プロローグ
落としたハンカチを拾った。
たったそれだけで人生は変わるってことを、あたし、蒲原ナツキが保証する。
生まれつき悪い目つきと後天的に培われたガサツな性分は、頼んでもいないのに厄介ごとを運んできた。その日も殴られて腫れた右頬に湿布を張って、ゴムが緩んだスウェットを腰にひっかけ、踵のないサンダルを引きずるようにしてあたしはコンビニへと向かっていた。輝かしい右カウンターの栄光を示しているかのようにやたらと右手が痛かったことを、今でも覚えている。しかしここは言っておきたい。あたしはいつだって正当防衛だ。調子こいた顔してやがる、なんて訳のわからない理由で相手が絡んでくるのだ。
ふと誰かが追い抜いた風を感じて、つま先を見ながら歩いていたあたしが顔を上げると、傷んでぱさぱさの金髪を透かしてつややかな黒髪が見えた。そして、ぴんと背を伸ばして歩く背中、ゆるぎない足取りを紡ぐ、細くて白い足。
これは比喩なんかではない。あたしの中で、時間が止まった。
きらきらと光をまとったかのようなその姿に目を奪われた。泣きたくなるほどに、羨望と焦燥がこみあげてくる。腰あたりまであるまっすぐな黒髪は、彼女が足を踏み出すたびにしゃんしゃんと揺れる。
――なんて素敵な女の子なんだろう。
あたしはぽかんと口を開けて、その華奢な背中を見つめた。あたしにあんなお友達がいたらいいのに。いや、あんなお友達がいたら、憧れとか幸福感とか、そういうきらきらしたもののせいで頭がおかしくなるかもしれない。
そもそもあたしは、見てくれと性格と、今となってはいわゆる黒歴史なのだが、ちょっと残念な方向にすれていたせいで、女の子の友達が全くと言っていいほどいなかった。いや、訂正する。そもそも友達がいなかった。包み隠さず言うと中学生にしてヤンキーだったあたしは、善良な学生諸君にとっては恐怖の対象かつ平穏な学校生活の邪魔者であったため、かなりハブられていた。
だからそもそも友達の作り方を知らない。というか、誤解されるのが怖くて、見ず知らずの人に話しかけることもできない。
前を歩く美少女から目を離せないながらも、いっそその姿を網膜にしかと焼き付けようかと悪い目つきをさらに極悪人めいたものにしたところで、彼女が鞄をごそごそとやりはじめたことに気付いた。そういえばそろそろ駅かと首をめぐらせると、鞄とは反対側のポケットから薄桃色のハンカチがくたりと落ちた。あ、と口を開けるも、気づくわけがない。緊張のせいか、音声が出ていなかったからだ。返す返すあたしはヘタレである。
遠ざかっていく背中に、慌ててハンカチを拾う。握った瞬間、ふわりと花のような香りが舞った。なんだこのオプション。女の子ってすごい。いや、それどころじゃなくて。
「あ、の!」
振り返れ、いや振り返るな!
どっちつかずな願掛けをしながら追うと、彼女はゆっくりと振り返った。
「……はい?」
あたしは叫んだ。言葉にならないありったけの思いを、心の中で。
意志の強そうな瞳は、吸い込まれそうな黒。すっと通った鼻筋に、淡く桃色に色づく頬。薄く開かれた唇はつやつやと赤く、黒髪に縁どられた輪郭はぼんやりと浮かび上がるようだ。まとめよう、想像を絶するような美少女だった。その立ち姿と相まって、凛と咲く百合のような印象を与える。長いまつげを何度かぱしぱしと合わせて(瞬きで音がしそうなくらいだった)、伺うようにあたしを見つめてくる。そりゃそうだ、見知らぬ金髪ヤンキー女がものすごい目つきで睨みつけてきているのだから。怖がらせているとわかっていても、あたしにはどうしようもなかった。
「…………これ」
絶望的にコミュニケーション能力が欠乏していたあたしは、二文字だけ喋ってハンカチを差し出した。その時のことは、今でも夢に見るほどだ。そして朝っぱらから自己嫌悪に苛まれる。
しかし、悪夢ではない。寧ろこの後に起こったことはあたしの人生における唯一にして最大の奇跡だったからだ。
「……あ、それ、私の。拾ってくれたんですね、ありがとう」
ありがとう。やわらかな響きを持つ声で言って、彼女はあたしに微笑んだ。あたしなんかに、まるで花が咲くかのように、その麗しいかんばせをほころばせて。
あたしが差し出したハンカチをその白い指で救い出して、紺色のブレザーのポケットに入れる。そして小さく頭を下げて、軽やかに駅へと向かっていった。
しばらく呆然と突っ立っていたあたしは、体中の熱が集まっているのではないかと思うほど熱く火照る頬に手を当てた。涙で視界がぼやける。こんなに嬉しいのに、泣いてたまるか。あの姿を、声を思い返すだけで、息苦しさを覚えるほどに心臓が締め付けられる。
そうか、これが恋か。
あたしは頬にあった手を持ってきて口を覆う。これが、人に惚れるということか。なんて強烈な重力。まさに落ちるという言葉がぴったりだ。頭がくらくらする。相手がまぎれもない女性だということについては悩む必要なんてない。そもそも男はそんなに好きではない。いや、訂正する。男は嫌いだ。あたしが素敵な女の子のことを好きになるなんて、当たり前のことじゃないか。
追いかけよう。あたしは思った。今度はちゃんと話せるように、胸を張って会えるように。紺色のブレザーの高校を探したところ、案外簡単に見つかった。なぜなら、近隣で知らないものはないほどの名門女子高校だったからだ。
そこは、極上のお嬢様たちのため、徹底的に男性を排除した学園都市の中にある。通称鉄壁の学園都市と呼ばれる女の園の、そのまた奥にある楽園へと足を踏み入れるため、若干十四歳だったあたしの壮絶な戦いが幕を開けたのだった。