8
腕が痛い。
翌日、最初に感じたことは、それだった。無論、少女に治された左腕ではなく、斧を振っていた右腕の方だ。心当たりは色々とあったが、思い出したくない。
ベッドから体を起こし、立ち上がってみると、ひどく頭が重く、体もだるい。腹も減っている。思い返せば、昨日の昼から何も口にしていなかった。言うまでもなく、気分は最悪だ。痛みすら感じるほどの空腹だったが、何も食べる気がしない。
立っているのが億劫なので、ベッドに座り込んだ。それから、自己嫌悪。逆恨みでガキを殺そうとして、挙句に返り討ちにあってトンズラか。今まで三十一年生きてきた中で、間違いなく最低の行動だった。もしも英雄が討つとすれば、こんなクズだろう。いや、事実、俺は救世主に討たれたのか。いっそ、あの場で切り捨てられていた方が、よっぽどマシだった。
あの少女は、まだ村にいるのだろうか。昨日の出来事を、誰かに伝えただろうか。少し気になったが、すぐにどうでもよくなった。考えたところで、どうにもならない。今はそんなことを考えるのすら面倒だ。そうして、ただ座ったまま、時間だけが過ぎてゆく。
それから、どれだけの時間が過ぎただろうか。数時間は経過していた気もするし、数分しか経過していないような気もする。だが、窓から陽光が差し込んでいる所を見ると、実際はそれほどの時間は立っていないのだろう。ベンジャミンはおもむろに立ち上がった。何を考えたって、このまま座っているわけにもいかない。ベンジャミンは家の戸を開け、外に出た。
「――うおぁッ!?」
その直後、心臓が止まりそうなほどに驚き、奇声を上げて、ベンジャミンは飛び退いた。それもそのはずだ。家の前に、昨日の少女が、ベンジャミンの斧を持って立っていた。
「な、なんでお前が……」
「斧、忘れていってましたよ」
少女はそう言って、にこやかな顔で斧を差し出した。ベンジャミンは恐る恐る、それを受け取る。一瞬、殺されるかと思ったが、どうやら違ったらしい。斧を手に取ってから、ベンジャミンは目を泳がせた。何かを話すべきだとは思うが、何から言えばいいのかが分からなかった。そんな彼を前に、少女が「あの」と口を開く。
「昨日は、ごめんなさい」
そう言って、少女は頭を下げた。あまりにも理解のできない状況に、ベンジャミンは目が点になる。しばしの静寂の後、周囲に、彼の声が響いた。
「はあああああっ!?」
少女は驚いたように頭を上げる。ベンジャミンは、さらに続けて、大声で話す。
「何言ってんだてめぇは!?俺がてめぇぶっ殺そうとして、てめぇは自分の身ィ守っただけだろうが!それが何だ?ごめんなさい?てめぇが何したってんだよ!バカかてめぇは!?」
まともに息継ぎもせずに、まくし立てる。自らの悪逆さ、相手の正当さを主張するのは、なんだか妙な状況だったが、自分が謝罪をされるなどとは、断じて許容できなかった。
「あ、いや、でも、それは私のせいで……」
「まーだ言いやがるか、この――」
それでもなお、自分に責任があると主張しようとする少女に、ベンジャミンは再び怒鳴りつけようとして、言葉を飲み込んだ。違う。俺が言うべきことは、言わなければいけないことは、こんな事じゃない。
ベンジャミンは深く息を吸い込むと、深々と頭を下げた。
「悪いのは全部、俺だ。お前が気に病むことなんか、何もねえ。昨日は本当に、すまなかった。許してくれなくてもいい、ただ反省はしてる。それだけは言わせてくれ……!」
懇願するように、少女に伝える。今度は、少女が驚いて言葉を失い、目を丸くする。その時ベンジャミンは、もう一つ思い出して、消え入りそうなほど小さな声で話す。
「あ、それから……腕、治してくれて……ありがとな」
恥ずかしさに、今すぐにでもその場を逃げ出したくなった。大人に叱られている、子供の気分だ。ベンジャミンは、親の顔色を窺いながら沙汰を待つ子のように、少女の言葉を待った。
「ふふっ」
少女の口からこぼれたのは、小さな笑い声だった。おかしな状況に、思わず噴き出した。そんな声だ。その時、少女は、ベンジャミンの目に戸惑いの色が浮かんでいることに気付き、慌てて言葉を続けた。
「あ、ごめんなさい!バカにしてるとか、そういうのじゃなくて……その、突然怒ったり、謝ったり、面白い人だな、って思って」
面白い人とは、何だろうか。皮肉かとも思ったが、それも違うだろう。自分は一体、どういう反応をすればいいのだ。彼女は俺を、恨んではいないのか。ベンジャミンの頭の中で、纏まらない考えがぐるぐると回る。そのベンジャミンの考えを断ち切るように、少女が話を振った。
「村の人に聞きました。英雄になりたいって言って、みんなのことを助けてるって」
「だから何だよ」
「私、これからお城に行くんですけど、初めてだし、東の出身だから、西のお城って一人じゃ入りにくいんです。もしよかったら、私と一緒にお城まで行ってくれませんか?」
「てめえ、イカレてんのか?村に他の人間なんていくらでも居んのに、なんでわざわざ自分殺そうとした奴と一緒に行きたがんだよ」
「村の人の中でも、一番頼れそうなのが、あなたですから。それに――」
困惑の中に苛立ちを募らせるベンジャミンとは対照的に、少女は笑顔を向けた。
「私、世界を救いに行くんです。ついて来てくれれば、あなたもきっと、英雄になれますよ」
「てめえのコバンザメとしてかよ。冗談じゃねえ」
とにかく、この少女の考えることは訳が分からない。もう一秒たりとも、関わり合いになりたくなかった。お前は根っからの善人なのだろう。俺のことも、全く恨んでいないのだろう。それは良いことかもしれない。だが、もう俺の世界に入ってこないでくれ。
はっきりと拒絶の意志を示したベンジャミンに、少女は落胆の色を見せる。肩を落とし、顔を伏せ、黙り込んだ。気まずい空気が、周囲に充満する。
結局、分かりやすく落ち込んだ少女の様子に、ベンジャミンが折れた。苛立ちに奥歯をぎりりと鳴らしてから、言った。
「ああ、クソ、分かった分かった!行きゃあいいんだろ、行きゃあよお!」
その言葉を待っていたと言うように、少女は小さく跳ねて顔を上げる。その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「いいんですか!?」
「そう言ってんだよ。てめえには借りがあるからな。その埋め合わせだ、埋め合わせ!」
そう口にしながらベンジャミンは、ほんの少し気が楽になるのを感じた。何だかんだと言って自分は、こうした償いの機会を待っていたのかもしれないと感じた。
少女は頭を掻きながら、本当に嬉しそうに話す。
「えへへ、じゃあ、よろしくお願いします」
そう言った後、あ、と小さく呟いて、改めてベンジャミンに向き直る。
「自己紹介、まだでしたね。私、エステルって言います。あなたはベンジャミンさん、ですよね」
「ああ」
少女は名乗りながら、ぺこりと頭を下げた。そして、ベンジャミンの返事を聞くと、その場で二回ほど跳ねた後、器用に宙返りをして、拳を天に突き出した。
「よーし、じゃあ出発進行!進路は南へ!」
底抜けに明るい声が、ベンジャミンの鼓膜を鳴らす。鬱陶しいと思いながらも、いつの間にか、寝起きから感じていた不快感や、腕の痛みが消えていることに気付いた。
救世主。その肩書きに、確かに興味はあった。こいつ自身が望むなら、もう、城にでも何でも付き添ってやる。そうして、女神に選ばれたとかいう人間の力を、行く末を、見せてもらおうじゃないか。駆け出す少女の背中を追うように、ベンジャミンは歩き始めた。




