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「グ、オオ……!」
黒い血をゴボゴボと吹き出しながら、怪物が呻く。ドサドサと音を立てながら、その手足が崩れ落ちてゆく。怪物に、これ以上戦う力がないことは明らかだった。
だが、二人が勝利の余韻に浸る間は、無かった。突如として大地が激しく鳴動し、ひび割れ、砕け始めたのだ。立っていられないほどの激震に、二人は崩れ落ちる。
「何だ……何が起きてんだよ!?」
狼狽し、叫ぶベンジャミン。それに、地に伏した怪物が答えた。
「愚か者め……我は女神、その我を滅ぼすことは、即ちこの世界の崩壊を意味する……!」
「……ンだとぉ!?」
「初めから、そなたらに生きる道など、存在していなかったのだ。ふふ、ははははは……」
その言葉を最期に、怪物の体は完全に崩壊し、塵となって崩れ落ちた。
「クソが……ッ!こんな終わり方、有りかよ!!」
実を言えば、女神を殺せば世界が崩壊する可能性は、ベンジャミンにも予測できていた。しかし、戦う以外の方法も無ければ、あの怪物を相手に手加減をする余裕もなかった。そして何より、戦おうと戦うまいと滅びる道しかないなんて、とても認められなかった。
戦って勝てば、きっと解決するはず。そんな期待に任せ、女神を打ち倒した。それ以外の方法など、無かったはずだ。俺たちは、間違っていなかったはずだ。なのに、結局、世界が滅びて終わりなんて――。
「――落ち着いて、おじさん」
ベンジャミンの肩に、エステルが手を置いた。優しく、力強い彼女の言葉と、姿。しかし今、この状況では、それも気休めにすらならない。
「落ち着いてる場合か!この状況、どうしろっつーんだよ!?」
「……大丈夫。大丈夫だから」
我が子をあやす母親のように、優しく諭す声。そして、強い決意を固めた瞳。エステルは揺れ続ける大地を力強く踏みしめ、女神の樹へと歩み寄る。その姿に、ベンジャミンは口をつぐんだ。
彼女が何をしようとしているのか、何を考えているのか、分からない。ただ、今の彼女の言葉は、目は、ただ俺を落ち着かせるための出任せではない。そう確信させる、何かがあった。
エステルが、女神の樹へと辿り着く。そして、木の幹へと両手をつき、呼吸を整える。そして、強く意識を集中した。
刹那、エステルから、女神の樹から、溢れんばかりの光が放たれ、一帯を強く照らし出す。ベンジャミンが今までに見た中で、最も強い光だった。とても目を開けていられず、瞼を閉じる。それでも尚、強まり続ける光に、腕で目を覆った。
光に包まれる中、徐々に大地の鳴動が収まるのを、ベンジャミンは感じた。程なくして少しずつ、光が弱まる。
再び目を開いたとき、揺れは治まり、崩れかけていた大地も、元の姿を取り戻していた。怪物の瘴気を受け、草の枯れた地面にも、急速に新たな草が芽生え、緑が息吹く。
いまだ膝を付いたまま、何が起こったか分からない顔をしているベンジャミンへ、エステルが振り向き、歩み寄る。
「……なんとか、なったみたい」
柔らかな笑顔を浮かべ、彼女は言った。ベンジャミンは立ち上がる。
「お前が……やった、のか……?」
「うん。私に残ってた力、全部使っちゃったけど……」
その言葉が合図したように、エステルの持っていた剣にピシリと亀裂が走り、崩れ落ちた。
剣に宿る力。そして、エステル自身に宿る力。その全てを女神の樹へと注ぎ込み、彼女は、主を失った女神の樹を蘇らせたのだ。
まさに、奇跡……いや、これが救世主の力なのだ。こいつは本当に、比喩でも誇張でもなく、世界を救ってしまった。俺たちは、世界中の人々は、助かったんだ。ベンジャミンは感動に打ち震え、世界を救った英雄の身を、抱き締めようとした。
その手が、空を切る。勢い余って、ベンジャミンは前方に転んでしまった。距離感を間違えた?まさか。エステルは俺の、目の前にいたはずだ。何が起こったのか理解できないまま、ベンジャミンは立ち上がり、エステルの方を向いた。その顔から、一瞬にして、血の気が失われた。
エステルの体は、少しずつ、光の粒子となって消えつつあった。彼女の全身から、蛍のような光が絶え間なく放たれ、それに合わせて、その姿が少しずつ薄れてゆく。彼女の体を通して、向こう側の景色がうっすらと見えた。
「あははは……やっぱり、こうなっちゃったかぁ……」
指先の消えた手で頭を掻きながら、彼女は笑って、そう言った。
「やっぱり、って……お前、分かってたのかよ!?」
「うん。言ったでしょ。私に残ってた力、全部使っちゃった、って。でも、ちょっと……自分の身体が消えていくのって、変な気分だね」
残酷すぎる運命だった。世界を救った英雄を待つのが、人々の歓声でも、王の祝福でもなく、ただ、その場での死であると、誰が思い描いただろうか。
ベンジャミンは耐えきれず、あふれ出す涙を止めることができない。震える声で、エステルへ叫ぶ。
「……何でだよ。なんで、お前は……そんなこと、できるんだよ!?お前、消えるって……死ぬんだぞ!!」
「でも、こうしなきゃ……きっと、誰も助からなかったから。どっちみち、死んじゃうなら……おじさんたちを守れた方が、ずっと嬉しいから」
「けど……!」
「それにね、私……」
子供のように泣きじゃくるベンジャミンに、エステルが笑顔で言葉を続ける。彼女の体は既に、おぼろげに人の形を残した輪郭が、うっすらと見えるだけになっていた。
「知ってたよ。どうせ、長く生きられないんだ……って」
「……ッ!」
「だからね、覚悟はしてたの。ちゃんと間に合って、本当に良かった」
もはやベンジャミンは言葉を失い、俯いたまま、黙り込んでしまう。流れ落ちる涙が、足元の草へと落ちて、消えてゆく。
「あのね、私……おじさんと一緒に旅ができて、本当に楽しかったよ。きっと、一人で旅をしてたら……ここまで来られずに、諦めてたと思う。こんなに苦しいなら、世界なんか消えちゃえばいいって、そう思ってたかもしれない。でもね、おじさんがいたから、私はここまで来れたの。おじさんがいたから、世界を救えたんだよ」
ベンジャミンは、顔を上げた。そこに、彼女の姿は無い。無数の光の粒子となって消え、森の輝きと一緒になって、どこかへ行ってしまった。
「さようなら、ベンジャミン……」
姿を消した彼女の言葉が、ベンジャミンへ届いた。それを最後に、彼女の気配は、完全に消えてしまった。
かすかに聞こえる、木々のざわめき。どれだけ待っても、その中から、彼女の声はしない。輝く森の中、ただ一人残されたベンジャミンのむせび泣く声だけが響いていた。
「……エステル」
彼女の名を呼ぶ。それに応える者は、いない。
呼びかけた言葉はただ、森の中に吸い込まれ、消えてしまう。
ふらふらと、ベンジャミンは歩き、女神の樹へと近付く。その幹を、激しく殴りつけた。
「何が……何が英雄だ!!結局、俺の存在なんて……何の役にも立ってないじゃねえか!!」
嗚咽と共に、叫ぶ。己の無力さに反吐が出て、頭が割れそうに痛んだ。
「俺じゃ……俺じゃダメなのかよ!世界を救う気はあった、自分が犠牲になっても良かった!なのに、なんで……こいつが犠牲にならなきゃいけねえんだよ!!この……クソ女神が!勝手に産まれて、勝手に引っ掻き回して、勝手に滅ぼすとか言い出しやがって!!」
理不尽な運命への呪いを、ただ吐き出す。耳を貸す者がいないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。何度も樹に拳を打ち付け、裂けた皮膚から血が流れる痛みすら感じない。
「クソッタレの樹め……!おいクソ女神!出てこねえと俺が今ここで叩き折るぞ!折られたくねえなら出て来いよ!出てきて、何とかしてみろよ!!」
懇願交じりに、怒号を叩きつける。しかし、女神の樹は、何を言うこともない。祈り、待てども、ただ虚しく木々のざわめきが聞こえるだけだった。
「出てきて、くれよ……!」
叫ぶ気力も、流す涙すら枯れ、ベンジャミンは崩れ落ちた。
その頭上を、数羽の鳥が通り過ぎてゆく。女神の樹の森へと逃げ込んでいた鳥が、元の巣へと帰ろうとしていた。
それから、どこをどう歩いたのかも分からないまま、気付けばベンジャミンは、森の出口に立っていた。そして、その眼前の光景に、瞠目する。
血に染まった砂ばかりだった戦場に緑が芽吹き、枯れ木は命を取り戻し、花が咲き乱れていた。暖かな太陽と、遠くに見える海の青すら、輝きを増したように見える。かつての、世界に女神の力が満ちていた頃のような光景だった。
そうだ、世界は、元々こんな姿だった。エステルが、女神の樹に命を吹き込んだおかげで、この光景が取り戻されたのか。命を懸けて殺し合っていた兵士や魔獣たちも争いをやめ、蘇った世界に目を輝かせている。
ベンジャミンは、戦場の丘から森へと続く、細い道を下りてゆく。兵士の誰かがそれを見つけ、道のふもとに走り寄ってくる。その様子を見て、他の兵たちも次々に集まってきた。周囲に歓声が沸き上がる。
「あなたが……あなたが、この世界を救ってくださったんですね!?」
それを聞いたベンジャミンは眉をひそめ、歯噛みする。一つ一つ説明したところで聞きそうにないし、第一、そんなことをする気力も、今の彼には残っていなかった。群衆の中を通り過ぎながら、「違ぇよ」と一言だけ吐き捨てる。その彼の背に、群衆からの声が届く。
「けど、女神の樹に続く道はここ一つだけじゃないか!」
「そうだ!あなたこそ英雄……この世界の救世主だ!!」
誰かが叫んだその言葉に、ベンジャミンは表情を大きく歪めた。そして、逃げるように全力で駆け出す。自分を讃え、呼び止めようとする群衆の声の一つ一つが胸を締め上げるようで、一刻も早く、その場を離れたかった。




