八月二十五日(火)―夜
その日の安芸は意気揚々、といった様子で現われた。
「チャンスよ」
そして、開口一番にそう言った。爛々と輝く瞳は父親へ嘲笑を向けていたときのそれを思い出させる。何の事だかさっぱり見当もつかない俺に、彼女はどこか上機嫌に説明を加えた。
「今日、母が友達と一泊で旅行に出かけたのよ。私も友達の家に泊って勉強会をすると言って来たわ。つまり、今晩我が家に残るのは父だけ。父が何をしても私も母も分からないはずの状況。あの人はどういう行動を取るのかしらね」
にっこりと、安芸は笑う。少女漫画ならば花でも飛んでいそうな、いっそ愛らしい笑顔だ。しかしそれに、俺は頬を引き攣らせる。
「一応聞いてみたいんだけど、おまえはどこに泊るつもりで?」
「もちろん、あなたの所よ。と言っても寝るつもりなんて無いわ。徹底的に監視するつもりよ。これ程、見極めに適した状況なんて早々無いもの。このチャンスを逃す手は無いわ」
「ですよねー」
俺は、安芸の言葉に浮かんだ二つの懸念に、頭を抱えたくなった。一つ目は、今更かもしれないが、一応俺達は年頃の男女ってやつなのだがそれって良いの?という事。いやいや、やましい気持ちは無いのだが、それでも一応節度ってものは考えたい。
すると、安芸は俺のそんな考えを察したのか、先程の上機嫌から一変、すっと目を細めると恐ろしく冷たい瞳で俺を流し見た。
「言っておくけれど、良からぬ行為はもちろんの事、良からぬ思考でさえ埋めるわよ」
「どこに!?どうやって!?」
その場合、俺は息をしているのかがとても気になる所だ。仮にまだ息をしていても、最終的に生き埋めになりかねない発言だったので、残忍さはとんとんである。
そんな俺の発言にはどこ吹く風といった様子で、安芸はいつもより随分軽い足取りでマンションを目指す。俺は自分の家に向かうにもかかわらず、彼女に先導される形でその後に続いた。
俺は安芸の背を見ながら、先程浮かんだ懸念の二つ目を思って、自然と俯きがちになる。それを、今の彼女に進言する勇気が俺には無い。
今日のこの仕組まれた自由によって安芸の父親が、ある意味で彼女の望む形で殺害動機を確立させた場合、彼女はどうするのだろう。どう、思うのだろう。
そして俺は、そんな安芸を見て、どうすれば良いのだろう。
密かにそんな不安を抱えていても、上機嫌の安芸はいつも通り俺の家族に見つからないように家に上がって、俺の部屋まで素早く移動する。いつも通り愛用している双眼鏡を持って、熱気の籠った室内から女の部屋を監視する。いつも通り父親が女の部屋を訪ねるのを見送って、いつも通りの不機嫌を取り戻して暇を持て余し、いつも通りの父親の帰宅時間からまた双眼鏡を構える。
刻一刻と時間は過ぎて行き、
安芸の父親は、午前零時を過ぎても女の部屋から出て来る事は無かった。
読んでいただき、ありがとうございます。
短いですが、一旦切ります。




