第1章『それぞれの朝』
――遠い、遠い過去を、彼が旅に出る前の、懐かしき日々を思い出していた。
「あ、見て! こんな所に『ゼラニウム』が咲いてる!」
懐かしい、もう何もかもが懐かしい、この時、この瞬間こそが、彼の人生の中でも一番幸せであったことであろう。
「いい香りねー……て、こーら、そんなところに突っ立ってないで、こっちに来てよー」
「あぁ、ごめん。今いくよ」
声だけは覚えてる。彼女の仕草も覚えてる。なのに、顔も、名前も、何もかもが思い出せない。
この三年間で彼は多くの悲劇を見てきた。多くの死を見てきた。
彼の幸せな記憶を蝕む程の『この世の悪』に晒された結果。彼のこの時の記憶は、殆どが断片的で、壊れたガラス細工のよう細かく砕け、彼の頭の中の底に散らばってしまったのだ。
この記憶も、いつ消えてもおかしくない、そんな断片的なガラスの破片だ。
「ねぇ知ってる? ゼラニウムの花言葉」
「もちろん知ってるよ」
「えー? 本当にー? じゃあ当ててみて」
「あぁ、この花に込められた言葉は――」
「『君の……為に』……あ」
夢、懐かしい夢、もうあの頃には戻れないから、あの時の記憶も、全てが今となっては幻想の一部に過ぎないのか……。
「すー、すー、むにゃむにゃ」
「……」
取り合えず、彼の目に飛び込んだのは、小麦色をした綺麗な褐色の柔肌。
「……ユダ?」
「んにゃ~、主よ~、変な所を触るな~、むにゃむにゃ」
Oh……。一昨日から行動を共にしている褐色肌の少女『イスカリオテのユダ』が、まさかのZENRAで彼の隣で寝ている。
眼前には、だらしない格好で熟睡しているユダが……。
「……はぁ、大方、俺が目覚めたら裸の君が目に飛び込んで、それで俺の慌てふためく様を見たかったんだろうな。この王様は」
なんとなーく。ユダの性格からすると有り得るかも。平気で彼のあそこを確認するぐらいだし。
彼と違って、裸に対する羞恥心も無いんだろうなぁ……。
それに、裸の彼女を改めて見て一番彼が気になったのは彼女の左肩だ。
昨日の『マトフェイのマタイ』に負わされた左肩の傷が、何故か綺麗さっぱりなくなっている。
これはどういうことだ?
「……ハッ!? ジロジロ見てる方が変態じゃないか……」
顔を赤くしながらも、彼はベッドから降りて、朝食の準備をするのであった。
「クリフ。清々しい朝ですよ、起きてください」
「……勘弁してくれ。昨日遅くまで二人の参加者を追い掛け回したばかりだってのに……」
現地時間午前7時。
マンハッタンから約5km離れたイースト川に浮かぶ無人島『ノース・ブラザー・アイランド』。
ブロンクスとクイーンズの間に位置する400m×250mほどの小さな島で、以前は病院施設として使用されていたらしいが、現在は何もない廃墟島となっている。
1885年、当時無人島だったノース・ブラザー・アイランドに、天然痘や腸チフスの感染者を隔離・治療するための病院が建設された。1900年代初頭にニューヨークで流行った腸チフスの原因であるメアリー・マローンが隔離収容されていた場所として有名だ。
病院はメアリーが死去した1938年に1度閉鎖となるが、1950年代に薬物中毒者のリハビリ施設として再開。しかし、それも長くは続かず、1963年を持って島は完全に見捨てられることとなる。
今もなお、当時のリハビリ施設は残っているが、最早今となっては自然と同化してしまい。現在は立ち入り禁止となっている。
そのリハビリ施設を魔術師『クリフ・デズモンド』と『ディディモのトマス』こと正義王『ユディシュティラ』が拠点として使用していた。
※ニューヨークから出てる? いやいや、ちゃんとファール神父の許可を貰いましたよ?
「ふぅ、トマス。お前の『千里眼』がある限り、島への侵入者にはオレよりも早く気付けるよな?」
「えぇ、そうですが何か?」
「だったら侵入者が来たら起こしてくれ、オレは眠い」
「ダメですクリフ。そのような生活では体内の時が狂ってしまいます。正しい生活、正しい規則、正しい時間こそ、生きる上でも大切な『法』に他なりません」
「うるさい黙れ。こんな時にまで正法を持ち込むな」
「えぇ、私『正法の体現者』ですから、決まり事には人一倍うるさいですよ?」
正法、ぶっちゃけて言うと正しい教え。
ユディシュティラは神々が定めし正法そのものを生前に体現し、
それを上手く政治に運用し『正しき王国』を作り上げたのが正義王ユディシュティラ。
なので別名『正務王』とも言われてる。
取り合えず決まり事にはうるさい王様だ。
普段から不規則な生活をしているクリフにとっては、ある意味天敵のような相棒である。
「……ふぅ、お前の生前の臣下達は苦労しただろうな」
文句を垂れながらも、クリフは患者がかつて使っていた診察台から体を起こして、寝不足のクリフにとっては忌々しい朝日の光に目が眩みながらも、診察台から降りて、その場で軽い朝の体操を始めた。
「おや? なんですか、その動きは?」
「あぁ? 朝の体操だ。お前の事だからこう言う所にもうるさいと思ったから自主的にやってんだ。悪いか?」
「いえいえ……ふむ、これが異国の体操ですか。……良ければインド式の体操『マラカンブ』はいかがです?」
「マラ……? なんだそれ? ヨガじゃないのか?」
「えぇ、ヨガとは別です。折角ですし、外にあるあの柱を使いましょう」
「むむむむむむむ」
ユダがむくれながら朝食を食べてる。あ、ちなみにちゃんと普通の服を着させました。
「何故、吾より早く起きているのだ。不敬ではないか!」
どこが不敬なの?
「おのれぇ、吾も昨日テレビで見た『寝起きドッキリ』をやりたかったのに……で? 感想は?」
「なんの?」
「吾の裸体を見たのであろう! 吾のような麗しき乙女の裸体を見たのだ! 男子たるもの、思うところがあるであろう!!」
こら、机を叩かない。
「まぁ……綺麗な肌……でした……」
本当におかしなくらい綺麗だ。なんで一晩で傷が無くなってんだ?
「……………………………ほ、ほほう、それでそれで?」
とても悪そうな顔でユダが顔を近付けてきた。
なんでいつも顔を近付けるんだ? かなり恥ずかしい。
「~~っ、も、もう良いじゃないか。そろそろ今後の事を話し合おうよ」
「んなぁにぃぃぃ!? もっとこの話で盛り上がろうではないか! いい加減にしないとまた脱ぐぞ!」
「やめなさい! はしたない!」
「……! では、罰として昨日あの男から貰ったこの気持ち悪い液体を飲むがいい!!」
「やーーーーめーーーーーろーーーーー!!」
「ぐぁああああああああああああああああああ!?」
「いけまけんね。クリフ、このままだと貴方は顔面から落ちて地面の餌食となり、(顔が)消滅してしまいます」
「なんでお前は平気な顔で出来るんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
マラカンブ、インドの伝統武術「クシュティ」の基礎トレーニングから発達したもので、
マラカンブは、本来戦士の身体作りのエクササイズとして発展した。
マラカンブの名前の意味は訳すと【戦士の柱】である。
その名が示す通り、体全体だったり、手だけだったり、足だけで地中から伸びるポールにしがみついて、そこから独特の動きを駆使して体を鍛える鍛錬法だ。
現在はインドのヨガ的競技のこととなっており、ほかにもロープや、空中鉄棒などを使った種類があるもよう。
「もっと気を集中してください。筋力を使うと余計疲れます」
ユディシュティラは涼しい顔で手を使わずに、足だけで3mのポールにしがみつき、螺旋状に回転しながら地中から伸びるポールを上下しながら往復している。
なんだか、重力を無視した動きだ。
「お、お前、絶対に半神の力でズルしてるだろッ!!」
「ははははは、何を仰るのです。こんなことでイチイチ神の力なんか使うわけないでしょ。それこそ疲れるだけです」
スムーズに動くユディシュティラに対し、クリフは足でポールの3mの位置にしがみついたまま動けなくなってしまっていた。
「て、手を使わせてくれぇぇぇ!! 足がぁぁぁぁぁぁ!!」
「うん、これで邪魔な眠気は吹き飛びましたね。良いことです」
「お目覚めですか。我が主よ」
「……シモン」
現地時間午前8時。
ニューヨーク・ミッドタウンに位置する超高層アパートメント『ペントハウス』の最上階に位置する一室。
そこに円卓の騎士『バルヨナのシモン』とその主である『車椅子の少女』が自分達の拠点として使用していた。
「……」
目覚めるやいなや、少女は、高級そうなベッドから身を起こすことはなく、とても暗い表情を浮かべていた。
その表情が、寝起きのそれではないことを察したシモンは、それが自分の不始末だと思ってしまった。
「……主よ。昨晩の初戦で、あのような失態を犯してしまい、誠に申し訳――」
「いいえ、謝るのは私です。もっと注意深く行動しておくべきでした。私の采配ミスです」
「……いえ、ワタシが己の力を過信したばかりに、敵の実力を見誤ったのがそもそもの原因です」
「……ふ、ふふふ」
「主?」
暗かった主の表情が、急に明るく微笑んだことに、シモンは少し戸惑ってしまう。
「ふふ、ごめんなさい、お互いがお互いの非を責めるのなんて、なんだか可笑しくなって、ふふ」
とても眩い笑顔だ。窓から射し込む朝日の輝きのような笑顔。
……だから、シモンは思ってしまうのだ。
「主よ。差し出がましいようですが……やはり貴女は戦場に立つべき御方ではありません」
「あら? どうして?」
「……貴女は、その足をマトモに動かせない。いや、それ以前に、貴女には約束された未来があった筈……莫大な財があった筈……それらを全て投げ捨ててまで、何故このような戦いに参加したのです?」
シモンの疑問に、少女は体を起こし、動かない足をベッドから投げ出してから、朝日を背にしたシモンと向き合った。
「……シモン。誰かに約束された未来になんの価値がありまして? それは他人が用意してくれたレールに過ぎません。私の未来ではありません。私の人生ではありません」
「……」
「未来とは、他人のものに非ず、自らの手で掴み取るものです。ですから『バルヨナのシモン』」
「ハッ!」
「私を足が動かない小娘と侮らないで下さい。かのアーサー王程ではありませんが、貴方と共に戦場に立つ覚悟は、とうに出来ております」
足がマトモに動かせない不自由な体を持っていながら、なんて固い決意、なんて固い覚悟。
かつて、まだ円卓の騎士になる前のシモンから見ると「足が動かない娘が何を言ってるのだ……」と、一瞥していたかもしれない。
だが、今なら言える。
かつて、『穢れなき騎士』と共に旅をしたことがある。
彼は、不遇の扱いを受けながらも、あらゆる苦難を乗り越え、ついにはアーサー王にまで認められた誇り高き騎士。
その騎士と目の前の少女は少し似ている。
だからだろう。この少女の剣になりたいと思ったのは、
かつての友に、自分以上の聖人である彼に――
「……ふっ、あらゆる傷を癒す『聖槍の血』すら拒む頑固な御方だ。ワタシが付いていないと、次はどんな無茶をするのか分かったものではありませんね」
「あら? まるで保護者みたいな言い方ね?」
「当然です。貴女はワタシの友と似ている部分があるものでして、きっと彼と同じ様な無茶をすることが予想されるでしょう」
「まぁ、言ってくれますね。ふふ、でも残念でしたね。私は貴方が困るような事をた沢山しちゃいますから、覚悟しといて下さいね。シモン」
「……御意、貴女様の身心のままに」
それぞれが、それぞれの朝を過ごすその裏で、真性の『悪意』がニューヨークの路地裏で血肉を貪っていたのであった。
――また一人、また一人、悪い悪い大人を殺せたね『バルトロマイ』。
アハハハハハ!!




