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「おーっす、英雄様の帰還だぜ」
村へ戻ったベンジャミンは軽い調子で言いながら、民家の戸を軽く叩き、そのまま中へと踏み入った。もちろん普段ならば、勝手に他人の家に上がり込むことはしないが、家主が古い友人であれば、話は別である。
「お、早えーな、おっさん」
ベッドに寝かされて退屈していたティムが、真っ先にベンジャミンを迎える。続けて、その両親……トムソンとマールの二人も、ベンジャミンが得意げに薬草を掲げる姿を見て、歓喜の表情を浮かべる。ベンジャミンは、当然だ、と言うように軽く頷くと、そのまま調理場へと向かった。適当な鍋に水を張り、手持ちのオイルライターで火を点けると、鍋に薬草の根を放り込む。こうして煮詰めた汁が、風邪に効くのだ。
「こんな夜中に、悪いな。俺が行ければよかったんだが、今じゃ魔獣も狂暴になってるし……」
「いいってことよ。こいつも、未来の英雄の義務ってやつだ」
申し訳なさそうに声をかけるトムソンに、ベンジャミンはいつもの調子で返した。その様子を見て、またか、と言いたげにマールが少し笑った。なにせ二十年も昔から、同じことを何度も聞いているのだ。もっとも、それは言い換えれば、それだけ昔から、幾度となくベンジャミンに助けられているという事でもあった。
「お前も、もう三十一だろ?いい加減、英雄とか何とか言うのも諦めりゃいいってのに」
「へっ、うるせーよ。お前と俺様じゃ器が違うってんだ。俺はまだまだ、これからなんだよ」
いつもと同じようなことを言うトムソンに、いつもと同じような態度でベンジャミンが胸を張る。
「けど、これから、これからって言って、婚期を逃したのはどこの誰だったかしら?」
マールはそう言って、わざとらしくトムソンに身を寄せた。その肩を軽く抱き、トムソンも白々しく言う。
「ああ、そうそう。俺はもう子供も大きくなってきたのになあ。どっかの誰かさんは寂しいよなあ」
「うるせえよ、バカ夫婦」
ベンジャミンは呆れた顔を作った。実際のところ、彼が女に相手にされていなかったわけではない。ただ、英雄となるにあたって家庭は邪魔になると、ベンジャミン自身が浮いた話を遠ざけていたのだ。そうでなくとも、家庭を持つのに向かない性分をしていることは、自分が誰よりも自覚していた。
もっとも三十を過ぎた今となっては、家庭も持たず、大きなことばかり言ってフラフラしている彼を嘲る声もある。そんな中、こうして冗談を言い合えるトムソンたちは、数少ない相手であった。
しばらく談笑を続けるうち、鍋の湯が減り、薄い琥珀色がつく。頃合いを見てベンジャミンは火を消し、出来上がった薬湯をコップに注ぎ入れ、少し冷ましてからティムに渡した。
「うわぁ、まずそうな臭い」
「まずい方が良く効くんだよ」
「ホントかよ」
ティムはおずおずとコップに口を付けると、その中身を少しだけ口に含んだ。少しだけ味を確かめるように舌を動かしたが、すぐにやめて一気に飲み込み、渋い顔をした。味の感想は、聞くまでもないだろう。
「これ、全部飲むのかよ」
「いつも早く寝なさいって言ってるのに夜更かしするから、罰が当たったのよ」
やんちゃな子供に言い聞かせる良い機会だと思ったのか、マールは面白そうに言う。何か言い返そうにも反論のできない状況に、ティムは口をとがらせた。
「お前がいい子にしてるかどうか、女神様はちゃんと見てるんだよ」
「くそー、余計なとこばっか見やがって」
続けて説教をするトムソンの言葉を聞き流すように、ティムは残りの薬湯を一気に飲み込んだ。一口だけの時よりもずっと強い苦味が舌を襲い、喉に、鼻に、薬草の匂いが充満する感覚に身震いする。空になったコップを見ると、少しの安心感と達成感を得たものの、それでも「もう二度と飲みたくない」という思いが遥かに勝っていた。
「ま、味に文句言う気力がありゃ十分だ。その調子なら明日には治ってるだろ」
悪態をつくティムに、笑いながらそう言うと、ベンジャミンは「じゃあな」と小さく言って玄関へと向かった。トムソンとマールが、それを見送る。
「今日は本当に助かったよ。お前も、風邪ひかないようにゆっくり休んでくれよ」
「また今度、うちに来てね。今日のお礼に、何か美味しい物でもごちそうするから」
二人の言葉に、おう、と返事をして外に出て、後ろ手に戸を閉めた。
ご馳走か。昔ほど良い食材は手に入れにくくなったが、マールの料理の腕はなかなかのものだ。次の機会には期待できるだろう。そう考えたところで、ベンジャミンは一つのことを思い出した。結局、森に入ってから今まで、何も食べていないじゃないか。森で空腹を感じた時は、その直後に薬草を見つけたことで浮かれていたし、トムソンたちの家に到着してからも、薬湯を作ったり談笑していたりで、空腹を忘れていたのだ。
一段落して食事のことを思い出したところで、今まで忘れていた空腹感が一気に押し寄せてきた。いっそ今すぐマールに何か作ってもらうことも考えたが、出たばかりの家に戻るのは不格好が過ぎるだろう。それに、今日はもう遅い。今から余計な仕事を増やすのは、やはり迷惑がかかる。
何でもいいから適当に腹に入れて、今日はさっさと眠ってしまおう。そう考え、仕方なくベンジャミンは自分の家に戻ることにした。ベンジャミンの家は、村の中心から少し外れた場所――ちょうど先程の森と、村の中間あたりにある。森に出入りするのに便利だという理由で選んだ場所だが、今では森に入り込もうとする魔獣を監視するにも都合の良い位置である。むろん、それだけ自分は危険に晒されることになるが、その程度の危険は受け入れてこその英雄だと、彼は考えている。
家に帰り着くと、ベンジャミンは肩の力を抜いた。ようやく落ち着くことができる。決してトムソンたちと過ごすことが負担だったわけではないが、やはり一人でいる時の方が、安心して休むことができる。なにせ、でかい音で屁をこいたところで誰も文句を言わないし、英雄としての恥にもならないのだ。他人のいる場所では、この安心感はない。
台所の棚を眺める。米や小麦粉も保存してあるが、今から調理をする気にはならない。どうしたものかと思いながら漁っていると、以前燻製にした魚が三枚ほど残っていることに気付いた。これなら上等だ。明かりもつけず、手づかみで食べ、水で流し込む。あっという間に全て平らげると、ベッドに横になった。
長く森の探索をしていたせいで疲労は溜まっていたが、まだ少し目が冴えていた。寝返りを打ち、目を空けたり閉じたりしながら、眠気が来るのを待っていると、不意に本棚が目に入った。ぎっしりと埋まった本棚を埋め尽くしているのは、実用書もあったが、何より冒険ものの小説……「英雄」の物語だ。
英雄、という言葉は昔と変わらず、ベンジャミンの心を照らし続けている。一方で、その光が自分にとって重荷となりつつあることも自覚していた。ただ便利屋を続けるだけで、そのうち英雄になれるなんて甘い幻想を見るほど、ベンジャミンも馬鹿ではない。英雄となるならば、世界の危機を救うほどの功績が必要だ。
世界の危機。現在、女神の力が失われゆく状況は、確かに危機と言えば危機だ。世界のあちこちで人々が苦しみ、混乱している。この状況を解決できたならば、英雄と呼ばれるのも絵空事ではないだろう。だが、そのために何をすればよいかなど、彼の頭にはさっぱり思い浮かばなかった。よくある英雄譚ならば、悪さをしている「敵」を倒すところだが、そんな奴の存在など、とんと聞かない。それどころか、世界のお偉いさん方は、東西の国で分かれて、人間同士で女神の樹の取り合いをしている始末だ。
ならば、戦争を止めれば英雄か?おそらく無駄だろう。争いの手を止めたところで、世界の荒廃が止まるわけではない。本当に世界を救うならば、女神の力が失われたこと、それ自体を解決する必要がある。だが、そんな事が一人の人間にできるのならば、とっくに誰かが手を打っているだろう。
そもそも、女神なんてものが本当に実在するのかどうかすら、疑わしい。村の老人の中には女神の姿を見たことがあるという者もいて、それは美しい女性の姿だったと口を揃えて言っていたが、ベンジャミン自身は一度として見たことがない。もしかすると、子供に話して聞かせるおとぎ話のようなものに過ぎないのかもしれない。だが、女神が存在しないのならば、世界が荒廃した原因が、なおさら分からない。それを調べれば良いのか?一体どうやって?
考えれば考えるほどに謎は増えるばかりで、それに伴って、思考も纏まりを失ってゆく。ただ黒く鬱積する感情に包まれるようにして、いつしかベンジャミンは眠りについていた。




