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 女神の樹は、かつての力を取り戻し、世界に再び恵みを与えるようになった。

 争う理由が無くなったことにより、すぐさま戦争は終わり、飢えや病に苦しんでいた人々も瞬く間に豊かで健康な生活を取り戻してゆく。

 一度、滅亡の危機に瀕した人々は、日々の恵みに、一層の感謝の念を持つようになった。それは女神に対してでもあり、何より世界を救い、その名も告げずに立ち去った英雄……黒い髪をして、無精髭を生やした男に捧げられていた。

 それから、一年ほどの時が過ぎた。戦争による東西の確執も、その頃にはどちらともなく消え、世界は再び一つへ戻る。誰もが豊饒な世界で手を取り合い、幸せに包まれていた。

 ……英雄と呼ばれた、ただ一人の男を除いて。


 汚れたベッドの中で、ベンジャミンは目を覚ました。最後に布団を干したのは、いつだったか思い出せないくらい前になってしまったが、どうでもいい。好き放題に生えたカビも、周囲を跳ね回る虫も、鬱陶しいとも感じない。

 ベッドの脇に置いた酒瓶を手にとって、喉に流し込む。まずい。元々、ベンジャミンは酒など飲まなかった。悪酔いしてばかりだし、酒の味の良さも分からない。それでも今は、酒でも飲まなければやっていられないのだ。

 誰かが家の戸を、叩く音が聞こえた。返事をする気にもならない。黙って寝ていると、外から声が聞こえた。

「俺だよ、ベンジャミン……」

 トムソンの声だ。あいつは、今でも時々、俺の様子を見に来る。だが、その気遣いも、煩わしさしか感じない。

「何の用だ」

「お前、いつまで……そんな生活続ける気なんだ?」

「俺の勝手だろうが」

「けど、もう一年も経つんだぞ。それに……」

 トムソンは、少し口ごもってから、続けた。

「前から言われてる英雄って、お前のことだろ?お前、あんなに英雄に憧れてたってのに、一体どうしちまったんだよ?」

「――うるせえ!帰れ!!」

 ベンジャミンは激昂し、家の戸に向けて怒鳴りつける。トムソンが、すごすごと帰ってゆく足音が聞こえた。

 金目のものを売り払っては、酒を飲んで寝る。ベンジャミンはそんな自堕落な生活を、ずっと続けている。体の中にまでカビが生えたようで、いつも不愉快だった。もう、幸福という感情がどんなものだったかすら思い出せなくなりつつある。


 再び、家の戸が叩かれた。さきほどより乱暴な音がする。それから、子供の声。

「おーい、英雄ーー!いないのかよーー!!」

 また出たか、とベンジャミンは思った。自宅の中に引きこもっていても、どこからか嗅ぎつけて、こうして見物に来るやつがいる。村人に口止めをしているわけでもないので、どうせ誰かが馬鹿正直に俺の居場所を伝えているのだろう。

 ベンジャミンは、黙って寝転がっていた。やあやあと出ていくつもりなど毛頭なかったし、追い返すのも面倒だ。諦めて帰るのを待っていたが、今日の相手は随分としつこい。閂を壊しそうなくらいにガタガタと戸を揺らす様子に、ベンジャミンは重い身を起こし、乱暴に戸を開いた。

「うるせえぞクソガキが!とっとと失せろ!!」

「うわっ!?化け物だ!!逃げるぞ!!」

 家の外には子供が、二人いた。だが、髪もヒゲも伸び放題で、カビだらけの布切れを纏ったベンジャミンの姿を見ると、一目散に逃げ去っていった。こんなものが英雄だとは、さすがに思いもしないだろう。

 ベンジャミンは苛立ちながら戸を閉め、再びベッドに寝転がる。二度も来客の相手をさせられたせいで、目が覚めてしまっていた。

 眠れない。こんな時に考えるのは、いつも同じことだ。

「……エステル」

 呟き、涙を流す。その身を犠牲にして、世界を救った、本当の英雄の名。

 実際のところ、東の王に話を通し、本当の英雄はエステルだ、以前から救世主と呼ばれていた少女だと発表させれば、その名を知らしめることは、できるだろう。今からでも、遅くはない。

 だが、ベンジャミンはそうして真実を公表することに、意味を感じられなくなっていた。


 平和が戻ってから程なくして、ベンジャミンは世界の様子を見て回っていた。人々は誰もが、世界を救った英雄の誕生という吉報に、浮かれていた。それ以外の存在を、すべて忘れるほどに。

 そう、誰もが……エステルの存在など、これっぽっちも覚えていなかったのだ。

 やれ救世主だと彼女を持ち上げ、村を出ざるを得ないほどに追い込んだ東部の人間すら、その存在をすっかりと忘れ、ベンジャミンという英雄を讃えた。本当に世界を救った英雄が、誰なのかも知らずに。

 こんな軽薄な、英雄を賛美する言葉の対象をエステルに移し替えたところで、それに何の意味があると言うのだ。あいつらは彼女の苦しみも、決意も、何一つ知らないのに。

 そのくせ彼女の生き様を知れば、人々は、いかにも感動的な脚色でも付け加えた上で、『命と引き換えに世界を救った救世主』という美談を、他者に語り始めることだろう。

 何も知らない人間たちの、感動話の種にするために、俺は真実を公表したいんじゃない。ただ、彼女の存在を、無かったことにしたくないだけだ。このままでは、あまりにも、彼女が報われないではないか。

 彼女が生きていれば、名声なんてどうでもいいと、笑い飛ばしただろうか。俺に対して、英雄になれてよかったねと、祝福するだろうか。

 どんな言葉でもいい。彼女の言葉を、もう一度聞きたい。彼女にもう一度、会いたい。叶わぬと知りつつも、願いを止められない。

 無意識のうちに、ベンジャミンは独り言を言い始める。それは、光とともに消えていった、彼女への言葉。

「……お前が救った世界は、平和だぜ。お前の名前も、顔も知らない奴らが、みんな幸せに生きていやがる。俺は……お前に、何かしてやれたのかよ?クソの役にも立たねえ、ただの凡人がよ。なあ、教えてくれよ……」

 呟いた言葉が、崩れかけた家の中で空しくこだまする。流れる涙が、また枯れる。もう、どうにもならない。また眠ってしまおう。

 目を閉じたベンジャミンの耳に、再び、家の戸を叩く音が聞こえる。無視して、そのまま帰るのを待つ。だが、今度もまた、なかなか相手は観念しない。また、ベンジャミンは痺れを切らした。体を起こし、戸に向かって叫ぶ。

「うるせえぞクソガキが!失せろっつってんだろうが!!」

「えー?でも、せっかく来たんだよ?」

「知るかボケ!とっとと消えろ!!」

 妙なことを言う声に、再びベンジャミンは怒鳴りつける。先程の子供とは違う声だったが、知ったことではない。

「あれ?ホントに帰った方がよかった?」

「そう言って――――」

 やはり先程の子供とは違う声。若く、活発そうな少女の声が、ベンジャミンを心配するように話す。その声、その話し方に聞き覚えがあるような気がして、怒鳴りかけたベンジャミンの言葉が止まった。

 まさか。有り得ないと思いつつも、ベンジャミンは目を見開いて跳ね起き、全力で入口へ駆け、戸を開く。


 家の前には、誰もいない。自宅前の、変わらない光景が、そこにあった。

 ベンジャミンは落胆する。それから、バカバカしいという思い。消えたあいつが、帰ってくるはずもない。

 さっきのは、幻聴か。とうとう耳までおかしくなってきたか。それとも、頭か。どっちでもいい。ただ、こんな下らないぬか喜びだけは御免だ。

「とうっ!」

 家の中に戻ろうとしたベンジャミンの耳に、また、聞き慣れた声が聞こえた。それから、ドサリという音と、体の横から吹き付ける風。屋根の上から、掛け声と共に誰かが飛び下りてきたのだ。突然の事に、ベンジャミンは驚いて飛び退く。それから、飛び降りてきた相手の姿を、確認する。

 十代半ばほどの少女。ぼさぼさとした亜麻色の髪を頭の後ろで一つに縛っており、麻布の粗末な服の上に、少し丈の短いマントを羽織っている。その姿は、見間違えるはずもない。彼女だった。

「えへへへ……ただいま!」

「なん、で……お前……」

 エステルは頭を掻きながら、屈託のない笑顔を向けた。何が何だか分からない様子で戸惑うベンジャミンに、優しい声で話す。

「……人の夢が、女神を創って、人の願いを叶えるようになった。おじさんが、私のことを覚えててくれたから……夢を持ち続けてくれたから。だから、私は……帰ってこられたと思うんだ」

「まさか……そんなこと、あるわけ……」

「けど、私は今、ここにいるよ。おじさんのおかげで、ね」

「幻覚かなんかじゃ、ねえのか……?」

「えー……信じてくれないなら、本当に消えちゃうよ?」

 まだ信じられないという態度を取り続けるベンジャミンに、エステルが拗ねたように、頬を膨らませてみせる。

「ばっ、バカ!せっかく出てきたのに、消えんじゃねえ!!」

 軽い冗談のような言葉だったが、ベンジャミンは大慌てになった。それを見て、エステルが微笑む。

「……冗談。私はもう、どこにも行かないよ」

 そして、いたずらっぽく笑いながら、言った。

「世界の英雄が、誰だとしても……私の英雄は、あなたしかいないんだから。……なんてねっ!」

「は、はは……」

 にっ、と白い歯を見せて笑うエステル。ベンジャミンは、言葉が出なかった。

 エステルが、いる。本当に、帰ってきたのだ。話したいことは山のようにあるのに、頭が真っ白になって、何から話していいものか分からない。

「ついてきて、おじさん。見せたいものがあるの」

「見せたいもの……?」

「言ったでしょ。人の夢が、女神を創ったって。世界中の人たちの中に、まだ夢があるなら……きっと、新しい女神だって、生まれてきてくれるはずだよ」

 女神、という言葉も、どこか懐かしい響きだった。確かに、エステルが帰ってきたのなら、女神の再誕なんてことも、ありえる話だ。それを確かめに行くことには、異存は無かった。

「あ、ああ……でも、ちょっと待てよ」

「うん?」

「髪とヒゲとか、切んねえと……このままじゃ、ちょっとな」

 なにせ、丸々一年も酷い生活態度だったのだ。エステルは何も言わなかったが、この格好のままで旅立つのは、さすがに抵抗がある。

「ふふっ……あはははは!おじさんでも、そんなトコ気にするんだ?」

「うるせえバーカ!とにかく、ちょっとだけ待ってろ!」

 身だしなみを整えるため、家の中に戻ろうとする。その瞬間、ベンジャミンに一抹の、不安がよぎった。

「……俺が、髪切ってるうちに、また消えたりすんなよ?」

「わかってるってば。それとも、ずっと横で見てた方がいい?」

「へっ、バカ……すぐ済ませるから、待ってろ」

 優しくも力強い彼女の言葉に、不安はかき消された。もっとも、モタモタとしている暇はない。ベンジャミンは大急ぎで髪とヒゲを整え、体を拭き、一番清潔そうな服に着替えて、外に出る。

 エステルは、変わらぬ笑顔で、家の外にいた。ベンジャミンの手を取り、女神の樹へ続く道を、軽快に駆け出してゆく。


 ベンジャミンは、久しぶりに世界を見た。緑に満ち、清らかな水が流れ、暖かな太陽が、道を照らしている。木々は力強い枝を伸ばし、青々とした葉を茂らせ、艶やかな果実を実らせる。獣たちは野を駆け回り、鳥は祝いのように空を舞う。世界は、全てが輝いていた。

 野を超え、丘を越え、細い道を上り、煌めく森を駆け抜ける。道を抜けるごとに、二人での旅を思い出す。辛く苦しいことも、怒り狂うようなこともあったが、今となっては全てが懐かしく、美しい思い出だった。

 そして、二人は、女神の樹へと辿り着く。キラキラと輝きを放つ大樹の前、森を漂う光の粒子たちが、一つ、また一つと、集まりつつあった。一つ集うごとに、光は大きく、強く、輝きを増してゆく。その光景に、ベンジャミンとエステルは目を奪われていた。

 光は徐々に、人の形をとる。そして、二人の前へ降り立ったのは、長く伸びた黄金色の髪をなびかせた、美しい女性。

 新たなる女神の、誕生だった。


 女神は二人へ、慈しむように微笑んだ。

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