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ベンジャミンは袖をまくり上げ、傷口の血を絞り出してから、拭き取った。それから薬草の葉をちぎって、その汁を傷口に絞り、塗り込む。ひやりとした感触の後、傷口に沁みる痛みに顔をしかめた。まだ出血は収まらないが、これで感染症の心配は無いだろう。
自分の傷の処置を済ませると、改めてベンジャミンは薬草を適当に引っこ抜いて、帰路についた。できるだけ急ぎ足を心掛けてはいたが、帰り着いた頃には陽が沈み始めていた。夕日に伸びる影に急かされるように感じながら、ベンジャミンはトムソンの家の戸を叩き、上がり込む。
「待たせたな。ちっと遅くなっちまったが――」
喋りながら部屋に入ったベンジャミンは、目の前の光景に口をつぐんだ。ベッドで横になったトムソンと、それを見守るマールとティム。それは予想した通りの光景だった。だが、そこにもう一人の姿があった。亜麻色の髪を頭の後ろで一つに縛った少女は、間違いなく、森の入り口で出会った、あの少女だ。
少女は淡い光を纏いながら、トムソンの傷口に手を当て、目を閉じて意識を集中している。光は徐々に強くなり、夕日だけに照らされていた少し暗い部屋を、昼間のように明るく照らしてゆく。やがて、その光は少女の手に集まり、トムソンの傷口へと流れ込んでゆく。マールたちはその光景に目を奪われ、部屋に踏み入ったベンジャミンの姿に気付く様子がない。
光が消え、少女が手を離すと、トムソンの肩の傷はすっかりと消えていた。トムソンは恐る恐る、ベッドから這い出て、確かめるように肩を、最初はゆっくりと、それから大きく、ぐるぐると回した。
「な、治った……治ってる!」
驚きと喜びの入り混じった様子で、トムソンは子供のようにぴょんぴょんと跳ねて、はしゃぐ。その様子を見てマールとティムは、歓声を上げた。
一体何が起こったのか、ベンジャミンには理解できなかった。あの不思議な光は、一体何だったのか。どんな医術でも、薬学でも、触れるだけで人の傷を治すなど、聞いたことがない。そんな事が可能だとすれば、もはや魔法……。
魔法、という単語が思い浮かんだところで、今日、ゴンと会話したことを思い出した。魔法を扱うという、東の地の救世主。まだ小さな子供。それは確かに、目の前の少女と一致していた。だが、この少女が救世主だとは、まだ信じることができなかった。
「……あ、ベンジャミン」
部屋の入り口に立ち尽くしたまま考え込んでいたベンジャミンに、トムソンが声をかけた。
「その、悪いな。今、この子が俺の傷を治してくれてさ。お前には無駄足を踏ませちまったけど――」
気まずそうに話しかけるトムソンの言葉を遮って、ベンジャミンが口を開いた。
「バ、バカ、何言ってやがる。俺はほら、ちょっとこう、その、準備運動に行ってただけだっての。これから薬草採りに行こうかと思ってたんだが、別に行かなくても良くなったみたいだな。ああ、得した、得した……」
気を遣わせないよう、適当に取り繕おうと出任せを言ったが、自分でも無理のある言い訳だと思った。話しながら、恥ずかしさに顔が赤くなるのを必死に抑えようとしたが、どうにもならない。夕日の赤さで、誤魔化されてくれることを必死に祈った。
トムソンたちは、きょとんとした顔でベンジャミンを見ていた。その様子と、何より、不思議そうな顔でベンジャミンを見つめる少女の目に耐えきれず、ベンジャミンは逃げるようにトムソンの家を飛び出した。その時、手に握っていた薬草を手放していたことに、ベンジャミンは気付かなかった。
「あの時の人……」
ベンジャミンが立ち去った後、少女は床に落ちた薬草を拾い上げ、小さく呟いた。
トムソンの家を飛び出したベンジャミンは、火の出そうな顔を何度か叩き、自分を落ち着かせようとした。みっともねえ。何をやってるんだ、俺は。外の冷えた風に当てられるうち、恥ずかしさは鎮まってきたが、それと入れ替わるように、やり場のない苛立ちが湧き上がってくる。むしゃくしゃとした思いを抱えて歩くうち、ベンジャミンの足は半ば無意識にキャサリンの家へと向かっていた。いつもより乱暴に戸を叩き、家に入る。
「よお、ババア」
「何じゃ、今日はえらく遅うなってから来たな」
「ああ、まあな――」
キャサリンに話しかけ、部屋を見渡すと、やけに部屋が綺麗なことに気付く。床にチリ一つ落ちていないだけでなく、机や棚も綺麗に拭き掃除され、ベッドの布団も整えられていた。そしてキャサリンの目の前には、出来て間もないパンと魚料理が置かれている。とてもキャサリン自身が用意したものとは思えない。どことなく、嫌な予感を感じながら、ベンジャミンは尋ねた。
「なあババア、これは……」
「ああ、ついさっき、若い女の子が来てね。色々、助けてくれたんだよ。あの子は本当にいい子だね」
「――!」
キャサリンの言葉を聞いた途端、弾かれたようにベンジャミンはキャサリンの家を飛び出した。キャサリンはベンジャミンが走り去る様子を、開け放しにされたドアから怪訝そうに眺めていた。
ベンジャミンは、手当たり次第に村の民家の戸を叩いて回った。そして、何か頼み事は無いかと聞いて回るが、帰ってきた答えは、どこも同じだった。
「さっき来た女の子が、困っていた事を片付けてくれた」
そうして、誰も彼もがにこやかに、その少女の健気さ、立派さを語った。そして、それを聞くベンジャミンの顔が少しずつ青ざめていくことに、誰も気付くことはなかった。
ベンジャミンは、叫び声をあげたくなる衝動を抑えながら自分の家に戻り、乱暴に戸を閉めた。靴を脱ぎもせぬままベッドに横になり、頭を抱えるが、すぐに起き上がると、家の壁を思いっきり殴りつけた。ドスンと低い音がして、小さな家が揺れる。家の屋根にでも止まっていたか、鳥の逃げていく音が聞こえた。それでも、心の中に渦巻く黒い感情は、全く晴れることはない。
救世主?あのガキが?どうして?知るか。なぜ魔法なんてものが使える?女神の加護か。それは何だ。知らない。女神に誰かが選ばれるなら、なぜ俺ではないのだ。俺の何が悪くて、あいつの何が良いというのだ。分かるはずがない。ふざけている。何が救世主だ。クソッタレめ。
子供じみた、下らない妬みであることは理解していた。つまるところ、俺は悔しいのだ。自分の半分も生きていないような子供が救世主と呼ばれ、持て囃され、挙句、俺の居場所まで奪おうとしている。あの少女は純粋な善意で村人を助けたのだろう。そんな事は、自分でも理解している。だが、悪意の有無など関係ない。むしろ、悪意なく俺の居場所を奪っていくのだから、余計にタチが悪い。
バカバカしい。三十過ぎて、ガキ相手に本気で嫉妬かよ。こんな惨めな英雄がどこにいる。英雄?誰が英雄だ。本物の救世主が世界に現れたと言われる中、三十過ぎて家庭も持てず、夢のような事ばかり言っている馬鹿な男が、一体何だというのだ。あいつは触れるだけで人を癒せる。汗水垂らして森の中を這い回り、魔獣と格闘し、必死に薬草を掴んで帰ってくる必要もない。俺が半日かけて出す以上の成果を、あいつは一瞬で出せるのだ。
欲しい、欲しい。俺にもあいつと同じくらいの力が欲しい。それがあれば、きっと今すぐにでも世界の全部を救って、名実ともに英雄と呼ばれてやる。英雄になれる。だが現実、俺にそんな力はない。なぜ力が無いのだ。選ばれなかったからか。なぜ選ばれなかった。知るか。どいつもこいつも気に入らない。女神だか何だか知らねえが、みんなくたばっちまえ。
胸の中に、腐った赤黒い霧でも詰まっているようで、うまく呼吸ができない。吐き気がする。せめて、さっさと眠ってしまおう。どうせ最悪な寝付きになるだろうが、このまま起きているよりはマシだ。
ふらふらとベンジャミンがベッドに戻ろうとした時、家の戸を叩く者がいた。聞こえてきたのは、トムソンの声だ。
「よう、ベンジャミン」
「何だよ」
「さっきのことは、悪かったな。お前のことを忘れたわけじゃなかったんだが、あの子、俺の傷を見たら、自分に治させてくれって一生懸命頼んできて、どうにも断りづらくてさ」
「……別に。気にしてねえよ」
また、あいつの話だ。勘弁してくれ。もう沢山だ。少しでも気を抜くと、トムソンを相手に怒鳴り散らしそうな気分だったが、ベンジャミンは必死に言葉を飲み込み、見栄を張った。とにかく、さっさと会話を終わらせて、トムソンを帰らせたかった。今は、誰とも話したくないのだ。しかし、そんなベンジャミンの思いとは裏腹に、トムソンは言葉を続けた。
「それから、あの子がお前に、会いたがってたぜ」
「あの子って、例の救世主サマか?」
「ああ。今日は、うちの二階に泊めることになってな。良かったら会いに行ってやってくれよ。今ならまだ、起きてるはずだからさ」
「なんで俺が」
眩暈がした。俺が、あいつに会いに言ってどうしろと言うんだ。何を話せと言うんだ。本物の英雄に会えて光栄ですと、握手でもねだれば満足か。バカバカしい。
「余計な事したかも、って、あの子も結構気にしてるみたいなんだ。もちろん無理強いはしないけど、よかったら頼むよ。それじゃあな」
それだけ言うと、トムソンの足音が遠ざかっていった。その足音が完全に聞こえなくなるまで、ベンジャミンは苦虫を噛み潰したような顔で、家の戸を眺めていた。
今日は厄日だ。とことん、良くないことが積み重なる。上等だ。だったら、この際、最低の中の、一番どん底に、自分から突っ込んでやる。ベンジャミンは開き直ったような思いを胸に、家の戸を開いた。




