#3「夕陽 優しくて」
「柿田……?」
その一語を喉から絞り出すのがやっとだった。あたしはそれほどに唖然としていた。
「ねえ。あんたに何が分かるの?」
さっきまでとはまるで別人のような口調で、柿田は言う。
心臓が高鳴ってる。柿田のじゃない。あたしのだ。思考が鈍る。止まりそうになる。眠たいとか、そんな日常的なもんじゃない。怖れ故だ。
同学年の男の不良も、なんなら年上の不良でさえも、全く怖くないほどにあたしの恐怖という感情は麻痺していた。いや、克服と言うべきだろうか。それなのに、そんなあたしの心は、よりによって一人の気弱な少女の手で、久しぶりに震えさせられている。
「辛いのは分かる?楽勝?だから頑張れって?よくそんな綺麗事、私の前で言えたね」
嘆きのような、あるいは訴えるような言葉。
「……ねぇ!?」
「……っ!?」
本気でビビらされた。柿田の瞳に宿っているのは、その辺の人間が持つちょっとした怒りやストレスとはまるで違う。
怨念だ。悲しみや苦しみがどす黒い膿みになって溜まった、真っ黒な感情だ。目が合うと、それに殺されてしまいそうだった。
「楽勝?楽勝って何?」
胸ぐらを握る力が強まる。服しか掴まれてないから痛くはなかったが、ますます威圧感が強くなった。
「あんたが楽勝なら私も楽勝なの?ふざけないでよ」
真っ直ぐ睨むような視線に襲われる。あたしは目を逸らした。
「あんたの"辛い"と私の"辛い"が一緒だと思う?ねえ」
声が震えている。わずかに、だけど確かに。
「ねえ。ねえ。ねえ……ねえ!!ねえ!!」
何度も繰り返し叫ぶ。
「なんで!!なんで!!なんで!!なんでぇ!!!」
また叫ぶ。そのたび胸を叩かれて、痛かった。
雫を垂らしながら。
「……なんで」
あたしの胸を叩いた両手を止め、今度は泣きじゃくった。
「私だけなんだよ、こんなに辛いの……ずっと一生懸命頑張ってきたのに、どこかでおかしくなっちゃって、全部壊れて……涙が止まんないの!!苦しいの!!こんなに辛いの、世界で私だけなんだよ!!」
半狂乱で彼女は叫ぶ。
「ずっといじめられてきて!!まわりの全部が嫌になって!!死にたいのに怖くて死なない自分すら大っ嫌いで!!誰にも分かんないよ、こんな痛み!!」
どうしてだろう。もう叩かれてなんかいないのに、まだ胸が痛い。さっきよりずっと痛い。
もう、あたしの心に恐怖なんてなかった。ただ、この胸が痛くて苦しかった。
「……誰も、分かってくれないんだよ」
すすり泣くような声で、柿田は顔を上げた。燃えるような怒りをも飲み込む、そんな悲しみに包まれた声。
幼子のように泣き喚く、その顔と。その瞳と、目が合った。
なぜか、彼女を思い出した。
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『千夏。ちゃんとあの子にごめんなさいした?』
そうやって叱られたのは、何年前のことだったか。
姉ちゃんがいた。彼女はいつも、あたしと目を合わせて話した。叱る時も、喜んでる時も、悲しそうな時も。
『千夏ー!凄いじゃん!』
柔らかくて、優しくて、誰よりも大事だった人。大好きだった、憧れだった人。だから、無くなるなんて思わなかった。
『姉ちゃん!!姉ちゃん!!』
中学1年生の時。震災が起きて、この町は甚大な被害を受けた。
周りは瓦礫だらけだった。あたしは大怪我した姉ちゃんを必死に引っ張って、自分の怪我の痛みに泣きながら、それでも必死に引っ張って、逃げて逃げて、一人の医者に出会った。あたしのよく知る医者だった。
『姉ちゃんが……!!』
『きっと助ける。もう少しだけ待っててくれ』
だけど、待っても待っても医者は助けに来てくれなかった。そして、姉ちゃんは死んだ。
『千……夏………だ、い…………すきだよ…………』
最期にそう言った時も、そう言ってあたしの目を見て微笑んでいた。その日から、あたしは過去以外の何も信じなくなった。
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何で姉ちゃんのことを思い出したんだろう。
「……っ……ゔぅ……!!」
そっか。
あの日のあたしもこんな感じだったのかな。なあ、姉ちゃん?
「……ぐっ!」
そして、もし姉ちゃんがあの時元気だったら、きっとあたしにこうしてくれてたんだろ?
「…………!!」
こうやって、ただぎゅっと抱きしめてくれてたに決まってる。
「ごめん。ごめん」
柿田の後ろに回した手で、そっと髪を撫でた。
肩が濡れている。彼女の涙だ、きっと。
「あたしに……分かるわけないよな」
どっちがより辛いか、誰が一番辛いか、そんなこと測るもんじゃない。みんな別の苦しみを背負って、全ての人が世界で一番辛いんだ。
だからきっと、やるべきことは綺麗事並べる説教なんかじゃない。
「お前の辛いこと、あたしじゃ分かってやれない。でも、こうやって支えてやることは出来るから」
やるべきことはこれだ……なんて、言い切れはしない。でも、これも正解の一つであってほしい。
「うぅ……うあああ………!!」
「おー、泣け泣け。もう一人で泣くな」
何分だろう。とんでもなく長い間、あたしはずっと柿田を抱いていた。
悪い気分じゃなかった。
夕方になった。外の景色が、赤く暗く変わっていく。
「ごめん、長居しちまって」
「大丈夫です」
矢市垣さんが言う。階段を降りる。
「あの……ごめんなさい。さっき」
思い出すだけで少し照れてしまう。そして、それ以上に罪悪感が凄まじい。廊下を歩く。
「いーの。気にすんな」
玄関の前に立った。矢市垣さんは靴を履いて、ドアに手をかける。
「あの!」
「ん?」
矢市垣さんが振り向く。迷惑かもしれないけど、でも__
「……また、来てくれますか……?」
「__うん。居心地いいしな、ここ」
そう言ってくれた。彼女は考える間なんてほとんどなく言った。それが嬉しかった。
「じゃ、またなー」
「はい。お気をつけて」
挨拶なんてちゃんと覚えてたんだ、私。矢市垣さんはドアの向こうに足を運ぶ。ドアが閉まった時、彼女はもう目の前から消えていた。
「…………疲れた」
自分の部屋に戻りながら、私は呟く。疲れ過ぎた。あんなに会話したのは何ヶ月ぶりだろう。人があんなに近くにいたのは。最初は緊張して体調も悪くなってしまった。だけど今思い返すと、今日起きた全てのことがとてつもなくありがたくて、また涙が出そうになる。
矢市垣さんが、あんなに私を助けようとしてくれたのはどうしてだろう。ほとんど初対面の私の、こんな私のどこを見て助けたいと思ってくれたんだろう。
わからないけど、確かなことが一つあった。
「……軽い」
心が軽い。ベッドに横たわりながら、そう思った。
ベッドの横の犬のクッションを手に取って、そっと抱きしめる。彼女を思い出した。
物思いにふけ、眠りにつきかけた時。外で車の音がした。お母さんの車だとすぐにわかった。
「……支えてね」
私は言う。発言というより祈りだった。祈りながら、私はゆっくりベッドの下に降り立つ。
立てる。少しずつだけど、確かに歩いていける。
「歩け。歩け」
子供を諭すように、自分に言い聞かせる。ドアを開けて、さっき上がったばかりの階段をまた降りて。
そして、お母さんが玄関のドアを開けた。
「…………翼……?」
階段を降りきった私とお母さんの目が合う。ひさびさに見たのもあるのか、すごく美人に見えた。
えーと、何て__そうだ、思い出した。
「……おかえり!」
精一杯の笑顔で言った。数ヶ月ぶりの本気の笑顔は、お母さんにはどう見えているんだろう。数ヶ月ぶりに顔を合わせて話した私の声は、どんな風に聞こえてるんだろう。
「……翼ぁ!!」
少しだけ固まった後、お母さんは叫ぶように言った。
「うわっ!?」
そして、バッと私を強く抱きしめる。十数分ぶりの抱擁だ。
「ただいま……ありがとう、翼」
「……うん」
ここ最近、お母さんは『ごめん』ばっかり言っていた。『ありがとう』……本当に久しぶりだ、そんな言葉。
私はまだ歩ける。きっとやり直せる。そう確信できた。明日からまた始めよう。
「お母さん。今日、一緒に晩御飯食べたいな」
「本当!?分かった、今までで一番美味しい晩御飯にするから!」
お母さんはウキウキしながら、涙を拭いて台所へ歩いていく。
真っ暗な私の海底に、ほんの少しだけ光が射した気がした。
「……ありがとう。千夏、ちゃん」
呟いた。優しい夕日が、窓の外に見えた。
ガラッ!ゴトンッ!少しだけ耳障りな音とともに、自販機の中からアイスココアが顔を出した。あたしは缶のふたを開け、5口一気に飲み干し、ぷはー、と一息つく。
もうすぐ6時を回ってしまいそうだ。結局、なんであたしはあんなに柿田に構ったんだろう。姉ちゃんに憧れたんだろうか?それとも、姉ちゃんに助けてもらっていた自分自身を思い出したんだろうか?分からない。分からないけど、確かなのは"すごく良い午後だった"ってことだ。
片手をハンドルに当てて自転車をこぎ、自由なもう片方の手でココアを飲む。昔からよくやっていることだから、もうだいぶ慣れた。
「……謝らないちゃったな」
辛いのはわかるだとか、もっと頑張れだとか、散々勝手なことを言ってしまった。だからこそ、あんなに深く柿田のことを知れたんだけど。
とにかく、今度会ったら謝らないと。そして、これからはあいつの話を聞いて、ちゃんと支えてやれたら良いと思う。
他人を信じられなくなったあたしでも、まっすぐな気持ちを伝えてくれた柿田だけは信じてやれるから。あいつ、まだあたしに頼んなきゃダメだろうしな。
とにかく__あたしと彼女の交流は、もう少し続きそうだ。
「……翼」
呟いた。穏やかに上る月が、空に見えた。