#1「矢市垣 千夏」
夕暮れの陽が部屋にともる。だけど今の私には、今朝か夜かなんてどうでもいいことだった。いや、何月何日か、何曜日か、そんなことも全てどうでもいい。私の__柿田翼の人生の時間は止まっている。
外には出ない。勉強するのとアニメを見る以外は、ほぼこうして自室でぼーっとするだけ。そんな生活が、もう2ヶ月近く続いている。きっともう、一生この日々から抜け出すことはないのだろう。
ふと、ドアをノックする音がした。
「……翼。晩御飯、置いておくから」
「うん」
顔を合わせることもなく、聞こえたかもわからない小さい声で、部屋の外のお母さんに返事した。
心は、深海に沈んでいる。二度と浮き上がれない暗闇の中に。
何度か空を目指して泳ごうとも思った。でもできなかった。そして今、すでに全ては手遅れだ。
楽しかったことも、大好きだった人たちも、もう錆び付いて海底に埋もれてしまった。
この部屋に、きっと光は射さない。
"悪い夢を見ませんように"__私が願っていいのは、そのくらいだった。
「……ごめんなさい」
口癖のようになったその言葉を、私は今日もまた呟いた。誰に向けたのだろうか。
-私立江戸沢女子高等学校 1年3組-
疲れた。疲れたのだ、あたしは。
今日、6月26日は授業変更により、数学と世界史が2コマずつ。普段からロクに学校に来ないあたしは、昼休みにして既に限界が近い。
「……バックレよ」
教室の所々で集まってお昼を食べるクラスメイトたちをぼーっと見ながら、あたしは呟いた。毎週、出なければいけない授業の数はしっかり計算している。今日はここで帰っても問題ない計算だ。そして、明日は1日休んでオッケー。月・火・水と昨日まで真面目に出席した甲斐があった。
カバンを取り出し、筆箱と弁当箱をしまってチャックを閉じる。教科書とかは全部置いていく。
ちなみに、そろそろお分かりと思うが、あたしは俗に言う不良というやつだ。といっても仲間とつるまず、警察が面倒なので最近はほとんど悪事も働かない、故にただのやる気のないだらけた奴とも言えるが。自分的には不良のつもりだ。
立ち上がり、帰ろうとするあたしに視線が集まるが、誰も話しかけては来ない。あたし自身もこの注目に既に慣れていた。
「あら、体調不良ですか?矢市垣さん」
ドアに向かって歩くあたしの行く手を阻むように、一人の少女が目の前に立った。長い黒髪の少女は、微笑みを少しも崩さずあたしに問いかける。
「げっ、蓮業寺……」
蓮業寺 微香。成績優秀で、運動部でもないのに運動神経は人並み以上、おまけに容姿端麗の学級委員長。中学から一緒だが、未だに苦手だ。あたしは苦手だから話しかけたりしないのだが、向こうは友達もいないあたしに、何故かわざわざ突っかかってくることが多い。
「その割に顔色は良さげですね。心の病ですか?」
「あー、そうそう」
あたしは適当に返事する。
「ああ……帰るのなら、そのついでに一つ頼み事をしてもいいですか?」
「めんどくせえな……」
「えっと……はい。これを」
あたしの返事を聞かぬまま、蓮業寺は自分の机を漁り、プリントの入ったクリアファイルを手渡してきた。
「なにこれ」
「お宅、百合崎の方面ですよね?」
「そうだけど……」
「柿田さんの家に、届けていただけますか?ポストに入れるだけでいいので。中に地図も入ってます」
柿田……?あー、あいつか。
柿田翼。5月ごろからずっと学校に来ていないクラスメイトだ。地味だったし、かなり印象は薄い。
「プリントとかが溜まったから届けろってことね……でもなんであたしが。普通先生が行くだろ」
「励ましに行くのも兼ねて、クラスメイトたちで行くべきだと先生が。まだ行っていないのは矢市垣さんだけですから」
「しゃあねえな……」
励みになんかなるわけないだろ__とは、流石に言わなかった。
「じゃ、行ってくるわ」
「お気をつけて」
そう言って蓮業寺はまた微笑む。本心の見えない、嫌な笑いだった。
気安く人を信じてはいけない__と、その笑顔を見たあたしは、今一度人生の教訓を心で唱えるのだった。
「気をつけてねー」
「はーい……」
この学校は保健室から校門までが近い。だから、早退の時は保健室の先生が外まで見送りをする。
故に、あたしは全身全霊で体調の悪いフリをしながら自転車とともに歩いていた。ゆっくり。気だるげに。時々ウソの咳を欠かすな。よし、完璧。
角を曲がり、先生の姿が消えると同時に自転車に乗り込み、ダッシュで漕ぎ出す。
「いよっしゃあああああ!!」
急激にテンションを上げ、一人爆速で漕ぐあたし。人より早く学校から抜け出したという優越感と、悪行の楽しさに後押しされ、どんどん足が進む。昨日の雨の水たまりが徐々に乾いている道路を、突き進んでいく。
「……あっ、プリント届けんだった」
急に思い出し、あたしはカバンから地図を取り出す。目的地は、ちょうど今いる百合川のすぐそばだ。
「めんどくせえな……パパッと行くか」
車体を右に傾け、住宅街へ向け漕ぎ出す。再びスピードを上げていった、その刹那。
「……おっ?」
空を飛んだ。
違えわ、投げ飛ばされた。自転車とともに、あたしは飛び跳ねるように空を舞っていた。
「うぶふっ!?」
地面に激突したのち、衝撃に遅れて痛みがやってきた。ゆっくり目を開けて後ろを向いてみると、歪んだスチール缶が転がっていた。気づかなかったけど、あれにタイヤがつまずいたんだろう。
いや、それはしゃあない。問題なのは、いまあたしの金色のポニテが感じている感触。
「……やっべ」
そのポニテがたった今、泥のような水たまりに浸っていた。
「最悪……」
げんなりした気持ちとイライラに襲われ、あたしは愚痴りながら自分にのしかかっている自転車を起こす。
「いだっ!?」
いきなり、右足に痛みが走る。見てみると今擦りむいたのだろう、スカートの下の膝から血が出ていた。
「ああもう!」
あたしはヤケになって、怒りのやり場を探す。蓮業寺!あいつがこんな頼みしなければ……いやいや!そもそも柿田とかいうヤツがちゃんと学校来てれば!そうだアイツのせいだ!会ったら文句言ってやる!
「……あった」
それからほんの少しだけ歩くと、すぐに"柿田"という札を見つけた。地図ももう一回見たけど、多分あってる。車が見当たらないし、多分両親は居ないんだろう。
自転車を適当に停めると、あたしはドアに近づきインターホンを押した。ピンポーンと聞き慣れた音が響いたが、誰かが出てくる気配は無い。
「留守かよ……って」
ふと上を見上げると、二階の窓から動く人影がチラリと見えた。髪の毛しか見えなかったけど、多分垣田翼だ。
人がいるのを確認し、あたしは再びインターホンを押す。
数十秒待っても誰も出ない。
「……シカトかよ!」
シカト!?こんだけあたしの手を煩わせといて、挨拶すらする気無しかよ!?
あたしは堪え切れなくなってドアノブを鷲掴みにし、開くはずのない戸を無理やりこじ開けようとした。
「このっ……って、開いたし」
鍵をかけ忘れたんだろうか。
すんなりと開いたドアの先には、ごく普通の玄関と廊下があった。その傍には数個の部屋、そして奥には階段。ホントに何の変哲も無い家。いや、変哲があってもそれはそれで困るけど。
とにかく、流石に柿田もあたしの前に現れるはず。ただ流石にこれ以上先へは進めない。進んだらきっとアウトだ。いや法的にはもうアウトだけど。
「柿田さん!プリント届けに来たよ!」
そういえば、まだ要件を言っていなかった。あたしは大声で言い、そしてしばらく待つ。
10秒ぐらいして、返事が返ってきた。
「……そこに……置いといていただければいいので……」
折れてしまいそうな細い声だが、しっかり聞き取れた。
「ごめん、ちょっと……その、今受け取ってもらえるかな?」
なるべく優しい口調を作りながら、あたしは言う。どうしても今日、直接会ってやる。ポニテと膝の仇を討ってやる。今日おとなしく帰ったとして、明日のあたしが再びここに来てくれるとは限らないから。
「…………」
沈黙。え、沈黙?
「えっと……じゃあ分かった、置いてくね。それじゃあ」
あたしはファイルを玄関の先に置き、振り返ってドアを開ける。
開けただけで、玄関から出ずにまたドアを閉めた。そして、隣に置いてあった大きなダンボール箱の裏に身を隠す。
しばらく待つと、階段を降りてくる音がした。足音は階段の先の廊下へと続いていき、玄関前で止まった。
よし!突撃!!
「柿田あああ!!」
「うあああああああ!?」
とんでもない大声をあげて箱の裏から飛び出すあたしと、とんでもない驚きの声を上げる柿田。
「あ、えっと、あの……」
「お前__」
追撃を仕掛けようと、あたしは柿田と向かい合う。
あたしの口は静止してしまった。
柿田翼が、想像の何倍も可愛い、花のような少女だったから。