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それは今からずっと、ずっと昔の時代。この世界には、荒漠とした大地だけが、どこまでも続いていました。
あなたたちの祖先は、その大地で生まれました。
草木もほとんど育たず、飲み水を得るのも容易ではない。そんな恵まれぬ世界の中で、彼らは手を取り合い、必死になって生きようとしていました。
地を耕し、水路を引き、荒れ果てた大地を少しずつ人の住める場所へと変えてゆきました。
それでも決して、豊かな暮らしとは言えませんでしたが……実りなき大地は確実に、緑豊かな楽園へと変わり始めていたのです。
人々は営みを続けました。村を作り、さらなる地を開拓し、その数をどんどんと増やしてゆきます。人々はいつしか個性を持つようになり、それぞれの考え方、生き方を持つようになります。
ですが一つだけ、その人々には共通したことがありました。それは、誰もが豊かな明日を、人々の幸せを願う。同じ夢を持っていたことです。
そして、人々の持つ夢は……やがて、一つの形となって実ることになりました。
それが女神の樹と呼ばれる、一つの大樹でした。人々の希望から生まれたその樹は、確かな意思を持ち、人々を見守っていました。そして、いつからか……その意思は人と同じ形を取り、女神と呼ばれる存在へと、変わっていったのです。
女神様は、人々を見守り、その人々を、誰よりも愛していました。恵まれぬ世界の中でも、決して折れることなく必死に生きてゆく者たち。手を取り合い、明日への希望を忘れず、夢を持ち生きる者たち。彼らに、より多くの幸福を与えたいと、女神様は願うようになりました。
女神様は大樹に宿りし力を用いて、その人々……いえ、この世に生きる全ての者たちに、恩寵をお与えになりました。清らかで、尽きることのない水。甘美にして、一口で病を撥ね退ける果実。かつての世界では決して得られなかったものを、女神様は次々に作り出します。それらは、この地に生きる者たちに、幸福を与えたかに見えました。
しかし、それから長い時が過ぎたころ。その地に生きる者たちは、女神様の望んでいた姿とは、かけ離れた存在になり果てていたのです。
揺るがぬ平穏に安心し、何の不安もなく生きる者たち。それは確かに、幸福な生を送っていました。しかし、そこには恵まれぬ地で生き抜こうとしていた、かつての人々の強く気高き意志は失われていました。
いつしか、女神様が恩寵を与えるのは当たり前のこととなり、人々は豊饒な大地への感謝も……女神様の存在さえ、忘れていたのです。与えられた恵みと安寧を享受し、ただ何も考えず生き、何も考えず死んでゆくだけの生物。それは、女神様の望んだ人々の姿ではありませんでした。
生命とは、これほどまでに退屈で、これほどまでに空虚なものではなかったはず。強く、気高く、美しいものだったはずだ。それを変えてしまったのは、間違いなく自分だ。自分が考えなしに恵みを与えたせいで、気高き生命は、あるまじき方向へと歪められてしまったのだ。女神様は深く苦しみ、嘆かれました。
やがて女神様は……程なくして、自身の力を絶たれました。己が歪めてしまった生命を、あるべき姿へと戻すために。
しかし、その結果は今の世界を見ての通りです。女神様の恩寵を受け続けてきたこの世界は、もはやその力なくしては成り立たないのです。
私は女神様へ、再び世界へ力をお与えになるようにと、願いました。ですが、女神様の決意は固く……その願いは、聞き入れられませんでした。世界の荒廃は、いまだ進み続けています。
女神様より生まれた私にも、人を超えた力は与えられていました。しかし、私の持つ力は女神様の力の、ほんの一部のみ。私の持つ力だけで、この世界の全てを支えるほどの恵みを与えることは、とても不可能でした。それでも気休め程度に、この周囲の地の荒廃は防いでいましたが、それも限界が近付こうとしています。
私は考えました。何としても、女神様に再び世界への恩寵を与えていただこうと。
「そして……その答えが、あなたです」
精霊は長く語った後、そう言ってエステルへと目を向けた。エステルは、わずかに驚いた表情を見せる。
「女神様の力とは、人の夢……強き意志より生まれしもの。気高き意志を持つ人の力は、計り知れない可能性を秘めています。私は、強き意志を持つ人間に力を分け与え、人を超えた力を授けました。それは、あなたの手によって女神様へと我々の想いを届けるため。人の持つ強き意志と、女神様の一部である私の力。それを併せ持つあなたなら……」
精霊はひと呼吸おくと、一層強い目でエステルを見据え、最後の言葉を告げた。
「――この世界を、救えるかもしれないのです」
「私が……」
エステルは呆然として、立ち尽くす。この世界、女神の樹の生い立ち。世界の荒廃の真相。自分が選ばれた理由。与えられた使命。ありとあらゆる情報を一度に与えられ、何を言っていいのか、分からなかった。
だが、その隣に……精霊の話を聞いて奥歯を強く噛み、怒りにわなわなと拳を震わせる者があった。ベンジャミンだ。彼にとって、世界の生い立ちだとか、女神の考えだとか、そんなものは、知ったことではなかった。ただ一つ、今の話を聞いて、どうしても許せないことが、あったのだ。
「……黙って聞いてりゃあ、好き放題言いやがって」
獣が唸るかのように低く、怒りと苛立ちの込められた声が、部屋の中に響く。強い怒りを露わにするベンジャミンの意図が読めず、エステルは戸惑った。精霊もベンジャミンに目を向けるが、その顔には何の表情も浮かんでいない。
「要するに、こういう事だろうが。女神ってのは勝手に世界に手ェ出して、勝手に失敗って決め付けて滅ぼそうとしてる。買ってもらったオモチャが気に入らねェからって、すぐ捨てちまうガキみたいによ。自分から手ェ出しといて、最後まで責任取ることもできねえのかよ。それで、テメェが今度は何だ?世界を救えだと?」
ベンジャミンは、エステルを一瞥する。それから、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握って、叫んだ。
「欲しくもねえ救世主の力なんか押し付けられたせいで、こいつが今までどんな目に遭ってきたか、分かってんのかよ!!」
エステルは両親を失い、帰る場所を失い、そして己の命すらも奪われようとしているのだ。精霊は世界を救うなどと大層な事を言っているが、言ってみれば全ての事件は女神の身勝手な行為によるもので、エステルはただ一人、その尻拭いを押し付けられただけではないか。
それを勝手に、人々の希望のように語り、彼女にさらなる使命感を植え付けようとするのか。エステルの境遇に誰より同情していたベンジャミンにとって、精霊の言葉は全て、自分勝手な押し付けにしか聞こえなかった。
激昂するベンジャミンの様子に焦り、エステルは止めようとする。だがベンジャミンは無視した。
「テメェに仕返しするためだけに、世界滅ぼしてやろうなんて気にはならねえよ。けどな……その澄ました面、一発くらいはぶん殴ってやらねえで、気が済むかよ!」
「やめて、おじさん!そんな事したって……」
ベンジャミンは拳を振り上げ、精霊へ向かって走る。エステルはその体を掴んで止めた。振り払おうと暴れるベンジャミンを、必死に押さえつける。
「――いいでしょう」
その時、精霊が落ち着き払ったまま、言った。相変わらずの無表情に近かったが、わずかに口元に、笑みを浮かべているようにも見える。挑発にも思える言動に、ベンジャミンは精霊を睨み付けた。
「殴る程度で済ませる必要もありません。お望みとあらば、あなたの背負った斧で私を叩っ斬って御覧なさい」
「……開き直ろうってか?いい根性してるじゃねーか」
「それは違います。あなた方の力を、今ここで示していただきたいのです」
突拍子もない精霊の発言に、ベンジャミンは一時、怒りすら忘れて戸惑う。エステルもその意図が分からず、二人は顔を見合せた。
「あなた方の力が不十分であれば、女神様を説得すること……いえ、女神様の元へと辿り着くことすら、到底叶わぬことでしょう。だとすれば私は、あなた方を女神様の元へと向かわせるわけにはいきません。さあ、その怒りを、あなた方の意志を込めて、私を打ち倒しなさい!」
いかにも戦いの前口上という風に精霊は語ると、その場で音もなくフワリと浮き上がる。ベンジャミンは身構えた。精霊の言葉が本気なのかも分からないし、本当に戦うのだとして、一体何をやって来るかも分からない。エステルは、いまだ困惑した様子で、剣も抜かずに精霊の様子を見ている。
刹那、精霊が動いた。残像が見えそうなほどの速度でエステルの横に回り込んで、その肩に手を伸ばす。エステルは反射的に躱そうとしたが、本気で臨戦態勢に入っていなかったためか、一瞬反応が遅れる。精霊が、トン、とエステルの肩を押した。まるで力を込めたようには見えなかったが、その瞬間、激しく殴られたかのようにエステルが吹き飛び、壁に叩きつけられた。
「戦いは既に、始まっていますよ」
ベンジャミンの方を振り向きながら、精霊は言った。少し上がった口角に込められた感情は、今度こそ紛れもない、『挑発』の意志だった。




