九月二十九日(火)
八月三十一日(月)
夏は、花火のように呆気なく、寂寥だけを残して終わる。
二学期が始まって一ヶ月が過ぎた。
やたらと長引いた残暑もようやくなりを潜め、後一週間ほどで衣替えを迎える。早い者は推薦入試を目前に控えており、クラス内にささやかな緊張感が漂うものの、俺は比較的のんびりといつも通り過ごしていた。
いつも通り低血圧に悩まされ、教室で友人達と馬鹿な話で盛り上がり、眠たい授業をやり過ごし、久しぶりにやって来た日直の仕事は一人でこなした。
安芸は、夏休みが明けて以来一度も登校していない。
あの日、ようやく落ち着いた彼女は、もう何も口にしなかった。俺も無言で通した。一度だけ振り返って安芸の父親を見れば、彼は泣いていた。苛立ちと、それでもやはり冷めていく自身の感情を自覚しながら安芸の手を引いて女の家を出ると、彼女が小さく漏らす指示に従って自宅まで送っていった。余計な言葉を一切発さずに俯いたまま自宅に帰り着いた彼女は、無言のまま家に入っていき、俺はその背に何も言えずに見送った。
マンションの周りが騒がしくなる事も無く、新聞もニュースもくまなく目を通したが、安芸の凶行を示す事件は一つも見当たらず、大事には至らなかったようだった。
その事にだけは、ほっと胸を撫で下ろした。
そして、何事も無かったかのように日々を過ごしていた俺は今日、一ヶ月ぶりに安芸の家を訪れていた。
ずっと迷っていた。何をどうしたら良いかが分からなくて、何も出来ない事だけは分かり切っていて、それを理由に逃げようとする自分が許せなくて、今日までずっと何も出来ずに彼女のいない日々を過ごしていた。
夏休みになるまで日常だった日々は、もう日常ではなくなっていた。
俺は日常を取り戻す為に、安芸に会わなくてはいけない。
予想していたよりは普通の、それでも立派に居を構える安芸家の玄関の前に立ち、インターフォンを押して見舞いに来たクラスメイトです、と応対してくれた安芸の母親に名乗ったのだが、訝しげな目で上から下までしげしげと観察された。
制服を着ていたので、一応クラスメイトだという事は信じてもらえたようだったが、母親の顔に落ちた翳が晴れる事は無かった。俯きがちに安芸の母親は言う。
「秋山君、と言ったわね?陽頼のお見舞いに来てくれたのよね?ありがとう。ただね、申し訳無いのだけれど、今陽頼は誰にも会いたくないって言っててね、」
安芸の母親は二十年後の彼女はきっとこうなるだろう、と思わせる容姿をしていた。それでも安芸よりは小さくて柔らかい印象の、重ねた年齢に相応しい綺麗な人だった。どうやら、安芸は母親似らしい。
けれど、普段の安芸の母親の様子を知らない俺がこう思うのは変な話なのだろうが、その顔が何だかやつれているように見えた。安芸自身と母親を、俺が重ねてしまったからかもしれない。
やんわりと拒絶する母親に、俺は確かな覚悟を持って答えた。
「俺が来たって言ってください。そうしたら安芸は、陽頼さん、は会ってくれるかも」
すると、母親はわずかに驚いた様子だったが、意外なほどあっさりと少し待ってて、と口早に言い残して玄関から扉の向こうへ消えて行った。
落ち着かない気持ちを持て余し、玄関でそわそわと肩を揺すっていれば、戻って来た母親が複雑そうな顔で俺を見る。
「会うみたい」
きっと俺との関係を誤解されたんだろうな、と何と無く察した。
部屋に入らない事を条件に話だけはするらしい、という事を安芸の母親から伝えられた俺は、一人案内された二階の廊下の突き当たり、安芸の部屋の前に立っていた。
お茶を持ってくる、という安芸の母親の好意には丁重にお断りをして、母親が去った廊下で気持ちを落ちつけよう、と二度深呼吸をする。
まだ建てられて数年、と言った様子の壁や扉へ無意味に目をやると、扉に掛けられた『HIYORI』とデコレーションされたネームプレートが目に付いた。少しばかり不器用な出来でカラフルなそれは、彼女の手作りなのだろう、という事が窺える。安芸の新たな一面を知った気持ちになった。
明るい配色のそれに和まされて笑みを零すと、何だか後押しされた気分になる。その衝動に突き動かされるままに決心し、ノックをする為の拳を作った。
そして、ようやく扉にノックをしよう、としたところで、
「………秋山?」
扉の向こうから、小さくて掠れた声が聞こえた。予想外の状況とこの狙ったのかと疑いたくなるようなタイミングに、肩がびくりと跳ねる。気を張っていた分、衝撃が大きかった。
「あ、安芸か?話が、あって、さ。あの、俺…」
先程決意を固めたばかりであるというのに、いざとなると現われる自分の気の小ささにうんざりする。伝えたい事があるのに、言葉にならなくてもどかしい。俺は自分の頭を掻きながら、何とか言葉を探す。
「…お母さん、知ってたの」
「え?」
「浮気、知ってたんだって」
何も言えないでいる俺に、扉の向こうから安芸の声が伝わってきた。それには、笑いが含まれているように聞こえた。笑いの種類が冷笑か、嘲笑かまでは分からなかった。
彼女は尚も扉越しに話を続ける。
「私だけが知らなかったの。私が哀しむといけないから、ってお母さんはずっと知らないフリをしていたの。せめて私が成人するまでは、って。……だけど、私がもう知ってしまったから、結局離婚よ。私が…悪かったのかしら。私が気付かなければ良かったのかなぁ。ねえ、秋山。私もう、分からないわ。私、何をしたかったんだろう。何をしていたんだろう。私は、私は、ね―――」
だんだんと細くなっていく彼女の声は、縋るように聞こえた。震える音が、否応無く俺を遣る瀬無い気持ちにさせる。安芸はこう続けた。
「家族を壊したい訳では、無かったのに」
むしろ、家を守りたかった。幸せな家を守りたかった。父親を殺してでも、幸せな家族を守りたかった。喪失を受け入れたとしても、こんな崩壊を望んでいた訳では無かった。
訥々と、呟く安芸の声が微かに届く。それはやはり哀しみで満ちているようでいて、何の感情も孕んでいないようにさえ聞こえた。
安芸が悪い訳がない、そう叫んでだってどうしてだって伝えたかったのに、届かないだろうその言葉を口にする勇気が無くて、俺は唇を噛んだ。
この一ヶ月間、俺も色々と考えてみた。彼女のように何が悪かったのだろう、と漠然と思い浮かべてみた。当然のように始めは安芸の父親が諸悪の根源だと思った。慣れない恨み節ばかりが浮かぶときもあった。けれど、しばらく思い悩んでみて、考えが変わった。
安芸の父親がただあの女を愛しただけと、そう言うのなら、もしかして誰も悪くなど無いんじゃないか、と。
『愛情』は尊いものだと世間は語る。俺自身も『愛情』とはそうしたものだと信じている。未だ、触れられるような距離で感じた事は無くとも、そうあって欲しいと願う。
けれど、そう考えてしまえば、安芸の父親が犯した過ちも肯定しなければいけないのだろう。愛するという行為自体には、何の罪も無いのだから。例えそれが、不実の下にあったとしても。
『愛していたから』なんて、最悪の免罪符だ。
それでも、安芸の父親の女へ向ける愛情を認めなければ、俺は安芸の両親に向ける敬愛も、楓が結城先輩へ向ける恋慕も、俺自身が家族や友人に抱く親愛の価値さえ否定しなくてはいけなくなる。
一度そんな風に考えてしまうと、俺も誰が、何が悪かったのかなんて分からなくなってしまった。浮気という行為が『愛情』から派生したものだとするのならば、一体何を責めれば良かったのだろう。
傲慢な言い方をすれば、それを理由に俺は安芸の父親を許そう、と思った。父親の方も俺に許される謂われなど無い、と思うだろうが、俺は許そうと思った。ただ、俺の回りの『綺麗なモノ』を否定しない為に。そして、安芸の父親の愛情を肯定する代わりに、俺も俺なりの愛情とも呼べない自分勝手な感情を、身勝手に振りかざそうと決めた。
「ここ、開けろよ。安芸」
扉を一枚挟んで向こう側、懺悔のような贖罪のような言葉を繰り返し、繰り返し唱えていた彼女へ、俺は今度こそはっきりと言葉を向けた。
「い、やよ…誰の顔も見たくないの。誰にも顔を、見られたくないの」
「逃げんなよ。引き籠ってたって、何も変わんないのはこの一ヶ月で分かっただろ」
扉越しに、息を呑む気配がする。突然強気に出て責め立てる俺に、安芸は震える声で言い返した。聞き慣れているはずの大人びた彼女の声が、今はひどく子供っぽく聞こえた。
「なっ、何よ何よっ!秋山なんかに私の気持ちなんて分かるはず、無いわ。父親に浮気されていた私の気持ちなんて、分かんないでしょう!?」
「分かんねえよ。分かんねえけどおまえだって、俺の気持ちなんて分かんねえだろ」
語調が荒くなった安芸が言葉を詰まらせた隙に、俺は畳みかけるように口にした。
「友達を泣かされた俺の気持ちは、おまえにだって分かんねえだろ」
言葉にすると、けして激しくはない静かな怒りがふつふつと湧き上がってきた。急に何の反応も無くなった扉の向こうの安芸に、あまりの自分勝手にさすがに呆れられただろうか、と思った。
「許せないだろ、そんなの。俺はさあ、割といつも自分にがっかりしてるから、自分を否定されるのは平気なんだよ。ああ、やっぱりそうだよなぁ、って思う。だけど、友達を否定されるのは許せねえよ。俺、自分の友達はすげえ奴ばっかだって信じてる。そんなすごい奴を泣かすなんて、許せる訳ないだろ」
いつか、由井に『アキは他人を過大評価するけど、自分の事は過小評価する』と言われた事を思い出す。そのときはそれが良い事なのか悪い事なのか、よく分からなかったけれど、今はそれで良いじゃないか、と思う。その分大事な人を大事に思えるのなら、それで良いんじゃないか、と思う。
例えそれが横暴だとしても、俺の大事な人を傷付けた奴を許さない。それが、安芸の父親の『愛情』に対する俺の答えだった。
「だから安芸、ここを開けてくれよ。今度は安芸が俺をここに匿って、おまえの親父さんが帰ってくるのを待ち伏せさせてくれよ。俺、安芸の父親を殴る。俺の大事な奴の気持ちを蔑ろにした奴が許せないから、殴る。止めたって殴る。安芸はそれを見ててくれよ。そうしたら、学校へ行こう」
自分でも何がどうなって『そうしたら』に繋がるのかは分からなかったけれど、俺は至って真面目だった。全部本気で、許せないから安芸の父親を殴ろうと思ったし、それが終わったら彼女を学校まで引っ張って行こうと思った。叶わなくとも、決意していた。
「学校へ行こう、安芸。俺のわがままだけど、もう俺はおまえと話すのが日常になってたみたいで、おまえのいない学校って落ち着かないんだ。学校に来て、俺と馬鹿な事しよう。馬鹿な事で笑おう。おまえもう、頑張ったんだから、そろそろ馬鹿になったって良いだろ?」
安芸から何の反応も返って来ない事にだんだんと不安になって、最後に一言だけふざけた調子で付け加える。
「あーっと………日直の仕事って一人だと意外と大変なんだよ。だから、さあ」
そんな簡単に割り切れるはずがない、秋山が父を殴った所で何になると言うの、誰にも会いたくないの、当然貴方にも会いたくないの、秋山の感情なんて関係ない。彼女から言われるだろう数々の否定の言葉を頭に思い描きながら、唸って首を掻く。決意した宣言を果たせた事は良かったのだが、そのあとの事は実は一切考えていなかった。
頭も要領も悪い俺は何かを計算する事も出来るはずはなく、伝えずにいられない事を伝える事しか出来ない。それを否定されたなら、また一から仕切り直すしかないのだ。
しばらく、扉越しにお互いの間に沈黙が落ちた。しかし、出直すか、と俺が項垂れる頃になって、その沈黙は彼女の方から破られた。ふと、緊張から掌がぐっしょりと濡れている事に気付く。残暑が収まったとはいえまだまだ暑い日々が続くが、廊下の窓から届く涼風には秋の香りがした。
「………………あなた、馬鹿ね」
呆れるような―――冷たさも嘲りも感じさせない―――ただただ呆れるように響く安芸のその声は泣きそうなのに、静かな苦笑を感じさせた。
そうして、目の前の扉が、ゆっくりと、開く。
読了ありがとうございました!
これにて完結でございます。
とりあえず、一言。
浮気、不倫、絶対ダメ。これ以上ない裏切り行為だと思います。
たぶん、恋愛に特化していない高校生を書きたかったのだと思いますが、途中からどういった化学変化を起こしたのか、全力で謎です。
秋山直人
だらしなくて優柔不断な男子高校生。でも面倒見は良い。適度にサボるが、変な所真面目。他人への迷惑は配慮するが、自身への不都合は都合させる。特別正義感が強い訳ではないが、人に対して妙なポリシーがある。他人をすぐに尊敬する。妹がキレると正直ちょっとビビるが、平気なフリをして堪えている。
安芸陽頼
精神的な潔癖症。元々は大人しい優等生。しっかりしており、クラスメイトの信頼も篤い。そうとは気付かずに、両親の期待に応える事を生活の主軸に置いていた。元は結構なロマンチスト。
由井悟
自称ギタリスト。ザ・不器用人間。良かれと思った発言、行動によって何考えているか分からない奴、という評価を受ける。天敵は姉。相棒はアコギ。親友は音楽に興味を持つきっかけとなったレコード。友達は滅多に出来ないが、何故か彼女は定期的にいる。しかも全て告られて。
真野楓
溌溂としたスポ根少女。ワクワクドキドキなど、胸がいっぱいになったらとりあえず走って発散。汗が似合うと言われ、幼馴染にキレた事がある。現在、鬼のような倍率でゲットした彼氏と同じ大学に通う為、必死に受験勉強中。しかし、勉強を見てもらうなど、そんな中でもしっかりとスキンシップを取っている。たぶん、作中で今一番の幸せ者。
結城雅臣
完璧超人。おおよそ不可能はない。でも、意外と中身は庶民的で普通な所が多い。実家は歯医者。男女問わず友人が多い。異常にモテるが、女性の友人には、不思議なくらい恋愛対象外扱いを受ける。年下の彼女が可愛い。スポ根。
秋山美琴
お洒落に目覚めた中学生。メイクも好きで、少し年上に見られる事が多い。穏やかで優しい父は大好きだが、口うるさい兄は鬱陶しいしキモい。基本的には社交的だが、兄にはそれら一切を放棄する。反抗期。小さい頃はお兄ちゃん子で、よく直人の後ろを付いて回っていたが、今や人生の汚点。
安芸父
誠実を絵に描いたような人、というのが会社での評判。おおよそその通りの人物。困っている人を放っておけない。
浮気女性
傷つきやすく、弱い人。常に他人の視線が気になり、うつむいて生きている。派遣社員として、あまり人と関わらずに生きている。
長くなりました。
最後になりましたが、ここまで読んで下さった方、お気に入り登録して下さった方、拙作にご興味を持っていただいた全ての方に感謝いたします。
ありがとうございました。




