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翌朝、ベンジャミンは目を覚ますと、布団を跳ね飛ばすほどに勢いよく体を起こす。布団の中でモゾモゾと動いていては、また眠くなる。ベッドを下りると肩を大きく回し、その場で数度、屈伸をする。こうして眠気を吹き飛ばすのだ。今日も体の調子は万全である。
窓から差し込む朝日は眩く、八畳ほどの広さの彼の家を明るく照らしている。風が運ぶ土と草の香りも、小鳥のさえずりも、いつもと変わらない。心地よい「いつも」の感覚に、昨晩の暗い感情も溶けて消えてゆく。顔を洗い、適当に朝食を取ると、愛用の斧を腰に下げ、ベンジャミンは家を出た。ひとまず村の中心、井戸のある広場へと足を向けると、駆け回るティムの姿が目に入る。
「よう、おっさん!おかげで元気ビンビンだぜ!」
「おう、はしゃぎすぎて、また風邪ひくんじゃねーぞ」
「分かってるって!おっさん、サンキューな」
ティムは駆け回る足を止めぬまま、大きく手を振り、ベンジャミンに呼びかけた。ベンジャミンも軽く手を振り、大きな声で答える。元より大した病でなかったとは言え、思った以上に早い回復に、苦笑いがこぼれる。病み上がりからしてこの調子なのだから、普段トムソンやマールが手を焼いているのも無理はない。
軽く村を見回す。井戸の周囲にまだ人はいないが、おおよその村人は既に目を覚ましているらしい。薪を運ぶ男の姿や、煙突から煙を噴き出している家がいくつか見える。ふと、ベンジャミンはキャサリンのことを思い出し、村の西の家へと向かった。
「おいババア、俺だ。起きてるか」
「はいはい、起きとるよ」
乱暴に戸を叩き、声をかけると、しわがれた声が返ってくる。戸を開けると、キャサリンは食べかけのパンをテーブルに置いたまま、けだるそうに座って本を読んでいた。部屋にベンジャミンが上がり込むのを、特に気にしたような様子もない。ベンジャミンもまた、キャサリンの様子をそれほど気にせず、部屋を見回した。まず目についたのは、窓から吹き込んだらしい木の葉と、床に転がったランプだった。机の下を見ると、パンのかけらも落ちており、かなり散らかっている。ベンジャミンはランプをテーブルの上に戻し、こぼれた油をふき取る。それから、部屋を一通り掃除した。水がめの水もしばらく取り換えられていなかったらしく、これも井戸から新しい水を汲んで入れ替えておいた。一通りの仕事を済ませると、ベンジャミンは座って一息つく。
この程度のことは、今では日常茶飯事だ。女神の力が満ちていた頃は、老人の生活も一人でどうとでもなったものだが、今ではそうもいかない。キャサリンは表立って生活の不便を訴えることはないが、老齢に加え、日に日に悪化する生活環境が彼女の生きる力を奪っていることは、散らかりっぱなしの部屋を見れば明白だ。常に介護が必要なほどではないが、多少の生活の手助けは必要だ。
「いつも悪いね、助かるよ」
「いいってことよ。俺は英雄だからな」
「しかし、まあ。あんたも飽きないもんだね。最初に英雄だとか言い出したのは、いくつの頃だったやら」
「さあな。ま、ガキの頃だろ」
軽く昔のことを思い返す。ベンジャミンの記憶にある中で最も古いのは、今のティムと同じくらい……十歳ほどの頃だった。やっていた事は、今と大差はない。ただ家事の手伝いに来たキャサリンの家が、今よりずっと広く感じていたことを覚えている。そんな事を考えるうち、一つの疑問が浮上した。
「なあババア、あんた、俺がガキの頃からババアだったけどよ。今、いくつだ?」
「知りたいかい?今年で二十四さ」
「ああ、あんたに聞いた俺がバカだったぜ」
呆れるベンジャミンに対し、ヒッヒッヒ、とキャサリンが笑う。単にふざけているのか、それともボケが回ってきたのか、今となっては少し不安になるのだが、深くは追及しないことにした。そのまま少し会話をすると、ベンジャミンはキャサリンの家を出た。ひとまず自分の家に戻るか、それともまた、誰かの家を訪ねてみるか。そう考えていたベンジャミンを、間延びした声が呼び止めた。
「よー、聞いたか?」
呼び止めたのは、村一番の怠け者のゴンだった。世界の荒廃が進んで以来、誰もが薪割りや畑仕事に精を出す中、彼だけは頑として働こうとせず、あちこちをほっつき歩いている。そして、たまに村に戻っては村人たちに食料をねだる彼は、ほとんど厄介者であったが、その割に彼の悪い評判をさほど聞くことはない。それは彼が村の外を渡り歩いているおかげで外の情報に詳しく、王都や他の村のことを話して聞かせるのが得意であるためだ。もっとも有益な情報は滅多になく、大抵は下らない話であったし、それも本当のことかどうか疑わしいものが多かったが、退屈な田舎暮らしの村人にとっては、それでも良い刺激となっていた。そういった意味では、ある種の情報屋とも呼べるかもしれない。
ベンジャミンは、どうせ各地を渡り歩くなら行商人にでもなってしまえと何度も言っているのだが、そうしたことは「ガラじゃない」らしい。こうした損得勘定ができないからこその怠け者なのだろう。
「聞くって、何をだよ」
「何でも東の方でよ、救世主ってやつが出てきたらしいぜ。まだ小せぇガキらしいんだがな」
救世主、という単語にベンジャミンの目つきが少し変わったのを、ゴンは見逃さなかった。やはりこいつは分かりやすい。そんな顔をして、得意そうに語る。
「確か、女神の加護を受けてるとか何とかで、普通の人間じゃ使えない魔法ってのを使えるとかなんとか、そんなこと言ってたぜ」
「魔法?胡散臭ぇ話だな」
「まー、多分デタラメだろ。戦争はこっち、西部の方がずっと有利だしよ。あっちが兵士の士気上げるためにテキトーなこと言ってんじゃねーか?知らねーけど」
「何でぇ、結局そんなもんかよ」
やはりこいつの話は、いまいち信用ならない。ベンジャミンはため息をついて、肩をすくめた。救世主なんてものが本当に存在するのならお目にかかりたいものだが、そんな都合のいい話があるのならば、誰も苦労はしていないだろう。
「うわああああああっ!!」
その時、村に耳をつんざくような悲鳴が響き渡り、彼らの耳をびりびりと鳴らした。村の中心から響く、少年の声だ。頭で考えるより先に、腰の斧に手をかけ、ベンジャミンは駆け出していた。背後からゴンが呼び止める声が聞こえるが、それに耳を貸す暇もない。
声の正体は、やはりティムだった。腰を抜かして倒れた彼の見据える先には、一メートルほどの獣の姿。それは人狼と呼ばれる、有名な魔獣だった。魔獣としては比較的に小型の部類だが、鋭い爪と牙、強靭な筋肉と、それを覆う頑強な毛皮は、並の人間では到底太刀打ちできない脅威である。魔獣の中でも特に気性が荒く、こうして人里に現れるような事件を起こしやすいのも厄介な点だ。
魔獣は低く唸りながら、じりじりとティムに近付いてゆく。何かの理由で気が立っているのか、それとも単に腹を空かしているのか知らないが、その目には敵意を宿している。
「お、お前なんか怖くねーぞ!あっち行け!」
ティムは魔獣を見据え、後ずさりしながら、なんとか言葉で精一杯の抵抗を見せる。もっとも、そんなものが何の意味もなしていないことは、誰の目にも明らかだった。
ベンジャミンは魔獣への距離を詰めながら考える。魔獣がティムに襲い掛かるより前に、そこに割って入れるだろうか。間に合ったとして、ティムを庇いながら人狼と正面きって戦い、仕留めるほどの自信は無い。人狼と言えば、王都で訓練を積んだ騎士ですらも一対一では厳しいと言われる相手なのだ。それでも、ただ黙って見ているわけにはいかない。英雄である以前に村の仲間、家族として、自分が戦うしかないのだ。
何とか活路を見出さんとする中、予想外の事態が起こりベンジャミンは目を見開いた。必死の形相を浮かべたトムソンが、魔獣へ一直線に駆けていたのだ。その姿は完全な丸腰であり、無謀と言う他はない。息子の危機を見過ごせと言うのが酷な話であることは、ベンジャミンにも分かっている。だが、トムソンの存在が足手纏いでしかないこともまた、事実だ。苛立つベンジャミンの思いをよそにトムソンは魔獣へ一気に接近し、その身に体当たりをかます。ティムやベンジャミンに意識を向けていたためか、魔獣は体当たりをもろに受け、トムソンと共に吹っ飛んで転がった。その隙に、ベンジャミンはティムと魔獣の間に割り込んだ。
「今のうちだ、下がれ!」
「あ、ああ……」
ティムに向き直り、ベンジャミンが叫ぶ。すくんだ足もようやく落ち着いていたらしく、ベンジャミンの気迫に押されるようにして、ティムは近くの民家へと逃げ込んでいった。その様子を見届けると、ベンジャミンはわずかに安心したが、まだ懸念材料は残っていた。
言うまでもなく、魔獣はトムソンに敵意を向けていた。先程までのティムに対する、まだ警戒の混じった様子ではない。明らかに怒りに満ちた、攻撃の意志だ。ベンジャミンも、様子を見ている暇などない。必死にトムソンに駆け寄るが、魔獣が動く方が早かった。
「うあっ……!」
魔獣はトムソンに飛びかかると、その肩口めがけて噛み付いた。牙が皮膚を突き破り、血が溢れる。その痛みに、トムソンは声を上げた。魔獣は力を緩めることなく、強靭な顎に挟まれた骨がミシミシと音を立てる。
「こんの野郎っ!」
トムソンに覆いかぶさった魔獣に迫ると、ベンジャミンは狙いを定める間もなく斧を振り下ろした。うなりを上げて振り下ろされた斧は、魔獣の右肩に叩きつけられ、骨を砕いた。その一撃に怯み、魔獣はトムソンから口を離して飛び退く。
魔獣は体勢を整えると、改めてベンジャミンに対して向き直り、敵意を宿した目で睨み付ける。ベンジャミンもまた、怒りを込めた目で魔獣を強く睨み、魔獣に対してさらに接近する。すると、肩への一撃を受けて萎縮したか、魔獣は睨む目こそ逸らさないが、少しずつ後ずさりをして、ベンジャミンから離れようとする。
――勝てる。ベンジャミンはそう感じ、全身の闘争心と怒りを込めて、叫ぶ。
「失せろ!」
斧を振りかざし、自身の全ての気迫を叩きつける。すると、魔獣はビクリと体を震わせた後、背を向けて森へと走り去っていった。その背をベンジャミンは睨み続けていたが、姿が完全に見えなくなると、ようやく胸をなで下ろした。
戦いにおいて、「気」で勝ることは、何より重要な事だ。特に、相手が獣のような単純な相手であるほど、精神的な優位性を得ることは大きい。先程の状況ならば、根本的な身体能力の差や倒れたトムソンの存在を考えれば、肩を砕かれてもまだ、魔獣の側が優勢であっただろう。だが、比較的に知能の高い魔獣と言えども、人間ほど冷静に状況を判断する知能はない。ゆえに、先程のような「威嚇」が有効なのだ。
「父ちゃん!」
倒れたトムソンに、ティムが駆け寄った。ベンジャミンもトムソンに目を向ける。太い動脈は傷付いていないらしく、出血は思ったよりも少なかったが、それでも小さな怪我ではない。
「とにかく、家に運ぶぞ」
ティムに声をかけると、できるだけ傷口を動かさないようにしながら、ベンジャミンはトムソンを担ぎ上げた。ティムもその体を支えるように手を添え、家へと向かった。




