七月十三日(月)―2
その日、特別変わった事は無かった。
いつも通り始業までは机に突っ伏して寝て、だるいと言いながら体育の授業に向かって、苦手な日本史の授業ではまた眠気に襲われ、昼休みも普段と変わらず友人の金田と斉藤と食事しながらくだらない事で笑って、そうして楓曰くだらしない俺の学校生活の一日を終えようとした放課後、これからどこか遊びに行くか、と男子数名で固まって話している時だった。
安芸が俺に声を掛けて来た。
「秋山君、今日私と日直だったんだけど……もしかして忘れてた、よね?」
「えっ?うわ、マジだ…」
言われてすぐに黒板へ目を向け、脱力する。そこには確かに『秋山』と『安芸』の文字があった。
「わり、普通に忘れてた。って事は俺、日直の仕事全部安芸に押し付けてた?」
「ううん。それは良いんだけど、日誌だけお願いしたいな、って。でも、ごめんなさい。もしかして遊びに行く所だったの?」
「あー、やー…まあ………」
その通りだったが、どう考えても俺の落ち度だったので言葉を濁す。否定しても肯定しても気を遣わせるように思えた。
「……あー、うん。分かった。ごめんな?」
「大丈夫よ。気にしないで」
とりあえず、安芸に向けて謝罪をすれば、彼女は微笑んで首を横に振る。責められない事が余計に心苦しい。
俺は仕方なく出かける算段を立てていたメンバーに断りを入れて、安芸から受け取った日誌を手に再び席に着く。金田にはご愁傷様ー、と笑われた。うるせぇ、と返しつつも内心では本当にな、と溜息をついた。
金田達も教室を出て行って、人の少なくなった放課後の教室でペンケースを取り出していると、安芸がそばに立ったままでいる事に気付いた。
「安芸も帰って良いぞ?俺が悪いんだし、後はやっとくって」
放課後の日直の仕事といえば日誌を書いてそれを担任に提出、後は戸締り位のものだ。この位は一人で十分であるし、実際いつもは役割分担をしてどちらかが日誌を書き、どちらかが戸締りをして、終わり次第各々帰宅していた。
「今日は特に予定も無いから。あ、邪魔だった?」
「邪魔では無いけど…まあ、安芸が良いなら。じゃあ、どっか適当に座れば?」
「そうね。そうするわ」
俺がそう着席を勧めれば、彼女は俺の前の席に横向きに腰かける。鞄は自席に置いているようで、安芸の長い髪が軽やかになびいた。
「髪…」
「え?」
「髪さ、安芸ってずっと長いけど、邪魔だったり熱くとかねえの?」
俺の突然の問いかけに、安芸は目をぱちくりとさせたが、すぐに普段通りの表情を浮かべた。いつも穏やかな表情をしているので、その間の抜けた顔を少しだけ可愛いと思ってしまったのは秘密である。
「そうね…確かにそれはあるけれど、もうずっと長いままだから。気にならなくなったわ」
「ふーん。そんなもんか」
呟きながら、今朝の楓を思い出す。ずっと長いと鬱陶しいから、と短くしていた彼女が髪を伸ばし始めた。楓もいずれはもう慣れたから、とロングヘアーが定番になるのだろうか。結城先輩の好みなら、楓は喜んでそれに合わせるだろう。
それは何だか、複雑というか、ロングヘアーの楓は俺にとっては未知の存在で、今の所は違和感しか浮かばなかった。
まばらに人の減っていく教室内で、俺が四時間目の授業内容を何とか思い出している頃、ついに俺と安芸を除いた全員が退室した。二人だけになった教室に、シャープペンをノートに滑らせる音だけが響く。七月の空は、午後四時半を過ぎた今も蒼く明るかった。
微かにグラウンドの方から、運動部の掛け声が聞こえる。
「秋山」
その時だった。室内に唐突に女性の声が響いた。女性、と言っても教室内には俺と安芸しかいないのだから、その声の主は当然彼女という事になるのだが、その声のトーンがあまりに普段と違っていたので、俺は一瞬誰の声か分からなかった。
それに安芸は普段、俺の事を『秋山君』と呼んでいなかったか。
顔を上げれば、微笑む安芸と目が合った。普段通り穏やかに見えるが、その微笑の質も、いつもとは違っているように感じた。今の笑みは、そう。冷笑に近い。
「あなたにお願いがあるの」
「………お願い?」
「そう、お願い。あなたに手伝って欲しい事があるの」
「手伝って欲しい事?」
オウム返しで問う事しか出来ない俺に、彼女は至極あっさりとその冷笑とも微笑とも付かない表情で『お願い』とやらを口にした。
「人殺し」
とてもじゃないけれど、放課後の教室で、女子高生がただのクラスメイトへ向けるお願いではなかった。