七月二十八日(火)後篇
結果的に、俺は安芸の要求を受け入れた。
あまりに彼女が淡々と語るので、現実味を無くしてしまい流されてしまった所は多分にある。けれど、それ以上に興味をそそられた。
人殺しを目論む同級生に付き合うなど、そうそう出来る体験では無い。好奇心が勝った上、俺は自覚出来る程度にあらゆる意味で『特別』、『のめり込める何か』に夢中になる事、そして夢中になっている人へ好感を抱きやすい。
その考え方でいくと、安芸の極端な思考は大変俺の好む所だった。
もちろん、本気で人を殺されては堪ったものではないが、彼女の話に胡乱に思いながらもよくよく耳を傾けると、具体的に安芸が起こそうとしている行動は、殺害計画というよりも浮気調査の類に近いようだった。その為に、俺の部屋から浮気相手と思しき女性の部屋の扉を監視したいとの事。
おそらく、安芸は今、頭に血が上っている状態なのだろう。浮気をした父親を一時とはいえ殺したい、と思うほどなので余程潔癖な人物なのだろうが、頭さえ冷えたならばまた違う考えも浮かぶはずだ。
そう思い、俺は安芸に協力する約束をした。
それに、もしここで俺が突っ撥ねて、勢い余った彼女が朝刊を飾っても気分が悪い。
そんな言い訳を重ねてみたけれど、結局の所本当の理由はやっぱりどうしようもなくいい加減で、短絡的なものだろう。
俺はこの『普通』とかけ離れた状況に対する好奇心に屈し、押しに弱い性格はそれだけで彼女の主張に押され負けたのだった。
そうして、話は冒頭に戻る。
夏休みに入って以来、俺の最寄り駅近くにある塾の夏期講習に通っているらしい安芸は、毎日午後七時頃に人気の少ない駅の裏手で待ち合わせると、俺の住むマンションに訪れ、双眼鏡で女の部屋を微動せずに監視している。
何でも、残業により多少前後するが、安芸の親父さんが仕事を終えてこの町の駅に来ようと思えば、どうした所で八時にはなるらしい。だから安芸はそれより早くから女の部屋を見張り、何時に入って何時に出て行ったか、何曜日に頻繁に訪れるか、などといった事を調べるつもりのようだ。
俺が一番苦労したのは、安芸をいかに家族に見られずに部屋まで案内するか、だった。人殺しを目論む彼女の訴えとして、法律的に俺を巻き込む気は無いらしい。よって、俺と安芸が共にいるのを見られるのは得策ではなく、ましてや向かいのマンションになる俺の部屋に出入りしていたなど、計画性が露見するのは避けたいとのこと。曰く、
『計画的犯行より突発的な犯行の方が罪が軽くなる場合が多いのよ。共犯者なんてもっての他だし、上手く同情を買って立ちまわれば、まだ未成年である事もあって罪は随分と軽くなるはずよ』
との事。犯行の隠蔽より、露見してしまった後の事を考える当たり、嫌な奴だな、と思った。
幸い、六時半と言えば、母はキッチンに立って夕飯の支度をしている時間なので、廊下で出くわす事はまず無い。美琴は夕飯まで部屋に籠っているか、リビングでテレビを見ている時間なので余程不運に見舞われない限り見つからないだろう。怪しいのは父の帰宅時間だが、今の所は何とか遭遇せずにすんでいた。
ふと冷静に考え直してみると、俺ばかり必死になって嫌な汗を掻いているように思うが、俺はそれを、それ程苦には感じていなかった。正直に言えば、楽しんでさえいる。
滅多に無いどころか、一生かかっても経験する可能性の低いこの状況に、浮ついている事を認めよう。加えて隠し事というものは、どうしてこうまで気分を高揚させるのか。
しかし、それは最初の一週間だけである。淡々と、まるでそうプログラムされている機械のように同じ行動を繰り返す安芸に対し、そんな彼女をただ見ているだけの俺が暇を持て余すのは、思ったよりも早かった。
「今日、親父さんが部屋に行ったの何時だっけ?」
「八時七分」
斉藤に借りていた漫画を読み終わり、そう問いかけると、安芸はやはり微動せずに端的に答える。ちなみに、現時刻は九時十分だった。
俺は漫画を放りながら、呆れた調子で疑問を呈す。
「つか、親父さんはともかく、毎日毎日夜中に帰って、よくおまえは怒られないな」
「信用があるもの。友達と塾帰りに勉強会をしている、と言えば母は疑わないわ」
「いや、それにしても帰り道が物騒だろ」
「あんまり遅くなるようだとタクシーで帰りなさい、って言われてるわ。だから夜道の心配はされないの」
「うわ…」
金持ちの思考だ。よくよく聞けば、安芸の家は学校まで徒歩十分の新興住宅地にあるらしい。そこは金持ちが多いと噂の地域だった。
ちなみに、安芸自身は親父さんの帰宅を見送って、俺の家族の具合を窺いつつ、鉢合わせしないように三十分ずらして帰宅する手筈になっている。
「信用、ねえ……おまえ、親の前でも猫被ってんの?」
「猫?何の事かしら」
安芸は白々しくもとぼける。我ながら飽き性の俺なので、彼女が端的ながらもこうして会話を成り立たせてくれるのは有難かった。このような状況を作る原因となった彼女にそう思うのは変な話だと思うが、それを受け入れた時点で俺に文句を言う資格は無いのだろう。
「おまえ、クラスでの性格と今の性格。全然違うだろ。すっかり騙されてたな」
「失礼ね。騙したつもりなんて無いのよ。少なくともあの日まで、私はあの『良い子な私』が素だったもの。何の演技も無理もしてなかったわ」
意味が分からずに怪訝な声を上げれば、安芸は淡々と義務的に答える。
「今思えば、私はすごく『良い子』だったのだけれどね。両親を尊敬して、その期待に応えるのが喜びで、その為に努力する事は何の苦でも無かったわ。それがね、あの時。父親が女と歩いているのを見た瞬間、何かが崩れたの」
カーテンの隙間から双眼鏡だけ出し、向かいのマンションを見張っている安芸は俺に背を向けているのだが、彼女があの冷笑を浮かべている事だけは何となく分かった。
安芸はどこか楽しそうな様子さえ見せて言う。
「その時に今の私の存在に『気付いた』のよ。『人間は誰しも心に悪魔を飼っている』そう言ったのは誰かしら。以前はまるで分からなかったその言葉の意味が、今なら分かるわ。今なら私、父親を貶めて、虐げて、嘲る為なら何だって出来る気さえするもの」
あっさりと父親の不幸計画を練る安芸は、童話に出てくる悪い魔女のような邪悪さを持って、そう嗤った(わらった)。
極端だなぁ、と思う。潔癖にしても、彼女の考え方はあまりに極端すぎる。父親を許せる許せないではなく、どう私刑にかけるかのみに思考が片寄っている。
それに対し俺は、単純に一般的思考回路で引く所もあり、またその片寄り具合に惹かれる所もある。始めこそ、その考え方と凄惨な空気にぞっとしてばかりだったが、それに慣れてしまえば、興味深かった。
同時に、俺がもし安芸の立場だったら、と考える。要するに、俺の父親が浮気をしていたら。
残念ながら俺は想像力が乏しい方なので、具体的な像は全く浮かばないが、おそらく、怒るだろうとは思う。何を考えてるんだこの野郎、と殴りかかりさえするかもしれない。
けれど、果たして安芸のように殺したい、とまで思うだろうか。いや、思いはするかもしれない。ただ、それは憎らしさから突発的にそう思うだけで、実行に移そうとまではしないだろう。
「安芸さぁ、」
俺は何かを口にしようとして、考えを巡らせて、それから………結局、口を噤んだ。
「何よ」
「………何でもねえ」
深く考えるのはよそう。俺が安芸の恨み節を理解出来たとしても出来なかったとしても、どうせ、一ヶ月とちょっとの間の事だ。
安芸が示した、このストーカー染みた父親の浮気調査の期間は夏休み一杯。どういう手段を取るかは知らないが、全てを八月三十一日、その日に判断し、決着を付けるらしい。
軽い気持ちで彼女に協力している俺としては、その決着が平和的に終わる事だけを祈るばかりだった。
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