#2「柿田 翼」
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可愛かった。印象が薄く、どうせ地味で冴えない奴だろうと決めつけていたから、余計にそう思った。
薄紫のショートヘアの下から、穏やかな瞳がこちらを覗いている。真っ白な肌は美しく、まるで紫陽花のような子だった。
驚かされたのか、見惚れていたのか__しばらくお互い黙り込んだ後、口を開いたのは柿田の方だった。
「あ……あの、プリント、あり、ありがとうございます……あと、びっくり、しました」
パーカーの上から胸に手を当てながら、柿田が言う。うわ、でかい。うらやましい。
「あー、はいはい……じゃなくて!」
危うく目的を忘れるところだった。あたしは一歩前に出て、柿田の顔を見つめる。
「これ!あと、これ!」
あたしは濡れて汚れた哀れなポニテを柿田に見せる。続けて、擦りむいた膝。
「ついさっき!お前んちの手前でずっこけた!お前んちに寄る用事がなけりゃ、こうはならなかった!」
「は、はあ……」
「謝れ!」
「えぇ!?あ、えと、ごご、ごめんなさいっ!」
柿田は驚愕しながらも、随分あたふたとした口調で言い、頭を下げた。薄紫の髪がふわりと揺れた。
ん?めっちゃあっさり謝られた?求めていた対応をしてもらえたはずなのに、なぜか複雑な気分があたしの心に漂った。てかこれ、ホントに柿田が悪いのか?事故じゃね?
あたし、しょうもなくね?
「あの……しゃ、シャワー……使ってくだ、さい」
「ああ……はい」
いつのまにか赤面したあたしをリードするのは、柿田の方になっているのだった。
髪をほどき、頭からシャワーをかぶる。シャンプーの絡んだ後ろ髪を水が撫でると、その下の床には汚れた水が流れる。
繰り返し揉むように髪を洗っていると、後ろで足音がした。柿田がタオルを持ってきてくれたらしい。
「た、タオル、置いておきますね。矢市垣さん」
「うん。ありがと」
「…………」
沈黙の中、シャワーの音だけがそこにあった。
……なんか話しかけた方が良いのか、これ。何か。何か。
「えっと……あのさ、学校来ないの?」
おおおおい!!あたし!!それ一番聞いちゃいけないコト!!
「あーいや、あのさ……出席日数足りなくなりそうだけど大丈夫なのか、って……そう、そゆこと」
すぐに訂正したから、多分大丈夫だ。いや何が大丈夫なんだ。
「…….ある程度、許容してくれるって、えと、先生言ってくれたので……」
なにそれずるい……って、いっちゃいけないんだろう。多分。
「だから、その………………」
話の途中で、何故か柿田の言葉は途切れた。
「柿田……?」
「……うぉええっ!」
「おおおい!?」
戸を開けてみると、洗面台に顔を伏せて嘔吐している柿田の姿があった。あたしは生まれた時の格好のまま、反射的に柿田に駆け寄る。
「大丈夫かよ?」
声をかけると、柿田は涙目で苦しげに振り向いた。
「だ、大丈夫です……ちょくちょくあることなので……」
「いやちょくちょく吐いてんの!?とりあえずお前の部屋行くぞ!」
あたしは急いで体を拭き、自分でも驚くぐらい高速で着て来た制服に着替えると__
「立てるか?」
「はい……」
そのまま柿田を二階へ押し運ぶ。おっと、ついでにプリント入ったファイルも取ってと。多分こいつの部屋は二階だろう、さっきも上から降りてきたし。
「ごめんなさい……」
「いいよ。流石に目の前で吐かれたら心配だし」
会話を交わしつつ、あたしは半ば柿田をかつぐようにして階段を上がる。
「……まだこんなお人好しだったんだ」
「矢市垣、さん……?」
「あ、ごめん。なんでもない」
割と短めの階段で、すぐに二階に辿り着けたのがありがたかった。
「そこの、部屋です」
「おう」
そのドアのドアノブには、"TSUBASA"と書かれた木のボードが引っ掛けられていた。昔からここにあるのか、だいぶボロくなっている。
「あ、あの、もう大丈夫なので……」
「いいや駄目。よいしょ」
「あ、あのっ……」
柿田がなにか言いかけたようだが、その前にあたしは部屋のドアを開けてしまった。
「み、見られたく、ない、のに……」
見るなと言われると見たくなる。あたしはずかずかと部屋に押し入った。
「……普通の部屋だ」
生活に必須なあれこれに加えて、奥には一人用としては羨ましいサイズのテレビと録画機器があった。手前のテーブルにお茶でも置いて観るのだろう。そのテーブルのそばには、鳥や猫のデフォルメなぬいぐるみ……いや、クッションって言うのか。とにかく、可愛い奴らがいた。あ、ベッドの上にも白いクッションの犬がいる。
奥のピンクのカーテンのチェック柄も可愛く、ちょっぴり質素だけど女の子らしい普通の部屋だと思った。
「全然変じゃねえよ?」
「そ、そう、ですか……?」
柿田はやけにたどたどしい反応をしながら、まるで他人の部屋にいるような落ち着かない様子でベッドに腰掛けた。
あー、またやらかしたか?柿田の様子を見て、あたしはうすうすそう感じてきている。
自分で言うのもなんか変だが、あたしは不良になってからというものの、独りで日々を送っていたせいで、人とのコミュニケーションが分からなくなりつつある。たまーに人と話す時があるが、いつもこんな風にずかずかと相手の"部屋"に押し入ってしまうのだ。
今日もそうだ。さっきみたいなことがあったとはいえ、普通ほぼ話したことない人の部屋になんか入んないだろ。今更ながら何してんだあたし。
ここは友達の家とかじゃない。さっさと帰るべきだ。柿田もだいぶ体調が良くなったみたいだし、とっとと帰れ。
そう思っても、何故か行動に移せない。何かが引っかかる。ここであっさりと帰ってはいけないと、そんな気がする。ここで選択を間違えるなという、漠然とした妙な啓示が心の中に響いている。
とりあえず体を動かし、思考を別のことに働かせよう。そうだ、ファイルには何が入ってるんだろ。表は……これ、昨日配られたプリントか。流石に中身を取り出したりはしないが、裏面ならいいだろ。あたしはひっくり返して裏をのぞいてみた。
前期第一回テスト 数学Ⅰ・A
5月末のテストだ。あたしは確か15点ぐらいだったか。
「テスト、ちゃんと受けてんだ」
「あ、それは……」
あたしの視線は、自然とタイトルの横へと動いていく。そこには赤いペンで大きく数字が書かれていた。
「……は!?93点!?」
読み間違いじゃない。93点、彼女はとっている。あたしの6倍。いやそれはどうでもいいけど。
「それは……その、偶然……で。ていうか、引きこもってた分たくさん勉強してたから当然で」
「いや、凄えな……頭良いんだ」
ふと机を見てみると、数学の教科書とノートが乗っていた。普段から勉強してるってことだ。あたしとは大違いだな。
なんとなく学校に通ってろくに勉強しないあたしと、ちゃんと勉強してるのに学校には行けていない柿田。
「……やっぱ、ちゃんと学校こいよ。こんな頭良いのに、不登校で退学なんてなったらダメだろ」
テーブルのそばに勝手に座り、あたしは言う。なんだそれ?今日のあたし、ホント変に図々しくてお人好しだな。あとそれ、しょっちゅう学校サボるあたしが言っていいことじゃない。
「……そう、ですよね。でも……すみません」
「いや、謝ることじゃねえけど……」
柿田が心に想うことは分からない。でも、今日のあたしは人を放っておけない性分のようで、また口を開いてしまう。
「そりゃあ、辛いことぐらいあるだろうけどさ。あたしと違って落ちこぼれとかじゃないんだから、もうちょっと頑張りなよ」
「…………」
柿田は何か言いたげだった。そこで話をやめ、彼女の話を聞いてやってたら、あんな事態にはならなかったんだろう。
「いや、あたしもいつも学校通うのホントにめんどくさいんだけどさ……いざ行ってみれば案外どうにでもなるから。割と楽勝だって」
フォローしてやったつもりでいた。だから、柿田があんな顔をした理由が、その時は分からなかった。
「……ねえ」
「?」
立ち上がり、こちらに歩み寄る柿田を見て、あたしはようやく気づく。反射的にあたし自身も立ち上がりながら、ようやく気づく。
「あんたに何が分かるの?」
胸ぐらを握りしめる白い両手を見て、ついに確信する。
彼女は、激怒している。