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野営を挟みながら、山道を歩き続ける。二人が村を出てから、そろそろ三日だ。その間ベンジャミンは、エステルの身体能力に驚かされてばかりいた。食料を探す際に彼女は、五、六メートルはあろう崖を平気で飛び降りてしまうし、その崖を登って帰ってくるのも、あっという間だった。そして、あちこちを探索して帰ってきたはずなのに、ほとんど息を乱すこともない。いい加減、彼女の異常さにも慣れたと思っていたのだが、自分が見てきた力など、まだまだ氷山の一角なのかもしれない。
初めのうちは早足だったベンジャミンも、長く歩き続けるうち、少しずつペースが落ちてくる。気付けば、自分の後ろをついて歩いていたはずのエステルが先行して歩くようになっていた。彼女は時折立ち止まっては、ベンジャミンの体調を気遣ったり、励ましの言葉をかけたりしたが、それがベンジャミンにとっては苦痛だった。どう考えたって、俺が足を引っ張っている。おそらく彼女だけであれば、この山も一日足らずで越えてしまえるだろう。わざわざ余計な世話を焼いて同行してきたというのに、それで彼女の負担を増やしているのが、耐えがたいのだ。
ベンジャミンは、周囲を見渡す。以前に、自分が山を通った時とは山の風景が変わりすぎており、今どのあたりを歩いているのか、把握できない。ただ、下り坂が増えてきたところを見ると、山の半分は過ぎただろうか。募り続ける苛立ちと、少しの希望を足に込めて、ベンジャミンは歩調を早める。少し歩いて、先行していたエステルに追い付いた。このまま一気に山を下りてしまおう、と思ったところで、不意にエステルが立ち止まった。また自分の体調を気遣ったのかと思ったが、どうにも違う様子だ。左手側の山肌の、その上の方を見つめて、何かを探すようにしている。
「何か、見えるのか?」
「ん……」
声をかけてみると、エステルは曖昧な返事だけを返した。一体、何がそんなに気になっているのか、分からない。仕方がないので、ベンジャミンもエステルの視線の先を注意深く観察してみる。まばらに木が生えた山肌が広がるばかりで、特に変わったものは見当たらない……そう思っていた矢先、突如ベンジャミンたちの真上の山肌が崩れ、大きな岩がゴロゴロと転がり落ちてきた。
「危ないっ!」
エステルに手を引かれ、ベンジャミンは間一髪で落石を躱した。一瞬前まで自分の立っていた場所に、直径一メートル近い大岩がドスリと落ちる。衝撃で道が崩れ、さらに落石は下へと転げ落ちて行った。間一髪の状況に、ベンジャミンの鼓動が急激に早まる。偶然?いや、違う。明らかに今のは、誰かの手によって起こされた落石だ。だが、そんな事を、一体誰が……?
全身を強張らせて身構えるベンジャミンの耳に、ドカドカという激しい音が響いた。落石と似たような音だが、少し違う。再び、先程の場所に目をやると、人間よりも一回り以上大きな何かが、凄まじい勢いで山肌を駆け下りて来ていた。その姿を、よく見る。全体のシルエットは人間に近いが、体長は二メートルをゆうに超えていそうだ。非常に筋肉質な体をしているため、なおさら大きく見える。そして何より、二本の角を生やしたその顔は、明らかに『牛』のものである。
――『牛頭』だ。ベンジャミンは、即座に理解した。彼も直接遭遇するのは初めての事であったが、疑いの余地はない。牛頭と言えば、魔獣の図鑑では真っ先に解説される存在だ。数ある魔獣の中でも、知性・腕力共に頂点に位置し、最も危険な魔獣として、警告されている。腕力の強さは、その体躯を見れば明らかなことだが、それ以上に知能の高さが恐ろしい。状況から考えて、先程の落石を起こしたのは、こいつだ。ということは、人間を待ち伏せした上で、道具を使って仕留めようと考えるだけの知能があるという事になる。人狼もそれなりに高等な知能を持った魔獣だが、こんな作戦を考えるような行動は取らない。
山肌を駆け下りてきた魔獣は、ベンジャミンたちと五メートルほどの距離まで来たところで、強く山肌を蹴って跳んだ。そして、空中でクルリと一回転しながら、ベンジャミンたちの前に、見事に着地をする。舞い上がった土埃を、魔獣は右手に握った斧で軽く払った。
そう、斧だ。魔獣の手には、確かに斧が握られていた。まさか魔獣が自分で武器を作るとは思えないため、旅人か行商人から奪い取った戦利品だろう。しかし、人の作った武器の使い方を理解しているとは、やはり知能の高さが窺える。
「……気を付けて、おじさん。こいつ、かなり強いよ」
「ハッ、俺を誰だと思ってやがる。牛なんざ切り分けてステーキにしてやるぜ」
ベンジャミンは虚勢を張った。正直なところ、牛頭ほどの魔獣が相手となると、エステルと二人ですら、勝てるかどうか分からない。だが、そんな時だからこそ、萎縮するわけにはいかないのだ。それに、同じ斧の使い手として負けられないという、闘争心もあった。
魔獣の目に怒りの意志は無く、どこか楽しそうに、臨戦態勢を取っている。狩りを楽しむような感覚か、もしくは自分の力を誇示することが好きなのだろう。自分から姿を現しておきながら攻撃する様子を見せず、それどころか「かかって来い」と言わんばかりに、手にした斧をクイクイと振ってみせた。
「……ナメてんじゃねえっ!」
安い挑発だったが、それでもベンジャミンには有効だった。魔獣の巨体に向かって、まっすぐに突っ込んでゆく。もっとも彼も、本当にただ無策に挑発に乗ったわけではない。盾を持った自分が敵の注意を引きつけておけば、エステルが攻撃に回る隙ができるはずだと、囮を買って出たのだ。
斧を振りかぶりながら、魔獣に向けて走る。近付くほどに相手の体は大きく見え、山そのものと戦っているかのように錯覚しそうになる。頭に斧は届かないし、胴体に打ちこもうにも、リーチは相手の方がはるかに長い。まともに戦えば、こちらに勝ち目はないだろう。
ベンジャミンが相手の射程に入ると、魔獣は軽く斧を振って牽制した。軽くと言っても、丸太のような腕の魔獣が振るう攻撃だ。直撃を受ければ、致命傷となり得るほどの威力がある。ベンジャミンが身を引いて躱し、再び接近しようとすると、また牽制。数度繰り返した後、ベンジャミンは相手の攻撃を、左手の盾で受け止めた。ガツンと硬い音がして、腕に衝撃が走る。そのまま体勢を崩されそうになるのを、何とか堪えた。予想はしていたことだが、やはり非常に重い。本気で踏み込んだ一撃を受ければ、たとえ防いだとしても盾ごと腕をへし折られるか、そのまま叩き伏せられてしまうだろう。
二人が交戦する間に、エステルは魔獣の背後へと回り込む。魔法での攻撃も不可能ではないが、これほど大型の敵に有効打となるような魔法は、精神力の消耗が激しい。仕留め損なえば、こちらが致命的な隙を晒すことになる。それに今は、下手に撃てばベンジャミンを巻き込む危険性があるため、使えそうになかった。剣を握り、魔獣の背を狙って駆ける。剣が届きそうな距離まで近付いたとき、魔獣は左腕を振るって背後のエステルを打ち払おうとした。このまま攻撃できるか?無理だ。エステルは後方に素早く跳んで、魔獣の腕を躱す。魔獣は腕を振った勢いで大きく回転し、そのままエステルの方に向き直った。
「もらった――ッ!」
自分に背を向けた魔獣めがけ、ベンジャミンが斧を大きく振るう。魔獣が躱す暇はなく、その右脇腹に斧が叩き込まれた。大木を打ったような、固く弾力のある衝撃が、ベンジャミンの腕へ伝わる。全体重を乗せた完璧な一撃だったが、分厚い皮と肉に阻まれ、魔獣にはほとんどダメージが無い。
動揺するベンジャミンに、魔獣は後ろ蹴りを繰り出した。ベンジャミンは防ぐ間もなく胸に蹴りを食らい、そのまま後ろに倒れ込んで咳込む。瞬間、ベンジャミンは死を覚悟したが、魔獣が追撃に来ることはなかった。倒れたベンジャミンを仕留めることより、エステルと戦うことを優先したらしい。屈辱的な命拾いだった。
エステルは魔獣の牽制を躱しながら、攻撃の機会を窺う。ただ攻撃を当てるだけならば簡単だが、軽く斬りつけた程度では大したダメージにならない。そして、急所を狙った一撃を簡単に食らってくれるほど、相手は愚鈍ではない。何とかして、隙を作らなければいけない。
攻めあぐねるエステルの様子に、ベンジャミンは焦りを感じていた。この状況で、相手に隙を作れるのは、俺しかいない。俺が必要な状況なのだ。だが、むやみに飛び出しても、無駄死にするだけだ。一体、どうすればいい?何か使えるものはないかと周囲を見渡しても、見えるものは砂ばかりだ。それ以外と言えば、地面から少しだけ突き出した岩……。
「わっ……!」
ベンジャミンが目を離した間に、戦況はさらに悪化していた。無理に攻め込もうとしたエステルの剣を魔獣が掴んで止め、そのまま奪い取ったのだ。魔獣は剣を左手に持つと、両腕を上げてポーズを作る。勝ちを確信して余裕を見せつけるような魔獣を、丸腰になったエステルが睨む。
もはや悩んでいる暇はない。ベンジャミンは走り、近くの地面から突き出した『岩』を掴んだ。そして、いまだポーズを決めている魔獣の体めがけて、思いっきり投げつけた。『岩』はまっすぐに魔獣へと飛ぶと、その首元に当たり、その足で魔獣にしがみ付く。
もちろん、ただの岩であれば、足で魔獣にしがみつくはずもない。ベンジャミンが投げたのは、岩のようなごつごつとした体に、大振りな一対のハサミと、長く伸びた尾を持つ生物……つまり、サソリだ。
予想だにしなかった事態に、余裕をかましていた魔獣も明確な動揺を見せる。体を揺すってサソリを振り落とそうとする魔獣に対し、サソリも必死にしがみ付く。突然地面から掘り起こされ、そのうえ投げられたサソリは怒り心頭である。その怒りをぶつける相手は、今まさにしがみ付いている相手しかいなかった。サソリは魔獣の体にしがみ付いたまま、尻尾の針で魔獣の首を思いっきり突き刺した。魔獣はビクリとして、目を見開く。慌ててサソリを引きはがそうと、エステルから奪った剣を手放してサソリを掴む。だが、深々と針が刺さっているうえに、サソリはハサミまで使って全力で抵抗する。魔獣の怪力をもってしてすら、すぐには引きはがせない。
これほど隙だらけの状態を、エステルも黙って見ているはずはなかった。魔獣が必死にサソリと格闘する間に剣を拾い、魔獣の背後へと回り込む。魔獣も気付き、応戦しようとしたが、遅すぎた。魔獣が斧を握りしめて振り向こうとしたときには、既にエステルの剣が魔獣の左胸を刺し貫いていた。魔獣は、かっと目を見開いて、ビクビクと体を痙攣させたのち、動かなくなった。
魔獣が倒れたことを察してか、サソリは針を抜いて魔獣から離れた。そのまま、目の前のエステルに威嚇の姿勢を取るが、素早くベンジャミンが駆け寄り、斧で崖下に弾き飛ばした。二度目ともなれば、慣れたものだ。そうして、ようやく戦いが終わった。




