八月十七日(月)
安芸に避けられていた数日間の話を聞いてみた所、やはり彼女はタクシーを利用していたらしい。道理でいくら駅で張っていても捕まらないはずだ、と自身のあまり意味の無かった行動に少々脱力した。
かと言って、そうした行動を起こして諦めなかったからこそ安芸と再び向き合う事が出来たので、全く無駄とは思わないけれど。
「そこ、計算ミスしてる」
「へ?あー…」
「秋山は、公式は合ってるのにケアレスミスが多過ぎるわ」
呆れたように、安芸はわざとらしく溜息を吐いた。地味に傷付く。
再び協定を結んで以来、安芸は生活サイクルこそ変えなかったものの、雰囲気は随分とっつきやすくなったように思う。教室での控え目さも無く、夏休みからの冷やかさも無く、適度に踏み込みやすい空気。
以前は本当に、お互いにある程度の無関心を纏い共犯者であるように心がけていたが、今では普通に友人としての心地よい距離感が生まれている。異性の友人というものが楓以外では初めてなので、俺の勘違いという可能性もにわかに否定出来ないのだが。
そんな、安芸からどこか親しみを感じるようになった俺は、正直に彼女に『暇だ』という旨を訴えてみた。すると、父親が現われなかった事をすでに確認し、文庫本を読んでいた彼女は『たまには勉強でもしてみれば良いじゃない』と至極あっさりと答えた。結果、あまり気は進まなかったが、室内はちょっとした勉強会を思わせる空間になり、現在では理解の悪い俺が安芸に数学を教わる事になった。
分かっていた事だが、安芸は文系志望にも関わらず、理系科目に関しても俺より余程頭が良かった。
「俺はやっぱり勉強は苦手だ」
「苦手とかじゃなくて、単純に勉強量が足りないのよ」
「安芸は胸に刺さる事をあっさり言うな…」
「私は貴方にそう言える程度には勉強しているもの」
ごもっとも。反論の余地は無く、俺は黙り込んで唸る。確かに、自分でも少しくらい勉強をしなくてはいけない、とは思っていたのだ。まるでそんな態度が見られなくとも、一応は。
普段の俺らしく、だらしなく過ごしていても受かるはずの大学を志望しているのでそういった心配は無いのだが、世の受験生は今頃必死になって勉強しているのだろうか、と思うと妙な焦燥に駆られた。
まるで何の展望も抱かずに大学に行くのもどうかな、とお金のかかる事でもあるので就職を考えた時期もあったのだが、それを両親に相談した所、母に、それを見つける為に進学しなさい、と諭されてしまった。
『働く事も大人になる事も、これから嫌でもしなければいけなくなるんだから、それを許されている内に精一杯遊んで子供でいなさい』
というのは父の言葉。申し訳無い、と思うと共にひどく有難くて、一生頭が上がらないなあ、なんて思った。普段は本当に、色々と適当過ぎるおっさんとおばさんなのだが。
とりあえず、両親の老後の世話くらい看られるような大人を目指したいものだ。
「良いわ、こうなったらせめて秋山がケアレスミスを無くすくらいまでは、私も付き合いましょう」
「げ、いやいやいや。良いって。そこまでしてもらわなくても」
「貴方、面倒なだけでしょう」
俺のあからさまな表情から一瞬で内心を読みとった安芸は、冷やかに切り捨てる。その表情は確かに冷たいのだが、やはり以前とは少し違った親しみのようなものを感じて、勉強にはうんざりするがそれだけは少し嬉しくなる。
「父が女の部屋に行ったときだけ私も帰宅時間が遅いと勘付かれたくないから、父が現われなかった日も十時まではここで時間を潰させてもらいたい、とは以前から言っていたでしょう?だからね、要するに今日みたいな日は私も暇を持て余しているの」
安芸は有無を言わせない笑顔を貼りつけると、手の中のシャープペンをくるりと器用に回してそのペン先を俺に突き付けた。俺は突然の事に、少しのけ反る。
「これも協力の一つだと思って付き合ってちょうだい」
のけ反った為にもたれかかっていたパイプベッドで背中を打った俺は、この瞬間だけ再度協力を申し出たのは早まっただろうか、と少しだけ後悔した。
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