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七月十三日(月)―1



七月中旬の湿気と暑さは、朝とはいえ著しく睡眠を阻害する、はずだ。それは冷夏と呼ばれる今年も例外ではない、と夢現の中で俺は考える。

カーテンの隙間から差し込む自己主張の強い太陽の光や、室内に籠る熱気で頭は覚醒しようとしているのだが、それでも抗いがたい眠気で俺はひたすらに惰眠を貪っていた。


枕に頭を埋めた状態で、着けたまま眠ってしまったヘッドフォンからコードを辿り、音楽プレイヤーを掴むと画面を見ずに感覚だけで操作する。少しは目覚ましに役立たないか、とろくに選曲もせずに適当に再生ボタンを押した。熱さと湿気で蒸れるヘッドフォンを通して伝わるのは、友人から作曲したので聞いてみろ、と押し付けられたアコースティックギターによる弾き語りだ。

幼い頃の夏の思い出と、成長した自分を見つめ直す、伸びやかなメロディー。静かで緩やかなそれは心地よさを生むが、目覚ましとしては明らかな選曲ミスだった。失敗したなあ、と思いつつもそれに勝る眠気によって反省する事もままならない。

また、アコースティックギター独特の深く響く、優しい音色が眠気を誘う。


「おっっっきろーっ!」

「うわぁっ!」


急にヘッドフォンを外されて、耳元で叫ばれた俺は声を上げて飛び起きる。安いパイプベッドが悲鳴を上げると共に心臓が跳ね上がり、一瞬何が起こったのか分からずに目を白黒させる。何とか状況を把握出来ると、同時にどっと冷や汗が流れた。


(かえで)……何だよ。ビビらせんな」

「直人がいつまで経っても起きないからでしょ!おばさんに起こしてって頼まれたの」

「だからってもうちょいマシな起こし方が………あー、嫌な汗掻いた」


文句を呟きながら、ヘッドフォンによって出来た変な型の寝癖を、適当に掻き混ぜて直そうとする。………無駄な努力っぽい。後で水を被る方が賢明だ。

茹だるような室内を何とかしようと、不満をもらしながらカーテンを開けるこの少女の名前は真野(まの)(かえで)。身長は平均よりも高め、制服のプリーツスカートから覗く、引き締まった足が自称チャームポイント。着飾る事よりも体を動かす事が好きな、アスリートタイプの十八歳。


そして、この言い方は何故か周囲にいらぬ期待をされるので俺も楓も嫌っているのだが、所謂お隣さんにして幼馴染というやつである。いや、本当に変な期待はいらぬ心配である。

こいつ、彼氏いるし。


「つか、何でおまえが起こしに来るんだよ。まだ七時過ぎだし」

「だから、おばさんに頼まれたの。()(こと)ちゃんじゃ、あんた起きないでしょ?」

「頼んだ張本人は?」

「おばさん?私と入れ違いで出て行っちゃったけど」


よくよく考えてみればそりゃあそうだ。俺の両親は共働き。母親は小学校で教鞭を取っており、毎朝のように俺より早く家を出る。さては、あの人も寝坊したな。俺の低血圧は母親譲りであり、出勤時間が早い割にあの人もよく寝坊する。そして、そんな日は決まって俺を起こす暇も無く、その役目を楓に任せる。勘弁してほしい。

まあ、俺が一人で起きれば良いだけの話なのだが。

ふと、ようやく通る様になった風に遊ばれる楓の髪を見て、口を開く。


「そういやおまえ、髪伸びた?」

「んー、まあね。最近ロングも良いかなぁって」


楓とは幼稚園の頃からお隣さんをしているが、彼女はいつもショートカットが定番で、肩に付きそうな今の長さは新鮮だった。


「あ、分かった。結城(ゆうき)先輩にロングの方が好きって言われたんだろ。おまえ色気無いから」


そうからかうと、彼女が持っていた鞄を振りかぶった。上半身だけ起こしてベッドの上で胡坐をかいていた俺は、すんでの所で避ける。


「っぶねー!」

「うるさい。先輩は関係無いでしょ!………ただ、先輩が可愛いって言う芸能人にロングの子が多いから……ってのは、無い事も…無い、けど」


暴力と共に、だんだん小さくどもりながら伝えられた言葉。有り体に言ってしまえば単なる惚気だった。

結城先輩というのは楓の彼氏である。一つ年上で現役大学生、爽やかなスポーツマンだ。とにかく何をさせても完璧な人で、俺は心の中でスーパーマンと呼んでいる。

その結城先輩に楓が告白して付き合い始めたのは二月の末、先輩の卒業式からなのだが、七月になる今も二人の関係はすこぶる良好らしい。


「あーっ、もう!ほら、さっさと起きる!私はもう出るんだからね」

「はいはい。ったく、こんな早くに出てどうすんだよ」


面倒くさく思いながら俺がそう言えば、楓は少し躊躇いがちに答える。俺が失敗した、と気付く時、それは大抵すでに手遅れだ。


「…陸上部、顔出そうと思って。たまには、ね」

「……………なんか、ごめん」

「ちょっと、やだなぁ。そんな気にする事じゃないってば」


大袈裟なくらい明るく笑う楓に、罪悪感が募る。逆に気を使わせてしまったようだ。こういう時、自分の事をひどく子供だな、と感じる。もし俺が、結城先輩のように大人だったなら、楓にこんな風に気を遣わせる事も無かったのだろうか。

そんな風に考えてしまう所が、俺の一番子供な所なのだろうけど。


「それに、ほら。今は私、先輩と同じ大学に進学して、立派なアスリートを育てるって夢があるし。いつまでもそんな事気にしちゃいられないってね!」


にっこりと笑ってピースサインを掲げる楓の言葉は、嘘でも強がりでも無いのだろう。彼女は昔から自分の考えをしっかり持って、それでいてさっぱりと小気味良い性格をしているから。将来や未来へ、何の臆面も無く向き合える、立派な奴だから。


「んじゃ、私はお先に」

「りょーかい」

「直人」

「ん?」

「遅刻すんなよ」


悪戯っぽく笑って、楓が退室する。俺はそれから大きな欠伸を一つして背筋を伸ばす。これをしないと起きた気がしない。


未だ気だるい体を引きずって、クローゼットの中の箪笥から制服のシャツを引っ張りだす。耳当たりの汗が気になったけれど、これは寝癖を直すついでに水で流す事にしよう。ネクタイと一緒に掛けてある制服のズボンもハンガーから外す(一応ハンガーに掛けているものの適当に扱い過ぎて皺が酷い。夏休みに入る頃には、母親からお怒りを受けるかもしれない)。もう三年目になるけれど、毎年夏にまでネクタイを締めなければいけない校則が恨めしい。暑苦しい上に窮屈で仕方が無いのだ。そんな事を思いながら、ようやく指定の学生鞄を持ってダイニングへ向かう。すると、サラダを頬張る妹と目が合った。


「お兄ちゃん、髪型ヤバい。ダサい。キモい」

「うるせ。これが巷で今流行りの無造作ヘアだ」

「その発言がキモい」


何気に傷付く毒を吐いて妹は俺から興味を無くし、今週のトレンドを紹介しているテレビに視線を戻す。どうも最近口の達者な妹に敵わなくなった兄は、肩身の狭い思いをしながら渋々無言で食パンを一斤トースターに入れる。


妹の美琴(みこと)という名前は、琴の音のように繊細で美しい心を持つように、といった意味で名付けたらしいが、両親のその願いはまるで叶っていない。中学三年生の現在、我儘で偏屈で口の悪い小生意気なガキへと成長した。『お兄ちゃん』と俺の背を追っていたあの頃は可愛かったなぁ、と思い出に逃げてみる。時の経過は残酷だ。


今では体を動かす事よりも着飾る事や化粧を覚え、楓とは正反対の小娘に育っている。後、メールを打つ速度が異常に速い。それなのに、楓とは未だに仲が良いのだから、人間関係って不思議だな、と最近よく思っている。


「お兄ちゃん、また楓ちゃんに迷惑かけてたでしょ。楓ちゃんが彼氏に誤解されたらどうするの。お兄ちゃんのせいだよ」

「それは心配ない。あいつの彼氏はスーパーマンだから」

「はぁ?」


焼き上がったトーストと、サラダに掛けるドレッシングを持って妹の向かいに座る。この妹、ダイエットと称して何も付けずにサラダを食すのだ。どこが太っているのか、と問えば何故かサイテー、と冷めた目で見られた事がある。


「その『はぁ?』ってのやめろ。傷付く。つか、それならおまえが起こしてくれたら良いだけの話だろ」

「やーだよ。何であたしがお兄ちゃんを起こしてあげなきゃいけないの?」

「それはおまえ、ほら。家族愛的な」

「きもーい」

「きもいの多用も止めろ。そういう心無い言葉で傷付く男は沢山いるんだ」


そう言えば、うざーい、と返ってきた。こいつとは一度腰を据えてじっくり話し合う必要がありそうだ。というか、俺はそろそろ真面目にこいつにキレても良い気がする。


「お兄ちゃん、今日遅くなる?」

「んぁ、何で?」

「ママに聞いといてって言われたの」


そうだろうと思った。じゃなきゃ、この生意気な妹が俺の事を気にするはずがない。


「あー…今日はユイんとこ行くかな」


ふーん、と興味無さそうに相槌を打つと、美琴は自分の分のスクランブルエッグの皿をこちらに押し付けて来た。ちなみに、我が家ではトーストにスクランブルエッグとウインナー、サラダが朝の定番メニューである。


「何だよ」

「いらないからあげる」

「いや、おまえまたサラダしか食ってねえだろ。朝はちゃんと食え!」

「もー、お兄ちゃんうるさい!あたしが太ったら責任取ってくれるの!?」

「取れるかんなもん!別におまえ太ってねえんだから食え!むしろそれ以上痩せたら不健康だ!」

「うるさいうるさいうるさい!デリカシー無いなぁ!だからお兄ちゃんはいつまで経っても彼女出来ないんだよ!」

「……そ………それは関係無い、と思います」


思わず語尾が敬語になってしまう。これは俺が負けたということか。美琴は勝ち誇ったような顔でテレビに視線を戻した。

実際、こいつがそこそこモテるから余計に言い返せない。どうやら他人の目から見ると、この生意気な妹もそれなりに可愛いらしい。普段から身綺麗にはしているし、外では猫を被っているから、と予想される。

悔し紛れに、俺は全然関係ない話を振る。


「そういやおまえ、美容師になりたいんだっけか」

「んー?そこまではっきりとは決められて無いけど、どうせ働くならファッション関係が良いな」


俺の言葉に、あっさりと答えながらテレビのファッションチェックに見入る美琴。

美琴は小さな頃からキラキラしたものやお洒落が大好きで、それは年を追う毎に輪をかけていったように思う。今では将来の仕事として考える程だ。


俺は黙ってパンに齧りつく。

それが俺の、これだけぞんざいに扱われながらも妹に強く出られない、最大の理由でもあった。







俺が幼稚園に入園した次の年から住んでいるこの町は、海と山に囲まれて、と言えば自然が一杯のようで聞こえは良いが、実際はちょっとした民宿があるだけの、ただただ静かなだけの田舎町だ。

夏の時期だけ海水浴客で栄える、そういう町。

両親が思いきってローンで購入した部屋のマンションは、浜辺のすぐそばにある最寄り駅まで徒歩五分程度の好立地で、五駅先には俺の通う高校がある。


成績に見合うという理由で進学した、普通科の俺にとっては特筆すべき点の無い、極々平均的な学校だ。

ただし、普通科にとってはその程度の学校であるが、最近『体育科』というクラスが新設され、公立ながら運動部の大会成績だけはどれも良い所に食い込んでいるらしく、その為か近隣ではちょっとしたスポーツ校として有名らしい。


楓はそこの体育科に通っている。それが幸いして校舎内で顔を合わせる事は滅多になく、クラスメイト達に冷やかされるといった面倒な状況は避けられていた。中学時代は変に冷やかされて鬱陶しかったものである。


ふぁ、と欠伸をしながら駅から徒歩十五分の山の手にある学校の校門をくぐる。楓のせいで一本早い電車に乗れたので、比較的電車内も空いており、校門をくぐる生徒の数もいつもよりはゆったりとしていた。体育科の生徒のほとんどが早朝から朝練の為に登校しているので、この早いのか遅いのか微妙な時間帯に登校する者は少ないのだ。


三年五組の下駄箱の、向かって一番左端の上から二番目。その中から踵の潰れた上履きを取りだして、代わりにここまで履いてきた革靴を放りこむ。そこで、俺より一足遅れて下駄箱に姿を現したクラスメイトを横目に見つけ、声をかける。


安芸(あき)だ。はよ」

「……おはよう、秋山君。今日は早いのね」

「あー、叩き起こされたから」


いつもギリギリなのにね、とくすりと嫌味なく笑う彼女は安芸陽頼(あきひより)。何の因果か三年間同じクラスで、加えて秋山姓の俺とは出席番号の都合上、ずっと日直を一緒にしてきた。

秋山と安芸。呼ばれるとややこしい似通い方をした名字だ。


「朝が苦手なのね」

「まあ。安芸は得意な方?」

「んー…そうね。早起きで困った事は無いわ」


彼女は寝起きの悪い俺からしてみれば、信じられない台詞をさらりと言ってのける。シャンプーのCMにでも出られそうな、長く真っ直ぐな黒髪を揺らして微笑む安芸に、思わず羨望の眼差しを向けた。

そんな会話をしながら、結局並んで教室まで向かう。三年の教室は四階にあるのだが、朝から何故こんな重労働をせねばならないのだ、と時折苦々しく思う校舎の造りだった。


「でも、そんなに朝が弱いなんて大変ね。家は遠いの?早起きしないといけないのかしら」


そう言って、安芸は首を傾げて綺麗な瞳をこちらへ向ける。

安芸陽頼は美人だ。黒髪とは対照的に肌は抜ける様に白く、黒目がちな瞳を囲う睫毛は長い。すっと通った鼻筋に、形の良い唇はほんのりと色付いている。

少々切れ長な瞳が真面目な印象を与えるが、文句なしの美少女だった。性格はどちらかというと控え目。かといって暗い訳ではなく、話しかければ気さくに答えるし、成績も良いので女子同士ではよく頼まれごとをされたりしているらしい。主にノートの貸し借りで。だからと言って自分から行動するタイプでは無く、クラス内ではあまり目立った存在でも無い。


おそらく、男子で交流があるのは、日直が一緒な俺くらいだろう。正直、そんな美人の安芸なので、この事実は密かな自慢だった。くだらない事を考えているのは承知しているけれど。


「いや、家はそんなに遠くない。乗り換え無しで五駅」

「五駅?もしかして秋山君、最寄駅は海のそばの?」

「ああ、そこ。夏だけ人でごった返す例の駅」


問いかける安芸に、俺は苦笑して返す。普段は本当に住宅街が八割を占める静かな町なのだが、夏だけ大量に詰めかける海水浴客の為に最近改装された最寄り駅は、中途半端な設備の整い方をしている。

地元民としてはありがたいが、正直あの町には過ぎた設備だな、と思う。


「あそこって確か、背の高いマンションが二件建っていたわね」

「ああ、よく知ってるな。ウチそれの海側」


塾があの駅の最寄りなの、と安芸は微笑む。彼女の言う通り、俺の住む町には背の高さ故に目立つマンションが二軒、並んで建っている。と言っても十階程度の高さなのだが、他に何も無い田舎町の住宅地なので、それでも十分に目立っているのだ。俺の住むマンションは海側、向かいのマンションはすぐ背に山がある。


俺は安芸とは比較的よく話す方なので、こうして気さくな会話も珍しく無いのだが、今日の彼女はいつもより随分饒舌に感じた。普段は静かで落とす様な話し方をするが、今日は心なしか声が弾んでいる。


「ねえ。秋山君のお家って、もしかして七階だったり、する?」

「おお、すげえな。当たり」

「一人部屋?」

「何とか。高一の時にようやくだけど」


美琴が中学に入学するまでは同室だった。今思えば、あの頃の美琴にはまだ可愛げがあったように思う。

それを聞くと何が良かったのか、安芸はにっこりとした笑顔を俺に向ける。


「お部屋、もしかして窓辺かな?」

「ん?ああ、窓側だな。俺の部屋とリビングにだけベランダがあるんだ」


俺は得意になってそう自慢する。

元々は今の俺の部屋が子供部屋だったのだが、美琴と部屋を分ける時、あいつの方が客間となっていた部屋に移動した。美琴自身が一から部屋を整えたい、と移動する事を希望したのだが、窓があり、風通しの良い部屋を気に入っていた俺には嬉しい誤算だった。


「………そっか…………」

「ん?それがどうかしたのか?」

「ううん。良いわね、とっても素敵だと思うわ」


あまりに彼女が感慨深げに頷くので聞き返してみたのだが、安芸は首を横に振ると笑顔を見せた。

彼女が笑うと言えば『微笑む』という表現の方が似合いそうなものが多いので、その至極嬉しそうな笑顔に面食らう。

しかし、驚いたのも束の間、その後すぐに教室に辿りつき、特別何を話す事も無く、俺達は自然と自分の席へと分かれて行った。






読んでいただきありがとうございます。

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