保健室と彼女
気づいたらあたしは保健室で寝っ転がっていた。何事だ。
額に手を当てると、後頭部に鈍い痛みを感じた。貧血だろうか。覚醒しない頭で、ぼんやりとこうなった経緯について考える。
そうか、借り物競争が終わってから体調を崩したのか。ゴールしてから膝から崩れ落ちるという劇的なぶっ倒れ方をしたことを思い出す。いや、そもそも今日はコンディションが悪かったし、引き当てたものも悪かった。音楽室の掛け時計なんて、三階の外れにある音楽室まで全力疾走しなければ制限時間内に取ってくることはできなかっただろう。誰だあのお題考えたの。ストイックさからして翔子ちゃんか。
ベッドを覆うカーテンと、その隙間から見えるオレンジ色の天井をしばらく見つめて、ため息をつく。文字通りお荷物だっただろうな、こんなでかい図体してるし。
ゆっくりと体を起こすと、頭が鈍く痛んだ。だが、朝よりはよっぽどよくなっている。今は何時だろうかとカーテンを開けると、思いがけない姿を見つけて一瞬呼吸ができなくなった。薬棚の前、白いうなじが窓からの光で色づいている。華奢な背中、ハーフパンツからのぞくほっそりとした足。見紛うことのない、あたしの憧れのひと。
「み、美園さん……?」
「あら、よかった。目が覚めたのね」
からからの喉から絞り出すように名を呼ぶと、薬棚を眺めていた美園さんは、しなやかにポニーテールを揺らして振り返る。夢かと思ってこっそり左の太ももをつねるが、痛い。当たり前か、頭痛だってするし。
「えええ、ど、どうされたんですか!?お怪我でも!?」
「私?大丈夫よ。全部終わったから様子を見に来たの」
「様子!?ど、どなたか体調でも崩されたんですか……!?」
「どなたって?あなたが体調を崩したんでしょう?」
「……えっ?」
呆けた顔をしたあたしに微笑んで、美園さんはちょっと首をかしげる。つややかな髪が肩に落ちて、ぼんやりと影を作った。
「竹本さんが……ほら、体育委員長の。あなたがすごく頑張ってくれたんだけど、倒れちゃったみたいだって心配してたから、私が様子を見に来たの。彼女、後片付けがあったから」
「委員長が……」
委員長、もとい竹本さんの顔を思い浮かべ、同時に後片付けのことを思い出して背筋を正した。そうだ、後片付けまでが体育祭じゃないか。
「すいません、今何時ですか!?」
「今?ええと……五時半ちょっと過ぎくらいかしら」
「五時半!?」
あたし、寝すぎだろ!と内心叫びながらベッドから足を下ろそうとすると、一歩近づいた美園さんがそれを制した。
「無理をしてはだめよ。それに後片付けはもう終わってるから」
「終わってるんですか!?」
「さっき竹本さんから連絡が来たんだけどね。保健室に顔を出したかったんだけど、その足で祝勝会に行くから、起きるまで待っててあげてほしいって」
まあ、彼女がいないと始まらないから。と桜色の唇をほころばせて、美園さんは微笑んだ。祝勝会は多分チーム対抗のものだろう。毎年、優勝したチームは寮の食堂で祝勝会をすることができる。そういえば、あたしたちのチームはどうなったのだろうか。
「チーム対抗はどこが勝ったんですか?」
「ふふ、どこだと思う?私とあなたがここにいることがヒントだけれど」
「ええと……優勝は薔薇ですか?」
「あたり。今年は本当に最後まで競ったのよ」
午後からもそれぞれの点差は開かず、勝負の行方は最後のリレーに委ねられたのだという。リレーは陸上部から選手を出すことはできない。陸上部員が係員を務めるからだ。
我らが体育委員長は、なんと弓道部ながらアンカーを務め、百合組のバスケ部部長と菖蒲組のサッカー部エースを下し勝利をもぎ取ったという。あれはすごかった、と美園さんはにこにこ笑った。普段はクールな委員長が満面の笑みで天に拳をつき上げた姿。見たかったな、残念だ。
「ちなみに二位が百合、三位が菖蒲よ。応援合戦で追いついたのが大きかったわね」
「お、応援合戦!」
見たかった。こんな近くでお話しできることだって夢のようだが、応援合戦衣装の美園さんだって愛らしかったに違いない。こっそりと肩を落とすと、美園さんはそういえば、とポケットに手を突っ込んだ。白い手が引っ張り出したのは、見覚えのあるシャンパンゴールド。
「これ、預かってたの。あなたのカメラよね?」
「そ、そうです!えっ、どうして美園さんが?」
「四時くらいにお見舞いに来た子から任されたのよ。ええと……佐倉さん、だったかしら?心配してたわ」
「絵里子ちゃんが……」
なんだ、つんつんしながらも心配してくれていたのか、と照れくさくなる。受け取ると、美園さんはベッド近くの椅子に腰を下ろした。
「あの、わざわざありがとうございます。こんな時間まで待ってていただいて……」
「いいのよ、気にしないで。それより、もう大丈夫なの?」
「あ、全然大丈夫です!あの、ちょっと生理痛が重くて」
「生理痛……」
別に隠すことでもないので苦笑して言うと、美園さんはさっと表情を曇らせた。特別何かの病気ではないと言いたかったのだが、他人に教えるほどのことではなかったかと思わず口を閉ざすと、あたしの天使さまは困ったように微笑む。
「その痛みや苦しみは、私にはわかってあげられないわ」
「そ、そりゃそうですよね!個人差あるし、この辺はやっぱ自己責任っていうか」
「私に生理は来ないの」
「軽い子はほんと軽いっていうし、全然痛くも……えっ?」
「私に、いえ、正しくはこの学園のほとんどの人間には生理が来ないの。この都市の、と言ってもいいかもしれないわ」
「……それっていったい……」
事態をうまく飲み込めなかったあたしの頭に、涼子ちゃんの言葉が流れ込んでくる。普通の女の子、じゃねーだろ、こんなとこにいるなんて。普通の女の子じゃない、というのは、もしかして。
膝で軽く組んだ自分の指を見つめながら、美園さんは淡々と続ける。
「病気なのよ。私たちは、同じウイルスに侵されている」
夕陽に照らされた美園さんは格段に美しく、凛と背を伸ばしていたが、その黒い瞳は確かになみなみと絶望をたたえていた。