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八月二十七日(木)





八月二十六日(水)

その日、安芸は現われなかった。








二十六日の早朝、座り込んだまま本当に寝入ってしまった安芸は、始発に乗って自宅へと帰っていった。そのときの様子は、普通であったと思う。けれどもしかしたら、普通であった事こそが異常だったのかもしれない、と今更になって気付いた。


昨日、待てども安芸は現われなかった。その事に心臓の裏側を撫でられるような、自分でもよく分からない不快感のような不安はあったけれど、それを誤魔化す為に帰宅すると早々に布団に入った。


きっと体調が悪かったとか、そういう何でもない理由があったのだ。仕方ない、俺達はメールアドレスも知らないのだからそれを伝える術が無かっただけで、この状況は何もおかしくない。俺が今、勝手に疑り深くなっているだけだ。きっと目が覚めれば、この何に対してかもよく分からない変な不安からは解放される。


そう唱えながら、何とか深夜になって眠りについたのだが、目を覚ましても不安は減るどころかますます募る一方だった。

安芸は今、何をしているのだろう。何を思っているのだろう。


そもそもあのときの彼女をそのまま帰してしまった事が間違いだったのだ。気晴らしにどこかへ誘えば良かった。言える言葉が無くても、それでも何かを言うべきだった。俺は何を躊躇ってしまったのだろう。恐れていたのだろう。安芸の泣き場所にはなれなくても、鬱憤くらいは聞いてやれたはずだ。


俺はいても立ってもいられなくて、起きてすぐに家を出た。

確かめなければいけない。確かめなければ、何かがどうにかなってしまう。そんな風に何を確かめなければいけないのかさえ分からないまま、言い知れぬ不安に突き動かされた俺は一秒でも早く安芸の姿を視界に収めよう、と右往左往した結果、再び彼女の塾へと赴いていた。


以前と同じように受付では冷たくあしらわれたのだが、運の良い事に俺が以前に安芸を訪ねたときの様子を見ていた他校の女の子が、安芸は昨日から休んでいる、という事を丁寧に教えてくれた。貴重な情報だった。それに関しては素直に有難く思う。


けれど、それならば今、安芸は一体どこで何をしているんだ?

行方が知れない、そう言えば大げさだろうか。けれど、全く連絡の取れない今、彼女の様子がとにかく心配だった。


何とかして安芸を見つけたい。その方法として、一番に思いついたのは彼女の家に押し掛ける、という単純なものだったのだが、生憎俺は安芸の自宅を知らない。どうすれば良い?そう頭を抱えて思う。

俺達はなんて危うい線の上で繋がっていたのだろう。


俺は安芸のメールアドレスも電話番号も知らない。会うのは夜に人目を避けて、そのときだけ。彼女の塾は知っていても、その自宅さえ知らない。俺たちにはそれ以外の繋がりなんて無かったのだ。それでも、今は安芸がどうしているのかがただ心配で、微かに残る繋がりに縋りつこうとしていた。


途方に暮れる昼下がり、俺は突然ある事を思い出した。三年に進級したばかりの頃、連絡網が配られていたはずだ。それには当然、安芸の自宅の電話番号も記載されている。

それに気付いた俺は、再び家に取って返した。ろくに整理整頓などしていないが、確かそういったプリント類は一応捨てずに置いておいたはずだ。何しろ海が近い地域なので、警報の連絡を回すのに重宝していた。


俺は玄関でスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てて、一目散に自室へ向かう。その途中の廊下ですれ違った美琴が『靴くらい揃えなよ。格好悪い』とか何とか大方俺への嫌悪を示していたのだろうが、今はそんな事に構っている暇は無いので無視する。


とにかく早く安芸を見つけなければ。

部屋中をひっくり返すようにして連絡網のプリントを探した。今日ほど、日頃から整理整頓を行わなかった自分を恨んだ事はない。早く、とにかく早く見付かれ。こうしている間にも、俺の中には不安ばかりが燻っていた。インターフォンの鳴る音がしたが、それさえも無視。俺に出る様子が無いと察すれば、渋々美琴が応対に向かうだろう。だから、俺はそんな時間さえ惜しんで連絡網のプリントを探す。


そうしていると、必死になって引き出しを漁っている俺の部屋の扉が、ノックも無しに開かれた。その無遠慮な態度は予想通りと言うか、美琴だった。

何だよ、と俺が口にするよりも早く、美琴はいつになく不機嫌そうな拗ねた顔をして口を開いた。


「あの人、来てるんだけど」

「あの人?誰だよ」

「お兄ちゃんの部屋から出て来た、女の人」


ひゅっと息を呑んで、美琴の示す人物に思い至った俺は、素早く立ち上がると一目散に玄関を目指した。擦れ違いざまに美琴に睨まれたけれど、今は気にならない。

廊下に躍り出て玄関へ目を向ければ、そこには美琴の言葉通り彼女が立っていた。

普段と何ら変わらない、むしろ普段以上に優しい微笑を浮かべる安芸陽頼がそこにいた。


その姿に、俺は内心でほっと一息ついた。それは安心から出たものだった。そんな自分の反応で、俺はようやく自身の抱えていた不安が、彼女の行動以上に彼女自身が消え去ってしまうのではないか、と突飛過ぎる思考によるものだと思い至った。膝を抱える彼女が、あまりに儚げだったから。俺は、その姿に何か危ういものを感じていたのかもしれない。

だから、こうして再び彼女を視界に収められた事に、言いようの無い安堵と喜びがあった。


「……安、芸?」

「そうよ?どうしたの。幽霊でも見たような顔をして」


安芸はくすくすと可笑しそうに笑った。

涼しげな白いブラウスに、紺色の清楚な膝丈スカート。肩には塾用だと言っていたいつもの手提げが掛けられている。ヒールの低いミュールに、癖の無い黒髪と対照的に白い肌、切れ長の大人っぽい目元に、優しくカーブを描く品の良い唇。


やはりどこからどう見ても、俺のよく知っている安芸だった。これでようやく俺は突飛過ぎる不安から解消される――――はず、なのに。


あ、れ?


目の前の彼女に安堵したのも束の間、例えようの無い違和感が俺を襲った。

何かがおかしいように感じた。それが何なのかまでは明確に分からない。ただ、おかしい、とそう思ったその感覚だけは確かだった。


「えっと…どう、した?」

「お礼を言いに来たの」

「お、礼?」


安芸の言葉を繰り返す。突然礼と言われても、何の事なのか分からなかった。戸惑う俺に、彼女はやはり可笑しそうに笑う。楚々として、けれど少女らしい悪戯っぽさを含み。


「秋山にはね、ほら。色々と迷惑を掛けたでしょう?今更だけれどね、ちゃんとお礼を言っておきたくて」

「いや、お礼とかはそんな…結局は俺が勝手に首突っ込んだようなもんだし」

「でもね、やっぱり助かったから。ありがとう」

「………ぁ、や、でも…まだ終わりじゃない、だろ?」


安芸は穏やかに微笑んで、おそらく引き攣っているだろう、俺の顔を見返す。


「そうね、そうだったわね」


そして、その笑顔のまま、安芸はくるりと反転して俺に背を向けた。相変わらず、彼女の横顔は真夏であるにもかかわらず、涼しげなものだった。


「今日はそれだけ。じゃあね、秋山」

「あ、うん。また……」


安芸は実に滑らかに淀みのない動作で振り返り、俺に微笑を向けて玄関の外へ出ると、こちらへ背を向けたまま扉を閉めた。

俺は玄関に立ちつくしたまま、閉め切られた玄関を見詰め続ける。先程からずっと、戸惑いながら安芸を見送っている間もずっと、違和感の正体を探っていた。


彼女はお礼を言いに来た、と言った。それだけの為にわざわざ訪ねて来た、というのもそれはそれでおかしな気がした。そんなもの、また夜に会うときにでも言えば良い。

そして、不意に気付いた。安芸は何故、こんな昼間に、しかも誰に見られるとも知れない中、わざわざインターフォンを押して玄関から訪ねてきたのだ。実際、美琴に目撃された。


あれ程、誰にも知られてはいけない、と徹底していたのに。あの安芸が、執念深く父親を監視していた彼女が、そんな致命的なミスを犯すとは思えなかった。


そう考えると、安芸はもう見つかっても良い、知られても構わない、とそう思ったのではないか、と俺の中で仮説が浮かぶ。

それが、父親殺しなんて馬鹿げた事はやめようと考え直したから、という平和的な理由だと思えるほど、流石の俺もそこまで日和見主義では無い。俺は、考えるよりも早く家を飛び出した。


鍵を掛ける余裕すらなく、スニーカーに足を突っ込んで走る。エレベーターの前で一度足を止めたが、扉が開くまでの時間さえ惜しくてすぐに非常階段の方に回り、踏み外しそうな勢いで駆け下りた。

嫌な予感がする。おそらく、考えうる最悪の予感。


一階のエントランスから外へ飛び出すと、途端に容赦の無い日光が降り注ぐ。いつもなら体力を吸い取られるそれを無視して一心に駆けた。向かいのマンションまでそう距離はない。

うちのマンションと似た作りをした向かいのマンションのエントランスに足を踏み入れ、今度は真っ直ぐに非常階段を探して駆けあがる。俺の家と同じ七階で、部屋の位置も把握している。だから大丈夫だ、俺は間に合う。そう自分に言い聞かせてひたすら足を動かした。


残暑とは名ばかりの暑さの中、七階分の階段は息をきらすのに十分だった。ただでさえ夏休みであり、運動不足気味の足は早々に悲鳴を上げる。それでも、無理矢理に動かした。上がらない、と思っていても意外と動くものだ。俺には足を大事にしないといけない理由なんてないのだから、と足よりも大事な今この瞬間の為だけに両足に無理を強いた。


ぜえぜえ、と荒い呼吸を繰り返しながら何とか七階まで辿り着く。引きちぎれそうな感覚のする肺を無視して駆けたので、ようやくまともな呼吸を再開すれば酸素を急激に取り入れ過ぎてしまい、噎せた。走っていた最中より、立ち止まったときの方が呼吸は辛いものだ。着ていたTシャツは汗でぐっしょりと濡れている。


正直、もう座り込んでしまいたいくらいだったが、限界を訴える体に鞭打って女の部屋を目指そう、と屈んでいた上体を起こす。


「父を出して!」


すると、安芸の金切り声が強く響いた。ヒステリックで感情的なそれに、俺は弾かれるようにその声の方へ駆けた。

どうか、何事も無い女の部屋の扉を確認して杞憂だったかと妙に焦った自分に苦笑できますように、そう願っていたが、どうやらそれは叶わないようだった。


声のする、開け放たれたままの扉の部屋に入り込み、視界に飛び込んできた光景に俺はぎょっとして一瞬言葉を失った。

年の頃はおそらく二十代後半くらいだろう。玄関で尻餅をつく、以前遠目に見たこの部屋の主と思われる女に向かって包丁を向ける安芸が、そこにいた。


何の冗談だよ、と笑いたかった。リアルにこんなベタな修羅場を見る日が来るとは思わなかった、と笑いたかった。ただし、それは俺が関わっていなければ、というのが前提条件だ。そして、何よりも安芸の人生を狂わそうとしていなければ、だ。


「お、おいっ。やめろ、安芸」


俺は慎重に彼女を宥めようと声を掛けながら、後ろ手に扉を閉める。安芸の声に気付いた近隣住民にこんな場面を目撃されては、彼女を宥める事に成功しても警察のお世話になるのは確実だ。


「秋山は引っ込んでて!私の邪魔をするならあなただって殺すわよ」


包丁は女に向けたまま、安芸は鋭い目で俺を睨んだ。それはよく見た凄絶な視線と同じようだった。けれど、決定的に違っていて、俺は息を呑む。これまで見てきた視線はギラギラと冴えわたっていた。父親に制裁を下そう、という意欲がありありと浮かんでいた。


それが、今はどうだ。安芸の目は暗いものを孕んでいた。意欲さえ感じられない、鬱蒼とした死人のような目をしていた。そんな目で、彼女はそれでも俺を睨み、女に刃物を向ける。女は悲鳴も上げられない様子だった。


「早く父を出しなさいよ!殺してやるからここまで連れてきなさい!さあ早く!」


安芸は聞いた事のない大声で叫んで女に催促した。髪を振り乱して、尚も尻餅をつく女へ一歩迫る。確実な怒気を込めているのに、細い彼女の声は怒鳴るというより絶叫のようだった。


俺はどうしたら良いか分からなくて、おろおろと足踏みをする。狭い玄関で、そこから続く廊下には女が座り込んでおり、道は塞がっている。無理矢理取り押さえるという方法が浮かぶが、こんな場所ではその拍子にどちらが怪我をしてもおかしくない。特に、女性である彼女の方が危険なのは明白で、安易に踏み切れない。


「何か騒がしいけど、どうし……っ陽頼!?」

「――――――っ!」


そして、この最悪なタイミングで突き当りの部屋から顔を出した安芸の父親を視界に収めると、彼女は目を見開いて踏み出した。俺は今度こそ躊躇いを振り払って包丁を持つ安芸の腕を掴む。


「はっ…なしなさい秋山っ!」

「放せるか馬鹿!落ち着け!」


俺の腕を振り払おうと安芸はもがくが、俺はけしてこの手を放すものか、と更に力を込める。憎悪に満ちた彼女の目と俺の目がかち合う。普段の俺ならば気圧されただろうが、今は俺だって譲る訳にはいかなかった。この手を放せばどうなるかなんて、考えるのもおぞましい。


「ひっ、陽頼?どうして、ここが…」


浮気相手の家で娘に刃物を向けられるという状況に腰が抜けたのか、廊下の壁にもたれかかりながら青い顔でこちらを見る彼女の父親は、戸惑いの声を上げた。

安芸は、俺の手を振りほどけないままでも父親に殺意を向ける。


「あんたを殺しに来たに決まってるじゃない!出張だなんてよくそんな白々しい嘘が吐けたものね!厚顔無恥とはこの事だわ!なあに?本当は有給を取ってこの女と旅行にでも行こうって?……っざけんじゃないわよっ!」


初めて聞く、安芸のあらん限りの罵詈雑言に半ば呆然としながら、この状況に納得する。激動する現実を前にしては些細な事だったが、火曜日でも金曜日でも無い今日の、それもこんな昼間に安芸の父親が女の部屋にいるのにはそんな理由があったのか、と。そして、安芸が確信を持ってこの部屋に乗り込んだ理由も。


「この裏切り者!何も知らないお母さんによく笑いかけられたものね。裏切り者!裏切り者!裏切り者!気持ち悪いおぞましい。あんたを信じるお母さんに嘘をつくなんて、この恥知らず!殺してやる!殺してやるわ!」


安芸は、俺に腕を掴まれたまま、それでも衝動に身を任せて踏み出そうともがき続ける。暴れる彼女の空いた片手が俺を叩こうとして、反射的にその手をもう一方の手で掴むと彼女を後ろから取り押さえる形になった。その程度で安芸が諦めるはずもなく、今度は自由な両足が俺の脚を踏みつけ、脛を思い切り蹴る。今は恐慌状態の為に蹴られる際の衝撃しか感じないが、きっと後で青く腫れ上がる事だろう。

そんな様子をずっと怯えた表情で見ていた女が、この拮抗した攻防に初めて口を挟んだ。


「………ぁ、ま、待って!待ってください!」


反射的に俺は女へ視線を向ける。この部屋に踏み入ったときは現状に対応する事に精一杯でろくに女の顔も見ていなかったのだが、改めて見た女の第一印象は『細い』だった。


安芸も随分スレンダーな部類だが、そういうレベルではない。それは病的な程だった。服の隙間からは浮いた鎖骨が覗いており、色も青く感じる程に白い。それは今のこの状況に対して血の気が引いているのかもしれなかったが、それを差し引いても女は青白く、細かった。背格好云々よりも雰囲気が女を小さく見せているのだろうか。夏場にも関わらず長袖のカーディガンを羽織っているから、余計にそう思うのかもしれない。特別美人という訳でも、特別不細工という訳でもない。およそ平均的な顔立ちに、おそらくメイクもしておらず、服装にも一切洒落っ気がない。安芸のように清楚さを感じさせる訳でもなく、ただただ地味な印象の女だった。


女もまた、安芸の父親と同じくとても『浮気』『愛人』『不倫』といった言葉の似合わないタイプだった。弱弱しく、それが個性とさえ言えそうな程、地味な女だった。

空気に溶けてしまいそうなか細い声で、女は怯えた表情のまま口を開いた。


「あ、あのっ、お嬢さんに聞いて欲しい事が、あの、義弘さんは…」

「あなたが父の名前を呼ばないで!」


安芸がキッと女を睨みつけると、女は肩を震わせた。十ほど年下の子供と接しているとは思えない、おどおどとした様子で、女はなんとか言葉を繋ぐ。


「すっすみませんすみません。………あの、お父様は恥知らずなんて、酷い人ではありません。あの、嘘じゃないと思います。奥様を騙したのではなくて、お父様は本当に、あなたの事も、奥様の、事も、愛してらっしゃいます。大事に、宝物だと思っていらっしゃいます。酷い人ではありません。優しい、人です。愛情深い人です」


女は不実の言い訳をしなかった。ただ男の誠実さを、安芸に訴えた。女の話を聞く間、暴れる事を止めた彼女と共にその言葉に耳を傾けた俺は、『だからどうした』と思った。


例え安芸の父親が確かに誠実な人物だとしても、そんな事は関係ない。いくら誠実だとしても浮気をした事は事実だ。誠実な人柄がそれの言い訳になるはずがない。この夏休みを通して安芸の思考を否定しながらも彼女に感情移入していた俺は、女の言葉を酷く冷めた気持ちで聞いていた。バカバカしい庇い合いにしか見えなかった。


「………だから、」


大人しく女の話を聞いていた安芸は、振り絞るようにして言葉を口にする。それと同時に、掴んだ腕から彼女の体が小刻みに震えている事が伝わった。安芸もバカバカしいと思ったのだろうか。しかし、そう思った俺の予想に反した言葉を、彼女は叫ぶ。


「だから許せないんじゃない‼」


両手を掴む俺の力に必死で逆らって、安芸は前のめりになりながら感情を吐き出した。


「酷い男なら別に良いわよ!そんな父親ならこっちから願い下げよ!さっさと慰謝料と養育費だけ払わせて母に別れるよう勧めたわよ!そうじゃ…そうじゃないから、こんなに苦しいんじゃない!」


そう叫ぶ、安芸の顔を見て、俺は驚きから息を呑んだ。彼女は泣いていた。その頬に幾筋も涙を流していた。父親が女の部屋から出て行かなかったあのときでさえ見せなかった涙を、今彼女はここで晒していた。隠そうにも拘束されて隠せない涙を、それでも流していた。


「そんな、そんな父親じゃないからっ、許せないんじゃない!ちゃんと、私の事もお母さんの事も大切にしてくれていて、愛してくれていて、私達を裏切ってしまった事に苦しんでいるから、だから許せないんじゃない!それでもあなたを選んだんでしょう?お父さんは私達を愛しているのに、それでもこの女を選んだんでしょう?それで感じる罪悪感をおしてでも、この女を愛してるってことでしょう?それが何よりもの裏切りだわ!」


涙を散らして嘆く安芸に、俺は今頃になってまたも彼女について何も分かっていなかった事を思い知る。

ずっと、安芸は父親を憎んでいるのだろう、と思っていた。事実、憎んでいるのだろう。ただ、浮気をした父親を憎むのは、それは、哀しみがあったからだ。ずっと出来上がった殺意ばかりを見せられていたから、俺は気付かなかった。気付こうともしていなかったのだろう、事無かれ主義を掲げて。


彼女はきっと、父親が好きだったのだろう。大好きだった。そして、自身を愛する父親を信じていた。

だから、安芸は俺から見ても回りくどい、あんな方法で父親を監視していたのだろう。決定を夏休み一杯まで引き伸ばしていたのだろう。答えを知るのが恐ろしく、最後の最後まで、父親が何度女の部屋に入るのを見ても、信じていたかったから。信じていたから。


父親が女の部屋に入る度に不機嫌そうにしていた彼女は、きっと苛立っていたのではない。憎悪を抱いていたのでもなければ、殺意を募らせていたのでもない。



傷付いていたのだ。



ずっと、ずっとずっとずっと、傷付いていたのだ。哀しんで、傷付いて仕方が無かったから、その感情を怒りに置き替えていたのだ。

俺はこのとき初めて、安芸の父親を許せない、と思った。彼女の協力者としての無関心でも先程の冷めた気持ちでもなく、心から憎らしく思った。


彼女が盲目的なまでに父親を信じていたのは、そこに尊敬があったからだ。敬愛があったからだ。そんな彼女の気持ちを踏みにじる行為が許せなかった。

その感情は、自分自身にも向けられた。


切実な彼女の想いも知らず、彼女の苦しみも知らず、『ただの』浮気だなんて思い、馬鹿みたいな好奇心と無関心を持って同じ場所で同じ時間を過ごしていた自分に腹が立った。どうしてもっと、彼女の気持ちを察してやれなかったのだろう。もっと親身になれなかったのだろう。あれだけ一緒にいたのに。


俺がそう出来たところで、何も変わらなかったかもしれない。彼女の父親に裏切られた哀しみが、そんな事で癒えるはずもないだろう。けれど、それこそ、もしかしたら、


何かがどうにかなったかもしれない、のに。


目頭がカッと熱くなって、俺まで泣いてしまいそうだった。悔しくて仕方なかった。もっと何かをしたかった。何も出来なくとも、安芸を想って何かをしたかった。せめて彼女の心が、少しで良い。軽くなるように。

俺は何も分からないまま語った『後悔』の意味を、こうして知る。


痛みなど無視して唇を強く噛んだ俺は、安芸の両手をゆっくりと解放し、そのまま彼女の肩に両手を置いた。


「……………もう、やめてくれ。安芸、もう、これ以上は嫌だ。もう、十分過ぎるほど、傷付いただろ…?」


それは、俺のただの願望だった。これ以上、こんな彼女を見続けるのは悲し過ぎた。届くとは思えなかった。傷付ききった彼女は、こうでもしないといられないから、こんな事を仕出かしたのだと分かってしまったから。俺は、ひたすらに願う事しか出来なかった。


止められない、と思っていた安芸はしかし、俺の言葉に振り向いてくれて、怒りで見開いたままの目を俺に向ける。罵倒を口にする為に開いていた口のまま、そのまま彼女は唇を歪め、眉を寄せ、目じりを下げ、頬を更に多くの涙で濡らし、顔をくしゃくしゃにして、


「ぅ、ああああああああああああああああああああああああああああ!」


絶叫した。けして放さなかった包丁が手からするりと抜け、刃先がタイルを傷付ける音と共に彼女は俺の胸に縋りついた。汗に濡れたTシャツを構わず掴んで、顔をそれに擦り付け、嗚咽とも呼べない叫びで泣いていた。その衝撃と、足の力が抜けた事で玄関に尻餅を付いた俺と共に、彼女も地面に蹲って変わらず泣き続ける。


そんな安芸に対し、安堵以上に哀しみや悔しさばかりが湧き出して一度俯いたが、また顔を上げればどちらも呆然とした顔の、安芸の父親と女が目に入った。


衝動のままに口を開こうとして、止めた。唇を噛んで、誤魔化しきれないものを誤魔化す為に俯いて、二人を視界に入れないようにする。安芸が落ち着くまで、彼女の旋毛だけを見詰めていようと決める。そうでもしなければ、衝動を抑えきれなかったからだ。



俺は、生まれて初めて他人を殺したいほど憎らしく思ったこの日、同じくらい初めて自分を殺したいほど許せなかった。その感情こそが、『後悔』だった。









読んでいただき、ありがとうございます。

長くなってしまいましたが、切り所を見出せませんでした。


一気に畳みかけてしまいましたが、次で終わります。



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