18
「私が旅に出る、少し前。お父さんもお母さんも、死んじゃったんだ」
何の感情も込めていない声で、エステルは話した。何も思っていないのではなく、感情を込めて語れば耐えられなくなってしまうと、感情を押し殺しているような語り口だ。
ベンジャミンは何となく、察していた。二階建ての大きな家なのに、彼女が一人で暮らしているというのは、明らかに不自然だった。娘一人をほったらかして親が遊び歩いているとも思えないし、だとすれば、既に他界していると考えた方が自然だろう。
だが、そう考えると一つ、納得できない点がある。彼女がいれば、食糧難や病で命を落とすということは、まず無いはずだ。ならば、他に考えられる原因は……。
「戦争か……それとも魔獣か?」
「ううん、違うの。そんなのじゃ、ないよ」
思いついた答えを、エステルが否定する。彼女の顔には、どこか自嘲的な笑みが浮かんでいた。そのまま、エステルが言葉を続ける。
「私が救世主って呼ばれるようになってから、たくさんの人が来たんだ。自分を助けてほしいって、昼も夜もなく、次々に。お父さんもお母さんも、寝る暇もなくなるし、畑は踏み荒らされちゃうし……中には、わざと家を壊したり、ものを盗んでいく人もいた。そんな日が、ずっと続いて……気がついたら二人とも、書き置きだけ残して、死んじゃってた。村にも、居づらくなっちゃったし……だから、もう本当に、世界を救うしかないのかな、ってね」
ベンジャミンは絶句する。同時に、この家を見たときの違和感の正体にも気付いた。
この家の壁の傷は、生活の中で自然に付くようなものとは違っていたのだ。畑の荒れ方も、殺風景な家の中の様子も、誰かの手によって意図的に荒らされたものと考えれば、説明がつく。
あの時の、村の女の態度も、つまりはそういう事なのだろう。エステルを求めて押しかけた人々により、この村の住人たちは、まともに生活するどころではなくなっていたのだ。彼女が村を出たことで平穏を取り戻していたのに、彼女が戻ればまた村が荒れかねない。だからあの女は、あんな反応をしたのだろう。
「……悪かった」
「え?」
「勝手に思ってたんだよ。お前は生まれつき恵まれたやつで、何も苦労なんかしてねえんだろうってよ。だから、そんな奴に負けるのが、我慢ならなかった。嫉妬してたんだよ、俺は。けど、全然違った。何も知らずに、勝手に嫉妬して、突っかかって……本当に悪かった」
ベンジャミンは俯いて、思っていたことを正直に話す。それが、自身の辛い過去をさらけ出したエステルに対する、礼儀のようなものだと感じていた。
「あははは、そんなの、おじさんが悪いんじゃないよ。気にしないで」
エステルは笑顔で答える。こいつの作り笑顔は何度も見ていたが、今は特に、痛々しく見えた。
「ごめんね、暗い話しちゃって。もう夕方だし、今日は休もうよ」
重い空気を断ち切るように話を切り上げると、エステルは立ち上がり、二階へ続く階段へ向かおうとする。だがその時、不意に彼女はふらつき、どさりと音を立てて、床へ倒れ伏した。
ベンジャミンは驚き、彼女に駆け寄る。あまりに突然のことで、一体何が起こったのか分からなかった。手を貸して起こすべきか迷う彼の前で、エステルはゆっくりと立ち上がった。ちらりとしか見えなかったが、その顔色は、かなり悪そうに見えた。
「あははは……ちょっと、疲れちゃってたみたい」
エステルはそれだけ言って、一人で二階へ上っていった。不自然な様子だと、ベンジャミンは訝しむ。ただ単に、気分が落ち込んでいるだけの様子ではない。旅の中で疲労が溜まっていてもおかしくはなかったが、彼女に限っては、そんな事は無いはずだ。しかし、彼女が病気にかかるとも思えないし、かかったとしても、魔法で治してしまえるはずだ。
本当に大丈夫なのか、と問い詰めたかったが、そうすることもできなかった。もしも本当に疲れているのだとすれば、彼女を余計に疲れさせるだけだと思ったし、何か病のようなものの存在を隠しているのだとしても、俺に心配をかけまいとして、それを白状しないだろうと確信していたのだ。
ベンジャミンは少し悩んで、家の外に出た。しばらく彼女を一人で休ませておきたかったこともあるし、考えたいこともあった。家の外では、少し冷えた夕方の風が、砂を舞わせながら吹いていた。
家の壁にもたれかかり、ベンジャミンは一人、物思いにふける。彼は、なぜエステルが自分を旅に連れ出そうとしたのか、なんとなく分かったような気がした。
あいつは、拠り所が欲しかったのだ。両親を失い、村人にも疎まれ、何も知らない奴からは救世主だと無責任に讃えられる。あいつにとっては、この世の全てが、敵だったのだ。まだ成人もしていない娘がそんな状況に置かれ、どれだけの苦痛を味わっていたのか、俺には想像も付かない。
そんな中、万に一つでも自分の味方になり、「世界を救いに行く」なんて旅に付き合ってくれそうな人間は、三十を過ぎても英雄だの何だのとバカげた夢を追い続けている、俺くらいしか存在しなかったのだろう。キレて自分を殺そうとした事があろうと、明らかに旅の足手まといだろうと、彼女にとってはただ一人の、世界を救う旅の仲間だったのだ。
ベンジャミンは、強く拳を握る。彼女を守らなければいけない。そう思った。人を超えた力があろうとも、彼女自身は、ただの少女なのだ。そして、それを支えられえるのは、俺しかいない。心の中で長らく、彼女を疎ましく思っていた気持ちは、すっかり消えていた。
しかし、ならば一体、自分は何をすればいいのか。それがベンジャミンには分からなかった。彼女を傷付けるものと戦い、直接打ち倒すような力は、俺には無い。
このまま東の王都へと向かい、もしもエステルが戦争へと駆り出されたら?俺は彼女と一緒になって東軍として戦えばいいのか?それは違うはずだ。そもそも彼女は戦争を望んでいない。
ただ可能な限り、彼女のそばに立ち、話を聞いてやるくらいでも、彼女の心の拠り所くらいには、なれるかもしれない。しかし、自分の村をほったらかして、彼女に付きっきりになることが、正しい事なのだろうか。それで彼女の心を多少慰められたとしても、そんなことでは事態は何も、前に進まないというのに。
考えれば考えるほどに、自分ごときの力では何もできないという思いばかりが大きくなってゆく。ベンジャミンは初めて、己の無力さを心から憎んだ。地位や名誉のためではない。自分が救いたいと思う相手を、救うだけの力がない。それが、口惜しくて仕方が無かった。
ベンジャミンは目頭を押さえ、息を吐いた。結局、今ここで悩んでいても、どうしようもない。さっさと休んで、明日に備えよう。家の中へと戻ろうとした時、近くに人の気配を感じた。
「一人か」
声をかけたのは、先ほどの浮浪者……長老だった。いきなり声をかけられたことに、ベンジャミンは少し驚く。
「何だよ、爺さん。エステルならもう休んでるぜ」
「フム……そうじゃろう、そうじゃろう」
老人は、一人で何かを納得したように何度も頷き、ひと呼吸おいてから、また話す。
「わしに光は見えぬ。しかし、それもまた女神様のご意向。この目に光が失せようとも知恵は衰えず、目に見えぬ者の声を……」
「ジジイ、めんどくせえ話はいいからよ。要点を言え、要点を」
ベンジャミンは、勿体つけるような老人の話し方に苛立っていた。こちらは今、それどころではないのだ。わざと棘のある言い方で、老人を追い返そうとするが、老人は気に留めた様子もなく、口を開いた。
「あの子は、もう長くない。長くて一年……力の使いようによっては、残り数か月も持たぬやもしれん」
「は……」
老人の言葉に、ベンジャミンは凍り付いた。




