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キョロキョロと周囲を見回しながら、歩き慣れた森を進んでゆく。あまり人の手は入っていない森だが、人のよく通る場所は踏み均され、道らしきものを形作っている。もっとも、頻繁に森に訪れるのはベンジャミンくらいのもので、ほとんどは自分の作った道だ。それがベンジャミンにとっては森を独占したようで気分がよかった。
日中の森は、適度な湿り気と涼しさを含んだ風が心地よい。肺の中まで満たすかのような濃密な草の香りも、安らぎを与えてくれる。だが、大きく息を吸い込もうとすれば、辺りを飛び回る小さな虫まで吸い込みかねないのが玉に瑕である。特に今は松明のせいか、いつにも増して虫が多い。森の香りを楽しんでいる暇はなさそうだ。
目当ての薬草はベンジャミンが知る限り、森の中心近くに自生している。葉を絞った汁が消毒薬として使えるほか、料理の香草として用いることも可能と、何かと便利な薬草なのだが、いちいち取りに行くのが面倒なのでベンジャミンもあまり頻繁には使わない。保存や栽培を試みたこともあったが、どちらも上手くいかなかった。
湿った土を踏み越え、邪魔な草を除け、細い川を飛び越え、どんどんと森の奥に向かう。そのうち、ベンジャミンは妙なことに気付いた。これだけ森の深くに入れば、昼行性の獣に何度も出くわしてもおかしくないものだが、今日はまるで見かけないのだ。ベンジャミンの頭の中に、一つの可能性が思い浮かぶ。獣が姿を隠す理由と言えば、天敵の存在だ。もちろん、ベンジャミンのことではない。十中八九、先程の人狼だろう。
一般に、「ただの動物」と「魔獣」の間に、明確な生物としての違いは無い。分類としては大型の動物(おおむね、体長一メートル以上)のうち、人間にとって明確に脅威となり得るもの……つまり、高い凶暴性と攻撃能力を持つものが、魔獣と呼ばれる。人狼のように人型をしたものが多いため、「人に近い獣」と考えている者も多いが、これは定義の上では、あまり正確ではない。人型の動物は押しなべて高い知能を持つため、魔獣の多くが該当しているのも、また事実ではあるのだが。
そして、魔獣は多くの場合で絶対捕食者、つまり獣たちの生態系の頂点に位置する存在である。この森に棲む獣と言えば、ネズミやコウモリなどの小型の動物と、時折鹿やイノシシを見かける程度だ。熊くらいに大きな動物であれば人狼を恐れることも少ないが(そもそも、ほとんどの熊は魔獣に分類されている)そうでなければ大抵は、魔獣の気配を察した時点で即座に身を隠そうとするものだ。ベンジャミンは斧と松明を握る手それぞれに力を込め、さらに森の奥へと踏み入る。それから程なくして、彼の予想は的中することとなる。
ベンジャミンの目に入ったのは、灰色の毛皮に覆われた背中だった。よく見るとその動きが若干ぎこちなく、右肩の辺りを庇うようにしている。間違いなく、先程の人狼だろう。人狼は地に伏すようにして、地面に生えた、尖った葉の草を一心不乱に貪っている。その草は他でもない、ベンジャミンの探していた薬草だ。
人狼は基本的に、草食を行うことはない。通常のオオカミと同じく、肉食の動物である。極度の飢餓に陥った際には草を食むことも無くはないが、おそらく今は別の理由だ。つまり、目の前の草が傷を癒すのに有効であることを、理解しているのだ。人型の魔獣であれば、その程度の知性を持つのは、さほど珍しい事ではない。
自分の身に迫る気配を察して、人狼がゆっくりと振り向く。その目にベンジャミンが映ると、途端に強く見開いた。そこに映るのは強い怒りの感情である。
「よぉ」
どすを聞かせた低い声で、ベンジャミンは人狼に話しかけた。当然、獣が人語を解するとは思っていないが、黙って近寄るのも性に合わなかった。戦いの前口上は、英雄の専売特許である。
「さっきの傷でも治してやがったか?ご苦労なこった。トムソンの分の借り、万倍にして返してやるよ」
少し松明を前に構えるようにしながら、ベンジャミンは語る。魔獣もまた、低い唸り声を上げながら、臨戦態勢を取った。しばし、睨み合いが起こる。
先に動いたのは魔獣だった。低い姿勢からベンジャミンに突進し、左腕を振りかぶる。ベンジャミンは待っていたと言わんばかりに魔獣の右腕側に回り込んで躱すと、松明を突き出した。顔の辺りを狙うつもりだったが、少し遅れ、魔獣の胴の辺りを一瞬炙っただけに終わる。再び向き合い、睨み合う。
右腕を封じているのは、大きなアドバンテージだ。人狼の攻撃手段は言うまでもなく牙と爪だが、ベンジャミンはリーチの長い爪を警戒していた。急所に食い付かれることに比べれば一撃で致命傷になることは少ないが、ダメージの蓄積は確実に戦いを不利にする。
再び、魔獣がベンジャミンに向けて走る。ベンジャミンは難なく躱すが、あまり気楽に構えてもいられなかった。広いスペースのある村の中心ならともかく、森の細い道の中では、躱し続けるにも限界がある。木に阻まれて躱しそこなったり、何かに足を引っかけて転びでもすれば、それだけで致命的だ。
今度はベンジャミンから魔獣に距離を詰める。牽制程度に斧を振ると、魔獣がその腕で軽く弾く。その瞬間を狙い、魔獣の鼻先に松明を突き付けると、魔獣は「ギャッ」と小さく悲鳴を上げて、顔を背けた。今だ、とベンジャミンは魔獣の左肩めがけて斧を振り下ろす。だが、魔獣は素早く身を引き、紙一重でそれを躱した。空を切った斧が、ドスリと音を立てて地面に突き刺さる。
その隙を狙い、魔獣がベンジャミンの腕めがけて食い付こうとする。斧を引き抜いて腕を引っ込められるか?いや、間に合わない。ベンジャミンは咄嗟に斧から手を離して、全力で腕を引く。直後、腕のあった位置に魔獣の顔が飛びこんできた。ベンジャミンはその顔に、再び松明を突き出す。右目を炙られた魔獣は、たまらず一歩、飛び退く。その間にベンジャミンは斧を引き抜いて構えた。
互いに決定打を欠いた戦いが続く。現状、ベンジャミンは無傷でこそあるが、森を長く歩いたことに加え、神経を集中しての戦いに、確実な疲労が蓄積している。魔獣も消耗はしているだろうが、そもそもの身体能力に大きな差があるのだ。もしもベンジャミンが集中力を切らし、ほんの一度でも隙を晒せば、魔獣の爪や牙は、難なく彼の身体を引き裂くだろう。とは言え、魔獣も幾度となく体を火で炙られ、その体力や闘争心を削られていた。決して逃走する意志は見せないが、その動きには警戒や恐怖が明確に表れ、積極的な攻めの姿勢を取れずにいる。焦りが生まれているのは、両者ともに同じであった。
ベンジャミンは松明を構えたまま、じりじりと魔獣への距離を詰める。魔獣はしばらくの間、その場でベンジャミンを睨んでいたが、松明が顔に触れそうな距離まで近付くと、徐々に後ずさりをしてベンジャミンの接近を拒もうとした。
いける。ベンジャミンはそう思い、速度を上げて魔獣に近付く。魔獣も同じ速度で、さらに後退してゆく。だが、突如その足をピタリと止め、勢いよくベンジャミンに飛びかかってきた。来た、と思いベンジャミンが今まで通り、魔獣の右腕側に身を躱そうとするが、そこには大きな一本の木が立っていた。
しまった、と思った。魔獣はこのタイミングを狙っていたのだ。ベンジャミンは相手が弱気になったと思い込み、まんまと無警戒に移動していた自分の間抜けさを呪った。魔獣は正面から、まっすぐに突っ込んでくる。とっさに松明を正面に構えるが、魔獣は左腕でそれを打ち払う。松明が飛ばされ、どこかに転がってゆく。魔獣はそのまま、ベンジャミンの左腕に食らいついた。
「ぐぁっ――!」
服の繊維を、さらに皮膚を突き破り、ベンジャミンの腕に魔獣の牙が突き刺さる。斧で殴りつけようにも、この体勢では上手く振るえない。慌てるベンジャミンの目の前で、骨の軋む音が響く。無我夢中でベンジャミンは、自分の腕に食らいつく魔獣の鼻に、思いっきり噛み付いた。
「ギャウッ!!」
思いがけない反撃に、魔獣は大きく悲鳴を上げて口を離し、ブルブルと首を振る。今しかない。ベンジャミンは斧を強く握りしめ、振りかぶった。
「くたばれっ!」
魔獣の脳天をめがけて、全霊の力で斧を振り下ろす。魔獣はそれに気付き、何とか躱す姿勢を取ろうとするが、間に合わない。刃が魔獣の頭に叩き込まれ、バキッ、と音を立てて、その頭蓋骨を砕く。魔獣はそのまま前のめりに倒れ伏し、動かなくなった。
その様子を見届けると、ベンジャミンは先程弾き飛ばされた松明に目をやった。どうやら、飛ばされた拍子に火は消えていたらしい。それを確認すると、改めて安堵のため息をついた。
魔獣を倒した。その事実は、ベンジャミンにとって大きな達成感を与えた。なにせ、王都の騎士ですらも苦戦する相手を仕留めたのだ。これだけで英雄と名乗るには物足りないが、それでも胸を張って自慢できるような功績だろう。魔獣に食い付かれた左腕がズキズキと痛み、染み出した血が服の袖を赤く染めていたが、それも今の彼は勲章のように感じていた。




