保健室とロマンス
まっすぐにその黒曜を見つめながら言うと、水面がぐらりと揺れた。オレンジ色の光が、滑らかな輪郭をなぞって影に呑まれている。ああ、この人は本当にきれいだ。
まつげに縁どられた大きな目をきゅっと細め、微笑みの形にした唇を僅かに震わせて、美園さんは静かにあたしに問う。
「――自惚れてもいいの?」
それだけの言葉に、正解も不正解もわからないまま、あたしはへらりと笑って頷いた。
「勿論です」
「ふふ、ありがとう」
美園さんは、淡く頬を染めてにっこりと笑う。夕陽のせいでそう見えるのだろうか。あたしは膝にかけられているタオルケットを強く握った。平常心。
そんなあたしを尻目に、美園さんは少しだけ浮かんでいた涙をぬぐうように目をこすって、頬杖をつく。巷で女の子の必殺技との呼び声高い上目使いだ。さすがの破壊力に、あたしはひそかに唾を飲み込んだ。
「私のことなんて、本当はみんな嫌いなんだと思っていたわ。そんなの自意識過剰でしかないんだけれど。私、女王ウイルスの感染者だし、理事長の孫だし」
「理事長の孫!?」
「ええ、知らなかった?」
最初のころより随分くだけた調子で言って、美園さんは首をかしげる。道理で、何というか、洗練されている感じがすると思った。
「幻滅した?」
「全然!寧ろお似合いです!」
「そう?ありがとう」
思わず言葉を失っていたら、いくらか元気のない声で尋ねられる。そもそもあたしは、美園さんに幻滅することなんて可能なのだろうか。
無理そうだな、と気恥ずかしくなって頭をかくと、熱を持ったようにうるんだ瞳があたしをとらえて、また呼吸を忘れる。ダメだって、これ!
「私、あなたに見つめられるの、好きよ。いつも困ったように眉を下げて顔を赤くして、助けてほしいってすがるような目をして、私のことを見ているの。知ってた?」
「しっ、し、知らないです!ていうかなんかすみません!変態くさい顔しててほんとすみません!」
「別にいいのに。あなたの視線はすごく好意的で、どきどきするの。私のことを全部肯定してくれるみたいで、好きだ好きだって言われている気になるわ。あんまり他の人にそういう顔しちゃだめよ」
「ぜ、善処します……ほんと、悔い改めます……」
「ふふ」
神よ!助けて神よ!この天使さま、あたしのことを窒息させようとしてるんじゃないだろうか。顔が熱い。思わず手の甲で頬を抑えていると、心なしか夢見るような声色で美園さんはつぶやく。
「不思議ね、あなたといると、まるで恋をしているみたい」
「――っ、あ、え?」
「本当はそんな気持ち、私の脳みそからきれいさっぱりなくなっているはずなのにね」
また困ったように笑う。もしや今のこれは照れ笑いでは、と思って、自惚れがすぎると膝に爪を立てる。痛い。が、どこかふわついた気持ちを押さえつけるには、まだ足りない。
「ねえ蒲原さん、名前で呼んでいい?」
「え、お、恐れ多いです!!」
「遠慮しなくていいのよ。教えてくれないなら調べちゃうから」
「な、ナツキです!蒲原ナツキ!」
「ナツキ?」
「は、はいっ!」
名前をたどるように呼んで、思わず返事をしたあたしに、嬉しそうに眼を細める。
「私の名前、知ってる?」
「は、はい、一応……」
「じゃあ、一応確認ね。私の名前は、美園薫。かおる、っていうのよ」
「か、かおる、さん……」
「ふふ、もう一回」
「か、かおるさん」
「もう一回」
「かおるさん」
慣れない、でも本当にきらきらした、すばらしい言葉を口にしているような気分で、あたしは彼女の名前を呼ぶ。うっとりとした目で、薫さん、は、あたしに近づいてくる。普通の友達同士ではたどり着かないような距離で、天使は、何かの呪文のようにあたしの名を唱えた。
「ナツキ」
あたしは、動けない。
――いや、やばいってこれ近いって、一線越えちゃうってそんなの恐れ多いって!
とりあえず、唯一自由である心の中で叫ぶ。と、野次のように、てめーなんかで一線越えたくなるような奇特な奴なんかいるわけねーだろ自惚れんな!という声と、いや、むしろ越えちゃえよナツキ!こんなチャンス二度とねーぞ!という声が交錯する。重ね重ね思うが、あたしはかなりの馬鹿だ。
石のように固まっていると、ゆっくりと薫さんが近づく。伏せた目は、長いまつげで翳っている。ふわりと、花のように清廉で、どこか甘ったるいような香りが鼻をかすめる。ああ、これはいつかの、なんて考えているうちに、もはやピントが合わない所まで来た。いやもう流されちまうか!なんて思った、その時。
「なーっちゃーん!劇的なぶっ倒れ方したって聞いたから宴会離脱してかけつけたよー!」
「菊野、うるさい!ここ一応病人がいるとこだから!」
「翔子ちゃん、気にしなくていいよ。ナツは寝すぎだからそろそろ起こさないとだし」
ノックとほぼ同時に扉が開いた音がして、三人分の足音が保健室に響く。第一声でわかった。アンリちゃんと翔子ちゃんと絵里子ちゃんだ。薫さんはさっと離れて、振り返り際にあたしに黙っておいてね、というジェスチャーと共に微笑んで、カーテンを開けた。
「あら、アンリと……ナツキのお友達?丁度良かった、今目が覚めたところなの」
さりげなく呼ばれた名前に赤面しながら、実は熱があるんだと言ってごまかせるかな、とあたしはカーテン越しに頭を悩ませたのだった。




