恐怖
「疲れたって……だったら休憩すればいいだろ!」
バリクさんの言葉にハイリが叫ぶ。
「そういう事じゃないんだ」
「は? どういう……」
「きっと分からないよ」
ばっさりと言い放たれたそれは明確な拒絶。絶対不可侵の壁。
一瞬黙るハイリだが、やがてまた口を開いた。
「……なんだよそれ」
ハイリが小さく呟くと、やがて声を張り上げる。
「なんだよそれ! 納得できねぇだろ! なぁ、隊長、何か理由があるんだろ? なんだってこんなふざけた真似を……」
最初こそ勢いがあったが、だんだんしぼんでいき、最後は懇願にも似ていた。
しばらく黙っていたバリクさんだが、やがて口を開いた。
「理由は無い、かな。ただ人が怖いだけなんだ、僕は」
微笑を湛えたままバリクさんは続ける。
「騎士団なんか特にそうだったよ、色々頼まれては失敗したら死よりも恐ろしい何かが待ち受けてるんじゃないか、常に不安で、しかも頼まれる仕事はみんなが好まない内容だからみんなの反応もまた怖い。みんながどう思おうと僕は団長たちの頼まれごとを断る事はできないからね……。これまでこの恐怖はなんとか隠してきたけどもう限界なんだ」
みんな、とは俺たちの事だろう。
いつの間にか穏やかな笑顔は固い物になっている気がした。
「確かに内容はつまんないのが多かったけどよ、でも隊長を責めるとかそんな……」
「違うよ。みんなはたぶんこう思ってたんだよね、隊長がしっかりしてくれればもっと良い仕事ができてたんじゃないかって。その通りだよ。僕は完璧じゃなかった。騎士団とみんなを同時に満足させるような答えを見つけることが出来なかった。ほんとに、ごめん……」
「隊長? 何言って……」
「もういいやめてくれ!」
バリクさんは若干息を荒げる。
二度目の拒絶だ。これにはハイリも押し黙る。
人が怖い。バリクさんはそんな風に思っていたというのか。いや、これは言葉のあやかもしれないが、いやそうでもないのか? だめだ、分からない。ただ完璧じゃなかったという言葉は妙にひっかかる。
「これ以上、何も、僕を責めないでくれ……」
「だから、責めてないって言ってんだろ!? 隊長が何言ってんのか全然分からねぇぞ!」
ハイリの怒鳴り声に頭を抱えながらバリクさんが少しだけ後ずさる。
「ご、ごめんなさい不完全で、完璧じゃなくて、不快な思いをさせて……」
誰に言っているのか、一人バリクさんは謝罪する。その見た事ない姿に皆言葉を失っているようだ。
……ただなんとなく分かった気がする。この人もまたかつての俺のように、いや、それ以上に完璧を志していたんだろう。
人が怖い、なんて感性は俺には理解できない。けどもしかつての俺がその感性を持ち合わせていたのなら、きっと人のために自らの主張を押し殺し、自らを化かし、望まれる完璧な姿を追求し続けていたに違いない。そうする事で自分はその恐ろしい人間という存在を怒らせないですむから。要は目の前の隊長は自尊心のための完璧ではなく、人のための完璧を求め続けてきたという事だ。
でも、人間は万能じゃない。完璧なんかあり得ない。神じゃないから。いつか壊せない壁が立ちはだかる。
それに気づかないでここまで来たのなら。絶対に壊せないにも関わらず壁を殴り続けていても自分に痛みが被るだけだ。そんな馬鹿な事を続けていたらそりゃもうどうしようもなく腹が立って、自分自身に嫌気がさして、その負の蓄積はやがてどこかで爆発する。
その形は様々だろう。その大部分を占めるのは恐らく自傷。負の蓄積から起こる突発的な行動。
ただ、こういう考え方もあるはずだ。壊せない壁があるならそれの制作者を壊してしまおう、この心地悪い取り巻く環境自体を破壊してしまおう、と。恐らく今のバリクさんは後者。
「隊長に不安をかけてたのはこっちの落ち度。それについては謝らせてもらう。だからもう一度話し合ってみる気は無い?」
クリンゲさんが言うも、聞こえてないのか特に反応も示さずバリクさんが剣を構える。
しばしの沈黙の時間が訪れる。
「嫌われちゃったのなら、その存在自体を消せばいい……」
不意に物騒な事がバリクさんから発せられるが、一向に動く気配は無い。よく見れば剣を握るその手は震えている。裏切りは十分に人を不快にさせる行為、自分のやった事に多くの恐怖を抱いているのだろう。
「やれやれ、やはり僕が来ておいて正解のようですね」
バリクさんの背後、脇道から黒いローブに身を纏った眼鏡の男が現れた。その髪の色は、漆黒。
この少し耳につくキザな声はこの男から発せられたようだ。
「サキョウ、さん」
バリクさんも気付いたようで、眼鏡の男の名前らしき言葉を口にする。
「まぁこれまで情報の提供、及び王都内への侵入の補助。十分な働きでしたがね」
「いえ、それくらいは当然の事ですから……」
「そうですか。ところでバリクさん、先ほどから話を聞いてると、あなたはやはり彼の言った通り色々と大変なようです。今までのお礼として楽にして差し上げますよ」
男が言い終えた刹那、迸る銀の奔流と共に赤い何かが視界に飛び込む。
気付けば、バリクさんが血を流しながら地面に突っ伏していた。男の手には汚れた数本の刃が装着されていた。
騎士魔法の拘束の解除と共にバリクさんの死を確認する。術者が死ねば騎士魔法の効力は無くなるからだ。
おかげで身体は動くようになったので、反射的に後ろへ飛びのくが、それ以上はあまりのできごとに、茫然と目の前に転がる亡骸を見るしかできない。
「敵はセキガン! 即座に捕えろ!」
そうだ、こいつはセキガン。捕えないと。
クリンゲさんの怒号で我に返り剣を取る。とりあえず手傷を負わせて動きを封じるためだ。
他の隊員も同様、すぐさま剣を引き抜き眼鏡の男へと斬りかかる。
「愚かですね」
前進しようと足に力を込めた一瞬の時、男の目に青白い光が帯びる。
これは怪術だ。
途端、男の形相が鬼へと一変した、否、そう錯覚するほどの恐怖に襲われる。他の隊員も足を止めた。
これはたぶん『恐』の怪術。そんな事は分かってる、でも動かない。動けない。どうしようもなく目の前にいる異形が怖いから。なんでこんなのがこの世に存在するのか……。
束の間の膠着が訪れる。
「うわ、うわぁあああ!」
「待つんだ!」
沈黙の中、クリンゲさんの制止を聞かず、隊員の一人が雄たけびを上げながら突っ込んだ。つられて他の人たちも突撃しだす。恐怖で我を忘れるという奴だろう。
動きたい、今すぐにこの状況を打破したい。でも俺は動くわけにはいかない。何せまだ後ろにはティミーがいる。随分と怯えた様子だ。可哀想に。
俺はヘレナさんとティミーを守ると約束した。だからこそ彼女から離れるわけにはいかない。
「やれやれ、僕の怪術はこういう事があるから不便でなりません」
男は手を鋭く振るいながら、次から次へと隊員を斬り捨てていく。無駄のない刃は的確に頸動脈を狙っているようだ。こいつは怪術だけじゃない。……この化け物め。
「まぁ、恐怖に支配された人間など低能な野生動物よりも扱いやすいのですが……」
男は手に装着された刃の血を振り払うと、死体の山からこちらへと目線を戻す。
途端、さらに雪崩込む恐怖。剣を離さないように握るので精いっぱいだ。
こいつはやばい。とてつもなくやばい。俺が倒さなきゃティミーも他も自分もまずい。……あれ、だったらやるしか無いんじゃないのか、早く排除しなきゃ俺はティミーを守れない。不意討ちなら……いけるか? とにかくこんな状況から……逃げ出したい。壊さ、ないと。
「三人とも……」
クリンゲさんがおもむろに口を開く。見渡せば周りにはティミーとハイリとクリンゲさんしか立っていなかった。
「ここは俺にまかせて戻ってくれる? この分じゃ作戦は失敗。早く地上に報告しなくちゃいけないからねぇ」
副隊長が剣を握り直し男と対峙する。
「で、でも副隊長、こんな相手となんて……とてもじゃないがやり合えない! 無理だ!」
ハイリが叫ぶ。その放たれた言葉には。はっきりと戦慄が見て取れる。
ふと、クリンゲさんがこちらに顔を向けた。
「なに、たまには副隊長らしい事させてよ。それに、これは所詮……怪術、俺の力をなめないでもらいたいね」
それだけ伝えるとクリンゲさんはまた前に向き直る。
明らかに虚勢だ。口元は笑っていたが、こちらへ向いたその顔の色は青く、まさに恐怖そのものを表していた。
相手が悪すぎる。俺にはやはり、それしか道は無いか。
「行くぞ!」
ティミーの手を掴み走る。少し強引に引っ張ってしまったので一瞬転ばせそうになったが、ティミーもまた同様、怪術で恐怖を植え付けられてるので少しも抵抗せずついてくる。
それに続きハイリもまた付いてきた。恐怖は敗走しか許してくれない。
「……三名ほど、場所は恐らく……」
背中に男の声が聞こえた。それを振り切るべく地下道をとにかく疾走する――――
とうとう来ました! 100話目+プロローグです!
ここまでやってこれたのも読者の皆様のおかげでございます。何卒、これからもよろしくお願いいただければ幸いですm(__)m