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やった。俺は勝ったんだ。エステルがいなくても、こんな魔獣くらい、一人で倒せるんだ。ここしばらく、縮こまったままだった万能感が、急速に回復してくるのを感じた。ベンジャミンは満足げな顔をすると、カバンとランタンを持って泉へと近付く。随分と無駄な時間を使わされてしまった。さっさと水を汲んで、戻らなければいけない。
「ブガァァアアアッッ!!」
洞窟の天井が崩れそうなほどに大きく、強い咆哮が、空気を激しく揺らした。驚き、振り返ると、狂乱した魔獣が叫びながら、手足を無茶苦茶に振り回していた。
ベンジャミンは歯噛みする。勝利の余韻を味わうことに夢中になって、トドメまで刺す必要もないかと軽く考えていた自分を恨んだ。おそらく今の魔獣は興奮で、痛みも疲れも、すべて忘れている事だろう。もはや手の付けようがない。だからと言って、戦わずに逃げることもできない。一体、どうすればいい?
必死に思考を巡らせるベンジャミンに、暴れる魔獣が迫る。ベンジャミンは咄嗟に、左手に握ったランタンに目が行った。これしかない。ベンジャミンは大きく振りかぶって、思いっきりランタンを魔獣に投げつけた。ランタンは回転しながら魔獣に向かって飛び、見事に顔面に命中した。ぱりんと音を立ててガラスが砕け、ガラス片と火のついたオイルが魔獣の全身に降りかかる。
魔獣は怒りの咆哮か、苦痛による悲鳴か分からない叫びをあげて悶え、それから泉に向かって突っ込んできた。火を消すつもりか。なんとかして止めたいが、火だるまと化した魔獣に不用意には近付けない。ベンジャミンは斧を振り上げると、わざと魔獣が泉へ向かうまでの道を空けた。ベンジャミンに目もくれず、魔獣は泉に全力で飛び込む。
今だ。ベンジャミンは手にした斧を、魔獣の頭めがけて投げつけた。びゅんと音を立て、風を切りながら、斧は回転して飛ぶ。そして正確に、魔獣の後頭部へ、その刃が叩きつけられた。ガツンと音がして、直撃を受けた魔獣はそのまま、泉の中に倒れ伏した。
決まった。今度こそ、確実に仕留めた。思わずベンジャミンは、ガッツポーズをした。一度くらい、斧を投げて敵を仕留めることを、やってみたかったのだ。暇なときに投げる練習はしていたが、実戦で斧を投げたのは、初めてだった。外せば終わりの、非常にリスキーな選択だったが、結果オーライと言ったところだろう。
しかし、ランタンを投げてしまったのは、手痛い消費だった。一応、荷物のライターで最低限の明かりは用意できるが、帰り道は面倒になるだろう。だが、こいつのせいで随分と無駄な時間を使わされたし、急いで帰らなくてはいけない。とにかく、まずは水を汲んで……いや、その前に斧の回収か。
その時。泉に立ち入ろうとしたベンジャミンは、血の気の失せた顔で、硬直した。それもそのはずだろう。確実に仕留めたはずの魔獣が、ヤケド一つない顔で、悠々と立ち上がったのだから。
「嘘だろ……」
有り得ない。あれだけのダメージを負って、立てるはずがない。それに、泉で火を消したとしても、顔は大ヤケドを負っているはずだ。何故だ。立ち尽くすベンジャミンの前で、魔獣は泉の水をぐびぐびと飲み、さらに手ですくって、頭から浴びた。
生命の水。相当な力があるとは思ったが、まさか致命傷すらも、たちどころに癒せるというのか。その効能に感心したいところだったが、状況はそれどころではなかった。
呆然とするベンジャミンの目の前で、魔獣は周囲を見渡し、泉の中に右手を突っ込んだ。水から引き上げたその手には、ベンジャミンの斧が握られていた。
絶望。それ以外の言葉が無かった。斧を手にした魔獣は、じりじりとベンジャミンに接近する。丸腰となったベンジャミンに、打つ手はない。もはやベンジャミンは勝ち筋を探す気力すら失い、残るは己の無力さに対する悔しさと、怒りだけだった。結局、俺一人ではこれが限界なのか。こんな豚一匹、あいつと一緒なら、敵でも何でもないはずなのに。俺はここで、終わりなのか。英雄とか何とか言いながら、ガキ一人救えずに洞窟の奥で死ぬのか。それは嫌だ。死ぬことが嫌なんじゃない。俺は、あいつの所に帰らなければいけないんだ。あいつの、エステルの……。
刹那、凄まじい突風が吹き、風の刃が魔獣の右腕を斬り飛ばした。握っていた斧が手から離れ、ちぎれた腕と別々に、ぼちゃん、ぼちゃんと落ちた。それから、体勢を崩した魔獣が、仰向けに倒れる。
一瞬のうちに、目の前で起きた出来事の凄まじさに、ベンジャミンの頭は真っ白になった。一体、何が起こったのか。いや、風が魔獣の腕を斬り飛ばしたことは分かる。何故、こんな事が起こった?自然に起こり得るはずがない。ならば、誰かの手によって?誰が……?
洞窟の部屋の入り口に、その当事者がいた。なぜ当事者だと分かったのか?当たり前だ。その人物なら、今の魔法のような出来事だって起こせるだろう。亜麻色の髪を、頭の後ろで一つに縛った少女。そこに居たのは紛れもなく、エステルだった。
ベンジャミンは我を忘れて、全力でエステルに駆け寄る。エステルは真っ青な顔をして、洞窟の壁に手を付き、肩で息をしていた。
「バカが、なんで来やがった!」
「長老に、聞いて……おじさんが、戻ってこない、から……」
「他人の失敗してる場合か!ひでえ顔色しやがって――」
「……斧、早く。まだ、終わってないから」
か細い声で、エステルが言う。振り向くと、モゾモゾと魔獣が動いて、起き上がろうとしていた。
そうだ、こいつに文句を言っている場合じゃない。ベンジャミンは再び必死に走り、斧の落ちた場所を探し出すと、沈んだ斧に手を伸ばす。魔獣が立ち上がり、身構えるのとほぼ同時に、ベンジャミンは斧を拾い上げる。その間に、よろよろとエステルが泉のふちに近付いていた。
魔獣の左腕の出血は、既に止まりかけている。これもまた、生命の水の力か。だが、片腕を失ったことで、戦況は大きく変化している。ただ気がかりなのは、エステルだ。今の彼女は、戦える状態なのだろうか。それとも、さっきの魔法で力を使い果たしているのだろうか。分からない。ならば今、できる選択は――。
「エステル!水だ、その水を飲め!」
そうベンジャミンが叫ぶが早いか、エステルは泉の水を手ですくい、口へと運んでいた。それを邪魔させぬようにと、ベンジャミンは魔獣に突っ込んでゆく。魔獣も応戦するが、片腕を奪われた今、その動きは鈍くなっていた。魔獣の振るった腕を難なく躱し、でっぷりと太った魔獣の腹に斧を叩き込む。大したダメージは無いだろうが、時間が稼げればよい。
体勢を整え、再び魔獣と睨み合う。ベンジャミンは斧を振るって、魔獣を牽制する。それを嫌がるように、魔獣が腕を振るう。互いに牽制が続く中、魔獣が一歩、足を踏み出した時、突如としてその足元の水が凍り付いた。氷に足を取られ、魔獣が前のめりに倒れる。必死に片腕で受け身を取ると、その腕をついた部分の水も、一瞬にして凍り付く。魔獣は倒れたまま、完全に手足を固定され、隙だらけの後頭部を晒していた。
水を凍らせたのはもちろん、エステルだ。全身から光を放つ彼女の姿は、洞窟の輝く木々や水の中に溶け込み、絵画のように映っていた。もっとも、その姿に見惚れている暇は無い。ベンジャミンは、両手で強く斧を握りしめた。
「終わりだ――ッ」
薪を割るときのように、まっすぐに斧を振り下ろす。刃は吸い込まれるように落ち、魔獣の頭を真っ二つに砕いた。
今度こそは本当に、完全に、即死だった。いかに生命の水があれど、もう復活はできないだろう。長い戦いの末、ようやくベンジャミンは、勝利を手にした。大きく息を吐いて集中を解き、額の汗を拭く。
「あ……」
そうして気を抜いた瞬間、急激な疲労感がベンジャミンを襲った。目の前の景色が暗く歪む。ぐらりと揺れ、倒れる体。そう言えば村に到着して、ようやく、ゆっくり休めるかと言う所でこの洞窟に来て、それから戦っていたのだった。とっくに疲労は限界を超えていたのかもしれない。だが、今ここには生命の水があるのだし、それを飲めば少しは疲労も消えるはずだ。まずは水を飲んで、いや、その前に受身を――。
腕を伸ばす間もなく、ベンジャミンは頭から、泉の中に倒れ伏す。そこで、ベンジャミンの意識は途切れた。




