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階段を上がり、二階の部屋へと踏み入ると、少女は窓から外を眺めていた。その横顔は、どこか儚げな雰囲気を纏っており、昼間に出会った時とは随分と印象が違う。少女がベンジャミンに気付くと、その顔に、ぱあっ、と笑顔が浮かんだ。昼間に出会った時と同じ、明るく溌剌とした顔だ。
「あ、来てくれたんですね!」
どう答えていいものか分からず、ベンジャミンは黙ったまま、少女に促されて椅子に座る。少女も、テーブルを挟んでベンジャミンの向かいに座った。仏頂面のベンジャミンを見て、少女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「あれから、話を聞いたんです。私、余計なことしちゃったみたいで、本当にごめんなさい」
「別に」
ベンジャミンは、改めて不愉快そうにした。少女が何か、悪いことをしたわけではない。ただ、間が悪かっただけだ。そんなことで謝られては、まるで俺が心の狭い人間のようではないか。だが、結局それで気分を悪くしているのだから、心が狭いのは事実か。そう考えて、また不愉快になる。
「村の人たちと、お話したんです。あなたのこと、すごく信頼してるみたいで」
「そうでもねえよ」
「でも、王宮の騎士でもないのに魔獣を追い払ったなんて、すごいと思います。私だって、昔は全然ダメだったから」
重い雰囲気を振り払おうと、少女はわざとらしく明るい声で話題を振る。だが、今のベンジャミンにとっては不愉快な話だった。村に来たばかりの少女に、あっさり奪われる程度の立場が信頼か。くだらない。自分を誉める全ての言葉が、今は皮肉にしか聞こえないのだ。
もういい。これ以上話したところで、何にもならない。ベンジャミンは帰ろうとして、机に左手をついた。その瞬間、ずきりという痛みが腕に走り、表情が歪む。あれこれ思い悩んでいるうちに、左腕の怪我のことをすっかり忘れていたのだ。さすがに血は止まっていたが、治るにはまだまだ時間が必要だ。
ベンジャミンの様子を見て、少女が違和感を持つ。そして、ベンジャミンの服の左の袖が、赤黒い血でべっとりと染まっていることに気付いた。
「その腕……!ちょっと、見せてください」
少女は慌てて立ち上がり、ベンジャミンに駆け寄る。邪魔だと言わんばかりにベンジャミンは振り払おうとするが、やはり怪我をした腕だ。強く振るうことができない。少女は服の袖をまくり上げると、その傷に、まるで自分が怪我をしたかのように顔をしかめた。
「大したことねえよ。それに、もう傷口に薬も塗った」
「だけど、こんな傷……少し、動かないでください」
ぶっきらぼうに告げるベンジャミンの言葉も聞かず、少女は傷口にゆっくりと手を添える。見たことのある光景だった。トムソンの時と同じく、少女の身体から淡い光が放たれ、光が腕を、手の平を通るようにして、ベンジャミンの腕へと流れ込んでゆく。ベンジャミンは、傷口が少し熱くなるような感覚と共に、痛みが消えてゆくのを感じた。光の中、固まりかけだった血が瞬く間にかさぶたを作り、すぐにポロポロと落ちてゆく。その下に、傷口の消えた肌が現れる。その非現実的な光景に、思わず目を奪われてしまう。
光が消えてからも呆然と立ち尽くすベンジャミンに対し、少女は微笑みかけ、「もう大丈夫です」と告げた。
「魔法……」
ベンジャミンは思わず、うわごとのように呟いた。それを聞いた少女は少し悩むような様子を見せて、答えた。
「きっと、そうだと思います。使えるようになったのは、最近なんですけど」
「いつからだ?」
「えっと、半年くらい前に、声を聞いたんです。はっきりとは分からなかったんですけど、この世界を、救ってほしいって。それから、こんな風に、不思議な力が使えるようになったんです」
その声の主が、女神なのだろうか。いったい何のために、彼女に力を与えたのだろうか。世界を救うと言っても、ただ人の傷を癒す程度の力では、不十分なはずだ。ならば、彼女の力は、これだけではないのだろうか?
考え込むベンジャミンを前に、少女は言葉を続けた。だが、今までとは違い、妙に暗い調子だった。
「みんな、私のことを救世主だ、って呼びました。私なんて、ただの田舎娘なのに」
「何だよ。救世主って呼ばれて、不満みてえだな」
「自分の力じゃ、ないですからね。それに私、昔から世界を救おうなんて思ってたわけでもないし。村の中で、みんな一緒に……静かに暮らしていたいって、そう、思ってただけなんです」
少女は何か続けて言おうとして、口ごもった。
その時。ベンジャミンには、少女が何を言いたがっているのか、何となく察しが付いた。今のベンジャミンが、最も聞きたくない言葉だ。
何も言うな。そのまま、黙っていろ。その言葉を口にされれば、俺はきっと、お前を許せなくなる。そう念じるベンジャミンの思いに反し、少女は口を開いた。
「本当は」
「こんな力、無ければよかったのに、って思うんです」
その瞬間、今まで必死に押し留めていたベンジャミンの感情が弾けた。部屋に大きな音が響き、少女が壁に強く叩きつけられ、咳込む。それが、自分が少女を突き飛ばしたからだと気付くのに、ベンジャミンは少し時間がかかった。彼の手には、いつの間にか、腰に下げていた斧が握られていた。
「ふざけんなよ……この、クソガキがぁッ!」
叫んだその声は、少し震えていた。ベンジャミンは、目に涙を溜め込み、歯が砕けそうなほどに食いしばって、わなわなと体を震わせる。
「俺の欲しいモン、全部持ってて、俺じゃできねえこと、全部できて、そんな力が、無い方がいいだと!?誰のせいで俺が、こんな惨めな思いしてると思ってやがる!てめぇさえ、てめぇさえ居なけりゃなあ……!」
自分の口が、そう言葉を発しているのを、まるでベンジャミンは他人の行動を見ているかのように、第三者的に感じていた。だから、自分が何を考えているのかも、これから自分が何をしようとしているのかも、冷静に理解できた。
そうだ。俺はブチ切れているんだ。自分が何十年も渇望していた力を、何の苦労もなく得たヤツが、その力を不要だと言っている。それが妬ましくて、羨ましくて、許せないのだ。なんと幼稚で、みっともないのだろう。何の悪意もない少女に一方的に怒り狂い、突き飛ばし、怒鳴りつける姿は、きっと誰よりも醜いに決まっている。それでも、火山が噴火するかのように噴き出した感情は、少しも止まらないのだ。
ベンジャミンは、斧を振り上げた。狙うは、少女の脳天。俺はこれを振り下ろして、少女の頭を砕くのだろう。少女が死んだら、俺はどうするのだろうか。分からない。そんなことを考える程度の思考力も、すっかり失われていた。
「消えろ、消えろ……ッ!」
言い聞かせるように叫び、ベンジャミンは、斧を振り下ろした。
その時、ベンジャミンの目に、想像とは違う光景が映る。振り下ろされた斧は、少女の剣の鞘で受け止められていた。一瞬のうちに体勢を整え、防いだらしい。全力で攻撃したはずだが、斧を受け止めた少女は、びくともしなかった。
予想外の状況に、ベンジャミンの動きが止まる。その隙を突き、少女は鞘に入ったままの剣で、ベンジャミンの腕をなぎ払った。少女の力とは思えない強い衝撃に、ベンジャミンは弾き飛ばされ、一メートルほど後ろに飛んで仰向けに倒れる。手から離れた斧が、床に転がって音を立てた。
しばしの沈黙。月明かりと、机の上のランプの火が照らす暗い部屋の中。倒れたベンジャミンの荒い吐息だけが響く。少女はそれを見下ろしながら、悲しそうな目をしていた。
「……帰って、ください」
少女は絞り出すように、それだけ言う。その声には、怒りも、軽蔑もない。ただ純粋な、悲痛さだけが込められていた。
「くそっ」
ベンジャミンは、逃げるように部屋を飛び出した。転げ落ちるかのような速度で階段を降り、一階のトムソンたちに何も告げることなく、家を出ていった。再び、部屋に静寂が訪れる。
少女は、窓から空を見上げた。あたりを照らす月と星々は、何も変わらず、輝いている。その光が目に染みるようで、目を伏せる。その時、背後に足音を感じて、少女は振り向いた。そこに居たのは様子を見に来た、トムソンだった。
「ベンジャミンと、何かあったのか?すごい音がしたみたいだが……」
戸惑いながら問いかけるトムソンに、少女は笑顔を作って、答えた。
「ごめんなさい。私が得意になって、少し派手な魔法を見せたんですけど、驚かせちゃったみたいで」
「ははは、あいつが驚くなんて、相当だな。けど、それならいいよ。今日は、ゆっくりと休んでいってくれ」
「ありがとうございます」
トムソンは何も疑わず、一階へと降りていった。少女の頬を、一筋の涙が伝って落ちたことも、彼には知る由もなかった。




