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八月八日(土)ー1



「動機が不十分ってのはおかしくないか?」


俺がそう言えば、安芸は詰まらなさそうに何よ、と答えた。彼女の方も慣れが出て来たのか、今日は八時二十三分に父親が訪ねた事だけを確かめると、不機嫌そうに双眼鏡を手放した。


ここ数日では、火曜日と金曜日以外、つまり安芸の父親が訪ねて来なかった日は八時を過ぎると淡白な様子でただ受験勉強をしたり、読書を始めたり、俺との雑談に興じたりするようにもなっていたが、さすがに父親が浮気相手の部屋へ入るのを見た後は、すこぶる機嫌が悪くなる。


それに付き合わされる俺の身にもなって欲しい。とは言いつつも、そんな彼女へ平然と話しかけられる俺は、結局の所やはり、どうでも良いと思っているのか。


「普通、動機があるから殺意が湧くもんだろ?」

「それは随分客観的で、不理解な考え方ね」


相変わらずカーテンを閉め切った蒸し風呂状態の室内にありながら、安芸の横顔は涼しげだった。当然、随分控え目とはいえ汗はかいているようだが、どうにも彼女からは暑苦しさを感じない。それが、以前に彼女から感じた幽霊じみた不気味さによるものか、常に冷やかさを感じさせる切れ長の瞳によるかは、判断に迷う所だ。

要するに、美人は得ですね、という話。


安芸はグラスを傾けて視線を落とす。ちゃぷん、と少なくなった中身の麦茶が揺れた。その麦茶は俺が用意したものだ。一応、夕飯としてコンビニのおにぎりやお茶を持参している安芸だが、もうすっかりぬるくなっているだろうし脱水にでもなられてはかなわない、と自分の分を用意するついでに彼女に渡したのだ。


「殺意というものをもっと簡単に分かりやすく、身近な言い方では何と言うか分かる?」

「身近って?」

「突発的で強烈な怒りの事よ」


安芸は、グラスに落としていた視線を俺に合わせる。その表情は冷やかというより、どこか苛立たしげでさえあった。


「殺意は怒涛のように押し寄せる。それに呑まれて発作的に殺人を犯してしまう者と、すぐに波が引いて我に返る者。私は二通りいると思っている。もちろん、前者と後者には越えようの無い高い隔てりがある事は言うまでも無いけれど」

「で、おまえは前者って?」

「いいえ。私は後者よ」


話が質問の内容から遠ざかっている事に気付きながら、それでもその話に乗って確信を持って問いかけると、安芸はあっさりと否定した。

ここまで詳細に父親の殺害計画を練っておいて、よく言うものだ。


「貴方は何か勘違いをしているわ。私が言っている前者とは、怒りに任せてその場で殺人を犯してしまう人の事。私は女と歩く父を見て、瞬間的に殺意が湧いたわ。けれど、すぐに冷静になって考えたの。私はそんな父に何を思うか。浮気は許されて良いものか」


安芸の現在の思考回路を知る者として、果たして彼女は本当に冷静に考えられているのか、と疑問に思うが黙って彼女の話を聞く。


「結果、浮気は許せない。死を持って罰してしかるべきよ。私は父を殺してやろうと決めた。これは大前提。けれど、その殺意は父が浮気をしたからであって、もし浮気をしていないのなら私の動機は無くなってしまう。だから、確かに浮気をしている証拠を見つけて、動機を確立させなければならない。今の『疑惑』のままだと、動機として不十分なのよ」

「ああ、だから殺意が先にあると」


話がここで戻ってくるのか、と俺は感心する。彼女はとても流暢に言葉を発するので、その内容や発想はともかく、言葉の意味を理解しやすい。発音が良いのだろうか。

安芸の説明に理解は及ばずとも納得しかけた俺は、ふとある事に思い至って問いかけた。


「おまえさ、親父さんの事はやけに憎んでるみたいだけど、相手の女の事は良いのか?『父親を誑かした女』ってのは憎く……」


口にしながら、頭に血が上っている状態の為に安芸は今まで気付いていなかっただけで、俺のこの発言で『そうだ、女も殺さなくては』と危険な発想に拍車を掛ける事になってしまってはどうしよう、と気付いて口ごもる。時はすでに遅く、ほとんどが音になった後だったが。


しかし、安芸はその予想が全くの杞憂であると、その詰まらなさそうな表情と共に告げた。


「………女は、別に良いわ。今の所興味無いの」


今の所、という言葉に引っかかりを覚えたが、とりあえずほっと胸を撫で下ろす。とてもじゃないが、彼女の殺意に色を加えるような事はしたくない。浮気相手に興味が無い、というのは少々意外だったが。

安芸は興味が無い、というその言葉を証明するように、あっさりと話題を変えた。


「そう言えば、あなたは勉強をしなくて良いの?」

「あー…俺は、無難に入れる所を選ぶから、そんな焦らなくても…」


正直、痛い所を突かれた、と思った。そんなに適当にしていて入れる大学に行ってあなたは何を学びたいの?と、そう言われれば、答えようがない。そんな事は、俺の方が聞きたいくらいだ。


安芸に倣って俺も受験勉強でも始めようか、と考える。やって損する訳でもない。むしろ肥やしになるだろう。

ただ、元々勉強が好きではない上、その意義が見出せない事を理由に逃げてばかりになってしまっているのだ。


「ふぅん。まあ、必要が無いならやらないわよね。私もそうだもの」

「?安芸はここでも勉強してるだろ?」

「あれは塾の課題。それが無ければやらないわ。別に勉強、好きじゃないもの」


あっさりと告げた安芸に、思わず沈黙する。彼女のような、つまり『頭の良い人間』は元々勉強が好きだからこそ、それに集中出来て打ち込めるのだと、そう何と無く思っていた俺にとって、その発言は完璧な盲点だった。


「何よ。急に黙りこんで」


安芸が少し不機嫌そうに俺へ視線を向ける。


「いや、ちょっと何て言うんだ?青天の霹靂?俺、頭良い奴って皆勉強が好きなんだと思ってたから驚いた」

「そんな人間、極少数でしょう。目指す進路があるから、後は…環境かしら?皆気付けば勉強をしなければならない状況で、だから必死になるんでしょう」

「はぁ…それすらも俺には無い発想だな」

「ついでに言うと、頭が良いから勉強をするんじゃなくて、勉強をするから頭が良いのよ」


安芸は少し不愉快そうにそう言った。確かに今の俺の言葉は、彼女の努力を軽んじる発言だったかもしれない。俺は素直に納得して反省した。


「って言うと、安芸もあの大学で何か学びたい事があって今まで勉強して来たのか?」

「それは……」


その時、安芸は言いにくそうに口ごもった。夏休み以来、いつもどこか余裕を感じさせる冷笑か、詰まらなさそうな無表情を浮かべていた彼女が、初めて戸惑いのようなものを見せた。俺は思わず珍しいものでも見るように安芸に見入る。


「……私、分からないの。自分が何をしたいか、とか分からないのよ。どういう仕事に就きたい、とか何が好きとか。本は好きよ?だけどそれはあくまで読む方で、作家になりたい訳でも編集者になりたい訳でもない。ピアノやお花もそう。大学だって両親と先生に勧められて決めたし、今だって父親を殺したいって、初めて自分で強く思っているけれど、その後どうしたいとか、まるで浮かばないもの。まあ、それ以前に私はすぐに警察に捕まるでしょうけど」


まず、将来の職業と殺意を並べるな、と思った。次に、習い事と思われるものが一々金持ちだな、と感心した。それから、何でも思い切りよく決めて行く印象の強い彼女も将来に迷う事があるのだ、という安堵。そして、生まれたのは親近感と仲間意識だった。


ただし、その仲間意識というものは分かち合いたい類ではなく、むしろ分かち合えば不安感や自己嫌悪まで二倍になるだろう、と容易に想像出来るもので、俺はその親近感を無難な言葉で隠そうとする。


「あー…将来って、面倒だよな」

「そうね。ずっと先の事のように思っていても、気付けばすぐ目の前に迫っていたり、煩わしいわ」

「何がしたいの『何』って何だよ、って思うしな」

「あれは分かる人の理屈ね」

「………………………」

「………………………」


ほら。結局上手く話を濁せなかった為に、どちらともなく落ちた沈黙が部屋を暗くさせる。だから、親近感が湧いても分かち合いたいとは思わないのだ。


収穫も実りも無い話の中、唯一見つかったモノと言えば、薄気味悪ささえ感じさせていた安芸の、意外な人間らしさ、というか『普通』さだろう。………ダメだ、まずは心の中だけでも茶化してみよう、と試みたがそれさえも上手くいかない。

俺はこっそりと溜息を吐きながら立ち上がる。


「コンビニ行ってアイス買ってくるわ。安芸も何かいるか?」

「………カップのチョコ」


安芸はようやく普段通りの詰まらなさそうな顔で、そう端的に告げる。俺は了解、とだけ答えて部屋を出る。玄関で靴を履いてようやく、普段の調子を取り戻せそうだった。





読んでいただき、ありがとうございます。

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