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八月二十一日(金)





盆を過ぎれば夏休みなんてあっという間だ、なんていうのは割とよく聞く台詞だ。それは一風変わった今年の夏休みも例外では無く、気付けば夏の終わりまで十日ばかりとなっていた。それはつまり、安芸の父親の監視行動の終了も目前という事で。


しかし、一気に現実へと近付いてきたその決着の日に反し、安芸と過ごす時間は日に日に和やかなものとなっている。だから俺には前以上に、彼女が本気で父親の殺害行動などという馬鹿げた事をやらかすとは到底思えなくなっていた。もし本気だったらどうしよう、とは今も思うが、すぐに自分のその考えを否定する。


安芸はそんな馬鹿じゃない、と。

単純に、深く考える事が恐ろしいだけかもしれないけれど。



盆を過ぎた所でちっとも涼しくならない、相変わらず熱気に包まれた室内で構えていた双眼鏡を下ろし、振り返った安芸の様子が何だかおかしくて俺は首を捻った。

時間帯から考えてそろそろ彼女の父親が女の部屋を訪ねる頃だ。協定を結び直してからもこの瞬間ばかりは不機嫌さが目立っていたが、今日はどちらかというと怪訝そうな顔だった。


「今日は何かあるのかしら?父が訪ねると浴衣を着た女が出てきて、連れだってどこかへ出かけたのだけど」


その問いかけに、俺はすぐに安芸の疑問の答えを察した。


「ああ、花火大会だな。駅の近くにも結構屋台とか出てただろ?」


この辺の地域では、住民が里帰りから戻ってきた二十日前後という少し遅れた時期に、夏祭りと称して浜辺で花火を打ち上げる。小さな町の祭りなので規模はそれ程大きくないのだが、夏の唯一のお祭りという事もあってご町内の皆さまも気合が入っており、毎年それなりの騒ぎになる。


美琴と楓も今日はてんやわんやしながら浴衣を着て出かけて行った。美琴は真偽の程は定かではないが女友達数名と、楓はもちろん結城先輩とバカップルをしに行ったらしい。


「何と言うか、なあ?」

「何よ」

「………不用心だな、と」


それはもちろん安芸の父親に向けた言葉だった。彼女は以前にわざと俺と付き合っていると誤解させるような言動で自身がいつでも浮気相手の近くにいる、と父親に示していた。そんな、いつ娘と遭遇するかも分からない状況下で、おまけに夏祭りというカップルが集うイベントの日に浮気相手と外を出歩くなどという事は、不用心極まりない。俺からしてみれば、見つかっても良いと開き直っているのか、とさえ思える。


俺の順当な意見に対し、安芸はあからさまに不機嫌の色を濃くした。先程まであった怪訝そうな表情はすでに失せ、いつも通りの仏頂面が居座っている。

安芸は膝立ちの姿勢から腰を落ち着け、双眼鏡を置く。


「そんな馬鹿じゃないくせにね」


彼女はそう、小さく呟いた。忌々しそうなのに、何かそれだけでは無いモノを見つけた気がしたが、それが何かまでは分からない。探るようにその表情をまじまじと観察していれば、唐突に顔を上げた安芸と目が合った。


「ねえ、花火。私も見たいわ。行きましょう」

「行きましょうって、俺も?いや、たぶん知り合いすげえ沢山いるぞ。一緒にいるの見つかるとまずいだろ?」


先に述べた美琴や楓はもちろん、何しろ地元のお祭りなので俺達二人ともを知っている高校の同級生も多く集まっているはずだ。何度も不便さを嘆きつつも、未だにアドレスさえ交換せずに行っているこのストーカー的行為の徹底ぶりが全て無駄になる。と言っても、俺が彼女の塾に押しかけたので、果たしてこの徹底さがどこまで有効なのかは首を傾げる所だが。


「だって腹立たしいじゃない。私だって今年はまだ一度も花火を見ていないのにあの不貞者が花火を見るなんて、そんなの不公平だわ」

「不貞者って…」


相変わらず、自身の父親を貶める事に関して一切の躊躇いがない。苛立ちよりもどこか拗ねた顔を見せる彼女に、どうしたものかと考える。この様子では、ずるい、という思いだけで本気で今にも花火を見に出て行きそうだった。おそらく、彼女にとっては『不貞者のくせに』というところが何よりも重要なのだろう。


「あ」


安芸をどう宥めようかと思案していると、一つ名案が浮かんだ。


「安芸は花火を見られれば良いんだよな?」

「そうね、妥協点としてはそこね」


妥協という言葉が気にかかったが、そこには目を瞑ろう。花火を見るだけならば、良い方法があった。

その方法を試しに、家に残っている俺の両親に見つからないように気を付けつつ、俺達はひそやかに家を出た。










そうして向かった先は、以前に雨宿りをして協定を結び直した、あの非常階段だった。コンクリートの壁に囲われたここならば外から誰かに見つかる事も無く、花火の観賞が可能だった。やはり、外灯に群がる羽虫は鬱陶しいが、それはまだ許容範囲だ。


「確かに花火は楽しめそうね。こういう所を穴場と言うのかしら」


安芸は俺の右手に立って、すでに打ち上げられている花火を見上げながら、そう呟く。

マンションの七階に相当する階段から視線を下へ向ければ、祭りで賑わう多くの人達が見える。去年行った記憶では、あの場を照らすのは町内会で用意した幾つかの行灯のはずで、それが何とも良い祭りらしさを醸し出しているのが、この場からでも分かった。


「まあ、ここまで出て来たなら普通は下まで降りて祭りに混ざるからな。穴場だろ」


次々と打ち上げられていく花火を一心に見つめる安芸の横顔に視線を移して答える。あれだけ強く花火を見たいと主張したにもかかわらず、その顔は無表情だった。よくよく思い出してみれば、彼女は負の感情を込めた笑顔と余所行きの笑顔以外ではあまり表情を浮かべない。

雰囲気こそ柔らかくなったと感じていたが、そもそも浮かべる表情の絶対数が少ないのかもしれない。


「花火、好きなんだよな?」


空気を震わす破裂音と共に夜空に咲く火花をまた見上げ、何となくそう問いかけた。毎年の事だが、小さな町にしては盛大な花火に耳が馬鹿になりそうで、彼女の声が聞こえるように左側の耳を押さえて右耳だけで声を拾おうとする。


「そうね。毎年お盆は父方の祖父母の家に行って、その近くの花火大会に行くのが楽しみだったわ。今年は、私が受験生だから、祖父母の家に行くのも止めておこうという事になったけど………どうなのかしらね」

「何が?」

「それを言いだしたのは父なの」

「?それがどうかしたのか?」


憮然と呟く安芸に対し、俺は首を傾げた。娘の受験となると、そのくらいの配慮は何も不思議では無いと思うのだが。何しろ安芸は相当優秀なお子さんであるし、父親の監視なんて事をしているが、それに気付いていない父親からしてみれば予備校で必死に詰め込みをしている只中だ。


例年通り里帰りをしてモチベーションを崩す心配もあれば、受験生の親としてはそんな暇さえ勿体ないのではないだろうか。


「分からないなら良いわ」


俺の真っ当な疑問に対し、安芸は大袈裟に溜息をついた。そこには不満と言うよりは、呆れの方が如実に感じられた。


「いや、気になるだろ。そんな言い方されたら」

「………わざわざ私に説明なんてさせないで。殺意が湧くわ」


今度こそ純粋な苛立ちを込めてそう吐き捨てた彼女に、俺は慌てて口を噤んだ。安芸はその言葉の通りひどく憎らしそうな凄惨な目をしている。それは父親への恨みが一番正直に出ていた夏休み初期によく見かけた表情で、いらぬものでも呼び起こしてしまったかと己の軽率な発言を悔いた。


悔いたところで、やはり彼女が何を言いたかったのかは分からないのだが。

安芸は気を落ち着かせようとしているのか、もう一度大きな溜息をついた。俺はそれに無言で応えないように努める。


しばらく、気まずい沈黙を誤魔化す為に、花火を見続ける安芸に倣って俺も花火を見上げた。花火が夜空を飾るのはもちろん綺麗だと思うのだが、俺は咲き終わって火花が散っていく姿の方に何と無く心惹かれる。


おそらく、一番の目玉だったのだろう、ひときわ大きく華やかな花火が爆音と共に打ち上げられ、それが開くのと同時に先程まで花火に夢中だった安芸はくるりと反転し、花火に背を向けてコンクリートの壁に背中を預けた。花火はパラパラと散っていく。その後は数発小さな花火が上がるだけで、緩やかに夏祭りを終焉に導いていた。


「花火を見たあとは夏の終わりを感じるわ」


安芸は静かにそう言った。彼女の言いたい事が分かるような気がした。

花火は確かに綺麗なのだが、散っていく姿は色んな終わりを連想させて情緒の無い俺でも少々物悲しくなる。打ち上げられているときの興奮との落差もあり、なんとも惜しい気持ちになるのだ。遊び足りないという思いもあってなのだろうが、そうでなくとも『終わり』はただそれだけで切ないものだ。

花火は人を感傷的にさせる。それは俺も、きっと安芸も変わりなく。


「早く、終われば良いのにね」

「………俺は、終わらなければ良いのに、と思う」


夏の終わりは、安芸に答えを求めている。俺はそれを知る事が怖かった。

安芸は夏休みに入ったばかりの頃とも、それ以前とも様子が変わった。雰囲気が和やかになった、態度が軟化した。けれど、もしかしたらそれは、彼女が変わったのではなくて、俺達の関係が変わったのかもしれない。


俺はもう、安芸の事をどうでも良いなんて思えない。もし、もしも彼女が本気で計画している凶行を実行に移そうとしているのなら、俺は止めるべきだろう。けれどもう、十日だ。あと十日。ここまで来てしまった。引き返せないところまで。


彼女の父親は、まず間違いなく彼女の殺害動機を満たしているだろう。

その動機だけを求めてここまで走ってきた安芸を、俺は今更どうすれば止められるのか分からなかった。止めてしまったとき、それだけを生活の基準に置いている彼女がどうにかなるのではないか、とそんな風に考えてしまう。彼女の殺意と呼ばれるものが、生半可なものではないと俺は知っている。


俺は安芸と向き合う事から逃げていた。安芸が本気でそんな馬鹿な事をするはずがない、と自身に言い聞かせて。

それを自覚しても、今の和やかとさえ感じる時間を、壊す事が怖いなんて自分勝手な事を思う。あわよくば、何事も起きずに二学期が始まらないか、なんて都合の良い事を。

受動的な俺は、変化が訪れる事を忌避する。


こんな所まで届く潮風が頬を撫で、彼女の長い黒髪を靡かせる。夏の夜がまた一夜、終わろうとしていた。








読んでいただきありがとうございます。


バカップルは動詞です。



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