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八月二十五日(火)ー深夜



未成年者の飲酒表現があります。

ご不快に思われる方はUターンお願い致します。

申し訳ございませんが、御了承ください。






現在午前二時十六分三十八秒。

息を潜めるようにして視線だけで携帯電話の時刻を確認する。終電はとっくに出てしまった時間である。双眼鏡を構える安芸は、零時を過ぎた辺りから一切の言葉を発さなければ微動すらしない。まるで石にでもなってしまったかのように、頑なだった。


そんな彼女の背をベッドにもたれながら見ていたのだが、今では呼吸をする事さえ躊躇われる空気が室内に流れていた。今、安芸が何を考えているかなど、恐ろしくて想像もしたくない。


言いようの無い居心地の悪さと息苦しさを持て余していれば、すくっ、と安芸が何の予備動作も無しに突然立ち上がった。双眼鏡を持つ手は下ろしていたが、視線は未だ外に向いていてこちらを振り返る気配は無い。


「ど、どうしたっ?」

「もう、ご両親は寝てらっしゃるわよね?」

「あ、あぁ、たぶん。美琴は分かんねえけど」

「冷蔵庫の飲み物、勝手にいただいても良いかしら」

「ど、どうぞ…?」


冷たい訳でも熱い訳でもない。ただ、一切の温度を排した安芸の言葉に、背筋を冷たいものが流れる。何だ、急にどうしたというのだ。

俺の返事を受け取ると彼女は素早く反転し、何の遠慮も無く俺に向かって双眼鏡を放り投げる。正確には、その双眼鏡は俺の隣をすり抜けてベッドの上に着地した。普段ならば危ない、と文句を言いたいところだが、今はとてもそんな事を口に出来るような雰囲気では無い。

自分でも何に怯えているのかは分からないが、怖くて安芸の顔を見られない。


流れるような動作で、一応物音を立てないように気を付けているのか、静かに部屋の扉を開閉すると、微かな足音はすぐに聞こえなくなり、それほど待つ事も無く彼女は再び扉を開いて室内に戻ってきた。

その手に持たれた二つの缶を見てぎょっとする。


「おまえそれ…」

「何よ、飲めないの?」


それは、母親が自分へのご褒美と称してほくほくと冷蔵庫に保管している、缶酎ハイだった。度数はそれほど高くは無いが、もちろんアルコールが含まれている。


「いや、つか未成年…」

「そんな事を気にするような良い子には見えないけど」


確かに、気にしてはいない。煙草は万病のもと!と成人してからも煙草は吸うな、と小学校教員である母親に厳しくそう躾けられているが、しかし、母親は酒に関してはちょっと問題があるほど大らかだった。

単に父親が一切飲めない人なので、一緒に飲む相手が欲しいだけなのかもしれない。母曰く、一人で飲む酒は侘しいらしい。


そんな理由で子供らしい好奇心から中学の頃に母のご褒美を『味見』して以来、俺は度々母親の酒に付き合わされてきたので、確かに今更未成年などという事にこだわりは無い。けれど、このタイミングで、尚且つ安芸がそれに手を出すという事が、俺には大きな問題に思えた。


「ちなみに、私は良い子だったので飲酒の経験は無いわ」


だよなあ、と俺は声に出さずに納得する。彼女曰く、学校での品行方正な態度は演技では無かったと言うので、そんな彼女が飲酒なんてしているようには見えなかった。


「じゃあ、何でそんなの持ってきてんだよ」

「大人は飲みたい気分のときがあるって言うじゃない。未だ経験した事のない感覚だけれど、想定した結果今がそのときのように思えたから、この機会に試してみるのよ」


安芸は淡々とそう応えて、俺の右斜め前に座るとテーブルにその缶を置いた。プルタブを押し上げて、プシュッとわずかに炭酸が抜ける音と共に飲み口が開けられる。彼女はそれを無造作にあおった。


「お、おい。初めてなのにあんま一気飲みすんなよ。すぐ回るから」

「うるさいわね。貴方には関係ないわ」


先程から何を考えているのかさっぱり分からなかった安芸は、不機嫌そうに俺を突き放した。その不機嫌さは最早慣れたそれであるようで、冷たく睨まれたにもかかわらず、俺は少しだけ安堵する。虐げられる趣味なんてないが、あの温度を感じさせない表情と声調よりはまだそちらの方がいくらかマシだった。


「それにしても、味は炭酸ジュースとそう変わらないようだけど、頭の奥がポーとするわ。思考が滲んで、大人はこんなものの何がいいのかしらね」


安芸は否定的な感想を述べながら、それでもまた缶をあおる。貴方も飲みなさいよ、と安芸に睨まれながら勧められたが、丁重に、出来るだけ彼女の神経を逆なでしないように気を配りながらお断りした。明らかに様子のおかしい彼女を放って、俺までアルコールで判断力を鈍らせては収集がつかなくなるだろう、と予想がついたからだ。


だからと言って、俺は安芸の行動を無理に止めようとは思わない。何を考えているのかはさっぱり分からないが、彼女が今飲みたくなった、とそんな風に思ってしまう理由だけは察しが付いたからだ。

安芸の父親はきっと、朝まで女の部屋にいるのだろう。その事実は、彼女にどんな思いを抱かせているのだろうか。

安芸は唐突にこんな事を言った。


「私の話をしても良いかしら」


早くもアルコールが回ったのだろう、彼女の白い頬はほんのりと赤く染まり、目元は熱に浮かされて潤んだ瞳が少々扇情的だった。無防備なその横顔に思わず心臓が跳ねる。

安芸は正座を軽く崩していた姿勢から膝を立て、所謂体育座りをして、自身の両の膝の上に鼻先を埋めた。


「暴露話よ。秋山はきっといつになく驚くわ」

「いや、何かもうこんな事してる今となっては大抵の事では驚かないような気もするけど」

「いいえ、絶対驚くわ」


妙な確信を持つ安芸は、やはり無感情に告げた。


「私ね、秋山の事が好きだったのよ。恋をしていたの」

「…………は…ぁ……?」


それはもしかしたら、世間でいう告白といわれる行為に当てはまるのかもしれないが、俺はロクに反応も出来なかった。安芸の前置きは実に正しかった。突然に告げられた言葉はあまりに予想外過ぎで、その言葉を信じる信じない以前の問題として、意味さえ分からなかった。


「仕方が無いじゃない。私ね、恋愛小説とか、とても好きだったのよ。憧れたわ。あんな風に人を好きになって、私の事も好きになって欲しいと思いながら、読んでいた。恋に恋していたのね。私は恋をしてみたかった。そんな中、私がよく話す異性と言えば日直が同じ秋山くらいで、恋をしたかった私は、恋をしてみるのに都合の良かった秋山を好きになったの。もっとも、その気持ちも父が女と歩いているのを見た瞬間、ああこれは汚らしい感情なんだ、って一瞬にして冷めてしまったけどね」


安芸は恋に対する憧れと、その気持ちを汚いものだと感じた経緯を、まるで同じ淡々とした様子で語った。俺は、彼女が自分を好きだったなどと、同じクラスだった三年間とこの夏休み中を思い返してみてもとても信じられなかったが、その平坦な声調が彼女の発言に真実味を与えていた。


すでにその感情には嫌悪しかないのだろうが、それを聞いた瞬間、俺は正直なんてもったいない!と思った。男子の中で何気にクラス一の美人、と誉れ高い安芸に好かれていたなどと、俺の冴えない人生の中ではかなりの幸運であり奇跡だった。


「しかもね、笑えるのが、秋山に好意を持っていた私が塾の帰りにたまたま貴方を見つけて、家がこの辺なのかな、って淡い乙女心でその後ろ姿を追って。その先で初めて見つけたのよ。父親が女と歩いているのを、ね」


うふふ、と安芸は少女らしい、しかし今この瞬間には似合わない、熱に浮かされたような顔で微笑む。否、実際にアルコールという熱に浮かされていたか。


「恋ってね、素敵だと思っていたわ。少なくともあの瞬間までは本気で。おはよう、って挨拶をするだけで、幸せになれるんだもの。そんなの他に無いじゃない。キスなんてね、それはもう、世界が一変するくらい輝けるものだと信じていたわ」


そう言った安芸は、膝に埋めていた顔を上げ、突然俺に向かって手を伸ばした。Tシャツが伸びる事などまるで気遣わず、彼女は俺の胸倉を掴んで引き寄せる。こちらが驚いて体を強張らせている間に、安芸は素早く顔を寄せた。


瞬間、思考がフリーズした。


意味が分からなかった。何が起きたかなんてもっと分からなかった。乱暴に彼女に引き寄せられて、気付けば安芸の綺麗な顔が目の前にあって、彼女の飲んでいたアルコールの香りと共に唇に触れたのはきっと………


「ちょっ、え?…待て待て待て、おかしい、今何かおかしかったぞ今!」


一気に体中の血液が顔に集まるのが自分で分かった。俺までアルコールを摂取したのか、と思うほど急激に体温が上がって、ただでさえ暑いこの室内でどっと汗が吹き出す。慌てた為にだらしなく伸ばしていた足が机に当たって物音を立てたが、今の俺にそんな事に気を使う余裕はない。そんな俺の戸惑いに反し、安芸は涼しい顔のまま今度は突き放すようにして俺から離れると、どこかぼんやりとした目でこちらを見る。


「キスをすれば、世界が変わると思っていたの」


そして、先程と似たような言葉を静かに呟き、また膝を立てて体育座りをすると、その膝に顔を埋めた。今度は目元から膝に押し付けたので、長い髪が彼女の横顔を隠し、よく透るはずの声がくぐもって聞こえた。


「けれど、現実には変わらないのね。お父さんが浮気している向かいのマンションに、私はいる」


消え入りそうになる事さえなく、くぐもっていてもはっきりと言い切った安芸に、俺は冷水でも浴びせられたような気持ちになった。

俺は今、突然の出来事にどうすればいいのか分からずに慌てたけれど、安芸はそれどころでは無いのだ。それどこころでは無いから、あんな馬鹿な事をしたのだ。


顔を上げない彼女の声も肩も、けして震える事は無かった。けれど、俺は泣いているのではないかと思った。そう思うと、無性に切ない気持になった。

嗚咽なんて聞こえない、安芸は顔を膝に埋めているだけだ。それだけを見ると、ただ単に座り込んでそのまま眠ってしまっているようにさえ見えた。けれど、その姿が、どうしてだかひどく儚げに見えた。見ていて悲しくなる姿だった。震えながら泣いていた楓を見たとき以上に、不安になった。


楓には結城先輩という泣ける場所があるけれど、今ここでこうして膝を抱える安芸は、一体どこでなら泣く事が出来るのだろう。


そう思うと、余計にその肩が心細げで、思わず手を伸ばす。そして、すぐにその手を引っ込めた。手を伸ばしたところで、俺は一体何と言えば良いのだろう。何と言えば、少しでも彼女の気持ちを軽く出来るのだろう。


―――――――そんな都合の良い言葉、あるはずがない。


それが分かってしまって、俺は彼女に手を伸ばせない。今にも崩れていきそうな、頼りなくて脆いその姿を、ただ見ている事しか出来なかった。






読んでいただき、ありがとうございます。



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