「おーい。翼」
ああ、そっか。彼女の声か。
「って、ええ!?」
「?」
目の前に、私服姿の彼女が。矢市垣千夏がいた。