プロローグ
じりじりと照り付ける太陽が、乾いた大地にまだ少し残った水分を、容赦なく奪ってゆく。干上がりかけた川では、魚は本流を求めてさまよい、岩場の蛙は祈るように喉を鳴らしている。荒廃した地に、やせ細った枝から懸命に葉を茂らせる木々と、その木陰で眠りにつく獣が、かつての豊饒な大地の名残を示していた。
ざわざわと音がして、木の葉が揺れる。その中から、一羽の鳥が飛び立った。残された力を振り絞り、懸命に羽ばたきながら、まっすぐに飛んでゆく。目指す場所は、世界の中心。万物に恵みを与える、女神の樹である。
生きとし生けるもの、誰もが明日への希望を求め、生きる道を探していた。むろん、それは人間にとっても同じ事だ。わずかにも残された恵みを求め旅立つ者。女神の力が失われた原因を究明せんとする者。いずれ事態が解決すると信じ、ただ待つ者。それぞれの思いを胸に、人々は営みを続けていた。
女神の樹より東の、小さな村。ある民家の前に押し寄せた人々は、熱狂に包まれていた。腕を振ったり、飛び跳ねたりしながら、あるものは媚びるように、あるものは怒号交じりに、口々に救いを求める言葉を発する。誰もが他人のことなど考えもせずに叫ぶので、もはや誰が何を言っているのか、まるで聞き取ることができない。そんな中で、せめて自分の声だけでも届けようと、人々はより一層大きな声を張り上げるのだから、まるで収拾がつかない。ただでさえ高い気温は群衆の熱でさらに高まり、周辺は景色が歪んで見えるほどの熱気が覆っている。それでも人々は、そんな事を気にしている場合ではないと言わんばかりに、飛び散る玉の汗や、誰かの飛んだ唾を拭こうともせず、ただ己の存在を主張し続ける。
「救世主様、どうかお救いを!」
人々の見据える先、救世主と呼ばれた少女は、そんな人々とは対照的に、おろおろとした様子で目を泳がせている。狼狽える少女の姿には目もくれず、群衆は叫ぶ。我先にと誰かが人込みをかき分けて前に出れば、誰かがそれを引き戻したり、別の誰かが前に出たりする。もみ合う人々によって土埃が舞い、誰かが咳込もうとも、気に留める者はいない。
「俺の婆ちゃんが死にそうなんだ!早く何とかしてくれ!」
血の気の多い青年が、目の前の婦人を突き飛ばして前に出た。そのまま救世主の手を取ろうと腕を伸ばすが、誰かがその手を跳ね除ける。それでも強硬に救世主を連れ出そうとする青年を遮るように、先程突き飛ばされた婦人が躍り出る。
「そんなことより、うちの子を助けてください!もう何日も熱が下がっていないんです」
「何がそんなことだババア!こっちは急用なんだよ!」
激昂した青年が、婦人に食ってかかる。婦人もまた、その怒気に一歩としてひるむことなく、男に詰め寄る。
「このどてかぼちゃ!うちの子はね、あんたの所の死にかけの年寄りと違って未来があんのよ!」
「なんだと、この……てめえの頭の悪いガキなんか知ったことか!」
青年はひときわ大きな声で叫び、ためらいなく婦人の顔を殴りつけた。ばつん、と肉を叩く大きな音が響く。幾許の加減もない力に、婦人の頬が裂け、鮮血が飛び、乾いた地面に落ちる。拳に弾かれた婦人は受け身を取る暇すらもなく、勢いよく地に叩きつけられた。そんな光景を前にしても、群衆は誰一人として心配の声を上げようとしない。無関係な人間のことなど、そもそも目に入ってすらいないのだ。群衆はただ、大声を張り上げ、他人の足を踏みながら、一人の少女に向かって救いを求め続ける。
変わらぬ光景の中でただ一人、救世主と呼ばれた少女が悲痛な顔を浮かべ、倒れた婦人に駆け寄った。婦人の意識は朦朧としており、頬からはどくどくと血が流れている。開いた口からは言葉にならない小さなうめき声と唾液が垂れ流され、地に染みる血と混ざってゆく。顎が砕けているのかもしれない。
少女は決意をした顔で婦人の頬に手を添えると、目を閉じ、意識を集中した。鼓膜を揺らす群衆たちの声が、徐々に遠くなってゆくような感覚。淡い光が少女の身体を包むと、その光が少女の手へ、そして婦人の頬へと流れてゆく。その神秘的な光景に、群衆たちの声も、少しだけ静まる。わずかな時が過ぎ、柔らかな光が消えた頃には、婦人の頬の傷は跡形もなく癒えていた。婦人は立ち上がり、自分の身に起こった出来事に目をぱちくりさせる。その様子を見て、少女は微笑んだ。
「オオーーーッ!」
群衆たちが、大きな歓声を上げた。これが救世主の力だと、誇るように声を上げる。詰め寄せたときには半信半疑であった者も、もはや誰一人として疑いの目を向けない。まだ面食らったまま、自分の頬を撫でている婦人を尻目に、群衆たちは更なる勢いで騒ぎ始めた。手の付けようのない状況に、少女は再び、沈んだ顔つきになる。こうして人々の前で、目に見える形で力を使えば、騒ぎを助長することは目に見えていた。それでも、目の前で倒れた人間を、見過ごすことはできなかったのだ。人々は、誰もが「次は自分だ」と言うように、再び少女へと言葉を投げかける。過熱する騒ぎの中、少女はただ顔を伏せ、自分の運命を呪っていた。
どうして、こんな騒ぎが起こってしまったのか。どうして、女神の樹の力が失われたのか。どうして、自分が「救世主」なのか。そんな事を考えたところで、群衆が静まるわけでも、女神の力が戻るわけでもない。それでも少女は、考えずにいられなかった。
少女はただ、平穏な生活を求めていた。




