八月八日(土)ー2
駅のそばにあるコンビニでぱらっと雑誌の立ち読みをし、宣言通りアイスを買って部屋に戻ったのは午後九時半過ぎ。安芸はすでに双眼鏡を構え、最早見慣れた姿で向かいのマンションを監視していた。
俺はもう溜息をつく気にもならず、アイスを口にくわえたままベッドを背もたれに座り、安芸にコンビニの袋ごとチョコバーを渡す。残念ながらカップのチョコは売り切れだった。
安芸はコンビニの袋を一瞥だけすると、目当てのものではないにもかかわらず、無言で包装を破った。文句を言われたら面倒だなぁ、と思っていたので幸いだ。
「監視の再開って十時からで良くないか?」
「九時五十九分に帰ったりなんてしたら、目も当てられないわ。後悔しない為には最善を尽くせとよく言うでしょう」
「………『善』かどうかは疑問だけどな」
むしろ、彼女の最終目的は確実に悪だろう。日本国内だけでも宗教というものは無数にあるそうだが、殺人を推奨する神様だけはさすがにいないだろう、と思う。
仮にいるとすれば、それはイカれた奴の妄想だ。
「でもさ、ずっと監視だけしてるけど、それだけで良いのか?」
「……どういう意味よ」
「いや、同じ事の繰り返しばっかだと進展ないだろ?新しいモーションあっても良いんじゃないかと」
もっともらしい事を言いながら、実の所俺がこの繰り返しの作業に飽きただけである。安芸はしばらく無言で膝立ちをし、双眼鏡を持ったままアイスをくわえていたが(さすがにその姿はあまり美しく無かった)、納得したような不満そうな、微妙な息を吐いた。
「それもそうね」
そう呟くと安芸は双眼鏡を置き、おもむろに携帯電話を取り出す。その指が連打を繰り返しているので、メールを作成しているのだろうか、と予想する。その指の動きは美琴には敵わないものの、楓よりは早い。安芸のメール作成速度が速いのは、何となく意外だった。
「ん」
本文を作成し終わったのか、安芸がディスプレイをこちらへ向ける。半ば押し付けるような動作だったので、思わず身を引いた。
宛先は『お父さん』となっていた。その本文は、
『塾が終わって電車に乗ろうとしたら、怖い男の人に腕を掴まれたの。その時はたまたま会ったクラスメイトが助けてくれたんだけど、私怖くって…
お父さん、迎えに来て。お願い』
となっていた。
読み終わった俺が安芸を視線で窺うと、彼女はそれを察したのかすぐに送信ボタンを押し、再び双眼鏡を構えて窓の外へ向き直った。俺も釣られるようにして、カーテンの隙間から向かいのマンションを窺う。安芸は双眼鏡をしてまで監視しているが、出入り程度なら裸眼でも十分確認出来る。
「あ」
目的の部屋から飛び出してくるおっさんがいた。ワイシャツにネクタイ姿で、やけに慌てているようだ。部屋の中から出て来たほっそりとした体躯の女性が鞄とスーツを持って呼びとめたのか、男性はそれをひったくるようにして受け取ると、エレベーターを待つのさえもどかしい様子で、階段の方へ大急ぎで駆けて行った。
それを見届け、安芸は無言で双眼鏡を下ろす。俺は少しだけ驚いて、感嘆した。
「良い親父さんじゃん」
安芸のメールを受け取って、余程慌てていたのだろう。娘を迎えに行こうというのに、浮気相手の家に鞄や上着を忘れては致命的だ。それ程娘を心配しているのだ。
浮気をしている、神経質、などの情報から勝手に冷たい人や厳しい人のイメージが出来上がっていたが、どうやらそれは勘違いのようだった。
「…………分かってるわよ、そんな事……」
「え?」
安芸のあまりに素直な同意に驚いて思わず聞き返したが、まるでそんな事は無かったかのようにあっさりと無視をし、彼女は荷物を纏めて立ち上がる。
「行くわよ」
「あ?俺も?」
確かに、家族に見付からないように玄関まで誘導するついでに、毎晩彼女を駅付近まで送っていたが、彼女の計画では俺と安芸の接点は誰にも知られる訳にはいかないのではなかったのか。
そんな事を考えながら発した俺の疑問に、彼女は接点の事を指していると察してくれたのだろう。それはそれは綺麗な微笑で、短くこう言った。
「死人に口無し」
こえぇよ。
正面から見た安芸の父親は、いかにも人の良さそうなおじさんだった。
少々中年太りに片足を引っかけた様子のお腹はご愛嬌。特別冷たそうな訳でも、特別厳しそうな訳でもない。安芸の容姿からさぞダンディで格好良い人なのだろう、と勝手に想像を膨らませていたが、身長も俺より十センチ近くは低そうで、今の困ったような表情が余計に柔和で頼りなくも見せる。偏見な上、失礼な発言かもしれないが、とてもじゃないが『浮気』『愛人』『不倫』なんて言葉が似合う人では無かった。
困り顔で口を開けずにいる安芸の父親を見ながら、安芸は母親似なのかな、と漠然と思う。
そんな事を考える俺もまた、安芸の父親と同じく相当困り果てていた。
駅の改札機の前で向かい合う俺と安芸の父。安芸はその間に立って教室でよく見ていた微笑を浮かべている。
何だ、これは……まるで『彼女』の父親に初めて挨拶をする『彼氏』みたいな緊張感が漂っている。いや、そんな経験は残念ながら皆無だから知らないけれど。父親の方からも、いかにも娘の初めての『彼氏』に相対する父親のような戸惑いを感じる。せめてもの救いは、夏とはいえ夜のこの最寄り駅は人が少ない事だろう。人がいたら良い見世物になりそうだった。
妙な焦燥感を覚えて、縋るように安芸へ視線を向けると、彼女は何を考えているのか分からない微笑を浮かべた。
「秋山君、この人が私のお父さんよ。お父さん、秋山直人君。彼が助けてくれたのよ。それで、心配だからってお父さんが来るまで付いててくれたの」
期待に添えず申し訳ないが、そんな事は一言も言った覚えは無い。というか、その頬が上気するほど嬉しそうな顔を止めてくれ。確実に誤解が深まっていく。
「え、あーと、秋山君?その、娘を助けてくれたようで、ありがとうございます」
「あ、いえ、あの、俺は何もしてないんで」
事実、俺は何もしていない。そもそも何も起こっていない。その為、何も知らない安芸の父親に丁寧に頭を下げられると申し訳ないという感情が湧きあがる。しかし、慌てて否定してしまったせいで謙遜しているように聞こえてしまったのだろう、安芸の父親はまだ困惑を残しつつも、柔和な笑みを浮かべた。
安芸が楽しそうに微笑んだままで言う。
「秋山くんね、そこの海側のマンションに住んでるのよ。せっかくの七階なのに、山側しか見えないのが残念だけど」
その言葉に、俺は更に焦る。彼女の物言いではまるで、俺の家に上がって窓の外を見て来たようでは無いか。いや、上げたけど!断じてやましい事は無いのに、安芸の中途半端な言葉が邪推を生みそうだ。
俺は恐る恐る、といった挙動で安芸の父親を窺う。そして、その様子に驚いた。
ダラダラと汗をかいていかにも焦っており、可哀想なくらい青ざめていた。そこでようやく、俺は安芸のこの誤解しか生まない発言の意図を悟った。
安芸の目的は俺達の関係を父親に誤認させる事じゃない。いや、誤認させるのも目的の一つかもしれないが、要は、安芸はいつでも浮気相手のマンションの周辺にいる、という事を父親に示したいのだろう。俺との関係を誤認させる事で、安芸がまるで頻繁に俺の部屋に遊びに来ているかのように思わせて。実際は、頻繁に訪れるのは事実だが、その目的はけして『遊び』ではない。
安芸がそれを父親に示して何をしたいのか、俺には分からない。変に警戒させるだけの気もするが、嫌な方向に計算高い彼女なので、それにも何か明確な意図があるのかもしれない。
嫌な沈黙が落ちる。俺も父親も頬をひきつらせて笑い、何とか場を和ませようとしている努力が、余計に気まずさを増しているような気もする。安芸だけは、何を考えているのか、涼しげで明るい微笑。
そんな気まずい沈黙を破ったのは、俺のズボンのポケットから鳴り出した携帯電話の着信音だった。最近替えた、好きなバンドの音楽が静かな改札口前に響く。
「ど、どうぞ」
どうしたものか、と俺が二人を見回せば、安芸の父親の方が平静を取りつくろった顔で応対を勧める。気まずい沈黙から逃げる為に、俺は一言断ってから通話ボタンを押した。
「もしも…」
『秋山ー?おまえ今暇?暇だろ?暇だよな』
「何でおまえが断言してんだよ。つか、うるせぇ」
相手を確認もせずに出たが、声の主は金田だった。通話口の向こうから通話中の声さえ半ばかき消す雑音が聞こえる。この音は、ゲームセンターの音だろうか。
『いやさぁ、今俺ん家の近くのゲーセンいんだけど、岩淵が彼女に振られて落ち込んでんの。んで、じゃあカラオケ行って慰めてやっかって』
「何で慰めんのがカラオケだよ」
『ほら、大声でストレス発散?的な。つか、良いから来い。今五人いて、おまえ来たら二人分料金浮くんだよ』
「数合わせかよ、って……」
妙にテンションの高い外野の騒音と合わせて呆れながら、俺は安芸を振り返る。たぶん、今日の俺はもうお役御免だろうが、一応父親がいる手前彼女の許可を促す。
「今日は本当にありがとう、秋山君。ごめんね、私はもう帰るから」
安芸はまるで教室で会うときのようにそう言って、父親に目配せする。安芸の父親は遅れて状況を察したようで、少し慌てたように笑顔で頷いた。
じゃあ失礼します、と安芸の父親に軽く会釈して、駅から外に出る。クーラーの効いていた駅の中と比べるとやはりむっとした熱気を感じるが、風は冷たくて心地良いくらいだ。駅から出る時にちらりと覗き見た安芸の顔は、やはり以前に見慣れていた方の微笑を浮かべていた。
俺は一度受話口から離していた携帯電話を耳に当て直す。
「あー、だいじょお…」
『ちょお!おまっ、今安芸さんの声しなかったか!?何、そこ安芸さんいんの!?』
あんなに通話口から離れた位置からの、電波を介しての音でさえ彼女の声を聞き分けるとは、耳ざとい。
「はあ?いねえよ馬鹿。幻聴じゃねえの」
『ええ?マジで?ぜってーそうだと思ったのに。まあいいや』
それ程興味は無かったのか、金田はあっさりとその会話を引き上げ、カラオケボックスの場所だけ指定すると一方的に通話を切った。どうやら、言いかけで切られた『大丈夫』という言葉は伝わっていたらしい。
駅から出た所で立ち止まり、しばし考え込む。一度マンションに戻って自転車で向かうべきか否か。指定されたカラオケボックスの位置は電車で行くには近過ぎて、自転車で行くには少々面倒くさい。
数秒黙考し、すぐに答えが出た俺は緩やかに歩みを再開する。
最近は運動不足でもあったし、今更また安芸父娘と顔を合わせるのも気まずいのでちょうど良いだろう、と俺は一旦マンションを目指す事にした。
読んでいただいてありがとうございます。