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鬱蒼とした森の中。少しだけ湿り気のある地面を、木の葉の隙間から覗く月明かりだけが、おぼろに照らしている。周囲には川を流れる水の音と、獣が草の間を縫って動くガサガサという音がひっきりなしに響く。人跡稀な森の奥には道らしい道もなく、森を歩き慣れない者にとっては何かと気味の悪い場所だ。
「ったく、なんでこんな日に限って見つかんねえんだよ」
不機嫌そうに呟きながら、一人の男が足早に獣道を歩き回っている。乱暴な足取りながらも、でこぼことした地面を危なげなく進んでゆく。時折立ち止まっては、左手にぶら下げたランタンを振り回しながら、周囲を見回す。そんなことを、彼はもう随分と続けている。
男の名は、ベンジャミンといった。森の近くの、小さな村の木こりである。歳は三十一で、無精ひげが少しばかり年齢を感じさせているが、まだ艶のある黒髪と力強い目つきには、若者としての溌剌とした雰囲気を残している。彼には妻も子も、親もない。気ままに一人で暮らしながら、幼い頃よりの夢を追い続けていた。
英雄になる。それが彼の夢だった。抽象的で、どんな英雄になるのか、何を為して英雄となるのかも、まるで考えていなかったが、それでも確固とした夢だ。小さな村で、ただのんびりと暮らすことが、たまらなく嫌なわけではない。しかしそれは、どうにもつまらない人生に思えた。
商人、鍛冶屋、旅芸人など、あれこれと生業を思い浮かべてみても、どうにもしっくりと来ない。たとえ一国の王になれたとしても、それは同じだろう。そんな中、「英雄」という言葉だけが彼の心にピタリとはまり込むように、心を満たしているのである。
とは言っても、彼は所詮、小さな村の木こりに過ぎない。今までにやった事と言えば、畑の作物を荒らす獣を退治したとか、村の老人の家を修理したり家具を作ってやったとか、せいぜい便利屋と呼ぶ程度のことでしかなかった。村人に感謝され、頼りにされることは決して悪い気分ではない。それでも彼の心には言いようのない不満が消えず、気付けば「英雄」なんて夢を口にするには酷く不格好な年齢になるまで、ただ時だけが過ぎていた。
「チッ……こっちじゃねえ、か」
川に突き当たったベンジャミンは小さく舌打ちし、きびすを返した。勝手知ったる森のはずだが、こうも暗くては普段のようにはいかない。気付けば、森に踏み入った時には感じていた、むせ返るような土と草葉の匂いも、すっかり鼻が慣れてしまったのか、まるで感じなくなっていた。
ベンジャミンの心に、少しずつ焦りが生まれる。ただ風邪をひいた村の子供のために、薬草を探すだけだ。一刻を争うような事態ではない。そう自分に言い聞かせてみるが、やはり落ち着かない。英雄ならば、スムーズに事を済ませるべきだ。あまりに時間をかけては、格好が付かない。そうでなくとも、今は昔とは違うのだ。以前ならば、村の誰もが滅多に病気にかかることも無かったし、仮に風邪の一つや二つひいたところで、新鮮な果実でも口にすれば一晩で治っていた。それが今では、村の一人や二人は常に体の不調を訴えているし、病にかかった日には半月以上も寝込むことも珍しくない。こと子供や老人に関しては、以前ならば気に掛けることもなかった小さな病ですらも、命取りになりかねない。
焦りが募るごとに、もとより乱暴だった足取りが、さらに荒くなってゆく。どすどすと音を立て、大股で、足早に歩く。その足音に驚いて、近くの獣が逃げ出す音が聞こえると、ベンジャミンは少し冷静になった。別に、獣を脅かして優越感に浸ったわけではない。森の中、特に夜間に、必要以上に動物を刺激することは避けるべきだからだ。それは獣を憐れむ想いもあったが、何より自身の安全のためである。小型の獣ならともかく、魔獣と呼ばれる高位の獣の怒りを買えば、多少なりとも戦いの心得があるベンジャミンと言えども、ただでは済まない。こと女神の力が弱まって以来、獣たちも気が立っていることが多く、なおさら警戒は怠れないのである。
とは思えども、獣に道を譲るような歩き方をすることも、ベンジャミンの意志に反していた。こそこそと逃げ回るような行動は英雄のやる事ではないし、何より今まさに探している薬草が見つからない原因が、この森の獣たちのせいだからだ。ベンジャミンの探している薬草は、それほど希少なものではない。本来ならば夜間であろうとも、そう苦労せずに見つけられるものだ。それが見つからないのは、腹を空かせた森の獣たちが、あらかた食い尽くしてしまったからである。そもそものところ、ベンジャミンはこの薬草を、常にいくつかは自宅に保存していたのだが、今日は不運な事に、干している隙を突かれて全て持っていかれてしまった。こうもコケにされるような仕打ちを受けて、獣を全く恨まずにいられるほど、ベンジャミンは大らかではないのだ。できることなら何匹かは叩き切ってやりたいところだったが、やはりそれは危険を伴うし、何より無駄な喧嘩に使っていられるような暇がない。結局、煮え切らない想いを抱えたまま探索を続けるよりほかに、ベンジャミンにできることは無かった。
あちらこちらと歩き続けるうち、徐々にベンジャミンは空腹を覚え始めた。この程度の腹の減り方ならば、最後に食事を取ってから、おおよそ五時間と言ったところだろう。探索に出たのは食事を取った三時間ほど後だったはずだから、そこから考えれば探索を始めてからの経過時間は二時間ほどという事になる。探索中にはこの腹時計が、なかなか頼れるものだ。通り道に、何か食べられそうな木の実でも見つけたなら、ついでに採ってゆくのも良いだろう。なんなら、獣の肉でもいい。今まで以上にキョロキョロと周囲を眺めながら歩いてゆくと、ベンジャミンは不意に何かに足を引っかけた。
「げっ――」
すっかり足元への注意が薄れていたため、そのまま前方に思いっきり転んでしまう。左手のランタンを手放すわけにはいかないので、顔で受け身を取る羽目になった。ドサリと音を立てて倒れ込むと、麻痺していたはずの鼻に、土の臭いが充満する。
「ったく、今日はツイてねえな」
服の袖で顔の土を拭い、さらに全身の土をはたき落とす。何とかランタンの明かりは死守できたのが、不幸中の幸いだろうか。火が消えるだけならまだしも、うっかり落として割ってしまおうものなら、探索の続行はおろか帰り道すら分からなくなるところだった。忌々しげな眼で、自分の足を引っかけた物の辺りを睨む。ランタンの明かりで照らしてよく見ると、それは人の手のような幅広の葉をつけた、植物の蔓だった。それに気付いた瞬間、ベンジャミンの目から苛立ちの色が消える。軽く蔓を引っ張り、ちょうど自分の足元に繋がっていることを確認すると、ベンジャミンは腰に下げた斧を短く持ち、土を掘り返す。間違いない。これが探していた薬草だ。
「英雄様は転んでもタダじゃ起きねえ、ってな」
ベンジャミンは、満足げに呟いた。




