八月十三日(木)-3
バスタオルを持って外に出て行く事に関する言い訳を考えるのが面倒で、自宅で素早く着替えるとこそこそと家探しし、目当ての物だけを手にしてまたすぐに外へ出た。ずぶ濡れのスニーカーは脱ぎ捨てて、歩きやすくて結構気に入っているクロックスに履き替える。七階の廊下の突き当りへ真っ直ぐに進み、非常階段を目指す。基本的にエレベーターが大活躍しているこのマンションで、わざわざ利用する物好きもそうそういないだろうから、誰かに会う事はまずない。
非常階段の七階の踊り場で、安芸を待たせていた。
ちょうど上の階の階段が屋根になる構造で雨露はしのげ、この場所なら大声で騒がなければ滅多な事では誰かに見つかる事も無いだろう。マンションは箱のような形をしていて、その非常階段も壁となるコンクリートが囲んでおり、屈めば外からも見えなくなっている。ここから安芸の父親の浮気相手の部屋を覗ければ、俺の部屋より余程監視に向いているんじゃないか、と久しぶりにこの場所に来てそんな風に思った。街灯に虫が群がっているのはうるさいし気持ち悪いけれど。
その場所に着く頃には、夕立はもうほとんどやんでいた。安芸は濡れそぼった髪をしぼっていて、俺はその手にバスタオルを差し出す。
「ん、タオル。後着替え」
ついで、俺は明らかにサイズの合わないパーカーと半パンを彼女に押し付けて、階段に座り込む。
「何…?」
「何って風邪引くだろ。せめて上に着てろよ」
いくら真夏といえども、さすがに雨上がりの夜風は、濡れた体には冷たいだろう。
本当は美琴の服を一色くすねてこられれば良かったのだろうが、どうせ下着まで濡れきっているだろうと俺の持っている物で、安芸でも無理をすれば着られそうな物を探してみた。美琴の物でもさすがに下着は貸せないからなぁ、あらゆる意味で。
安芸は何故かしばらく俯いていたが、突然ぱっと顔を上げるとズボンだけ投げ返してきた。
「上だけで良いわ………ありがとう」
そう言って、彼女は階段を囲う壁にパーカーを引っかけ、手早くタオルで着衣の上から体を拭いていく。その表情がどことなく不満そうに見えて、俺は早口に言い訳する。
「言っとくけどそれ、ちゃんと洗ってあるからな。臭くはない…はず」
「別にそんな事言ってないじゃない」
「なら良いんだけど」
美琴に散々キモいウザい、と言われているので急に不安になった。あいつは思春期の少女らしい潔癖さで兄の尊厳を片っ端から踏みにじっていくのだ。普通、そういうのって女の子は父親に向けるんじゃないのか?と思うが、美琴の場合は何故か父親は大好きで、兄の事ばかり貶したがるのだ。可愛くない。
「ちょっと意外だっただけ。秋山って面倒見良いのね、妹さんがいるっていうのにも納得したわ」
「そうかぁ?」
その妹には常にうだつが上がらない、とダメ出しばかりされているのだが。
「ええ、私は一人っ子だからちょっと羨ましいくらい」
安芸はそう言って、壁に掛けていたパーカーとタオルを交換すると、それを着込む。隣に座ろうとするので、スカートが汚れるからタオルを下に敷けば良い、と言えばほらそういうとこ、と極自然に微笑まれてちょっと心臓が跳ねる。
夏休みに入ってからはもっぱら殺伐とした彼女と一緒にいたので、そんな風に無防備に笑われると落ち着かない。その顔が俺を遠ざける為のものではない事も、つい三十分ほど前とは違う雰囲気から分かる事もあって。
「真野さんがいるからかなって思ってたけど」
「あ?安芸って楓の事知ってんのか?」
「話した事はないけどね」
ふぅん、と相槌を打つ。体育科は各学年一クラスだけ、と人数の少なさから目立ち、楓も陸上部に在籍していた頃は何度か壇上に上がって表彰されていたので、安芸が知っているのも当然かもしれない。現に、おそらくだが結城先輩の事は全校生徒が把握していた。
楓と付き合い始めたのは先輩の卒業後の話なのに、何故かそれから一週間足らずで結城先輩に彼女が出来た、という噂が瞬く間に広がったくらいだ。
そこであ、と今更な事に気付く。
「そういや、今日は親父さんの監視は良かったのか?」
安芸は意外な事にあっさりと頷いた。
「ええ。今日は水曜だし、どうせ昨日一昨日も塾の後は真っ直ぐ帰っていたしね。父の生活サイクルはもう分かっているから、帰宅時間で女の部屋に行ったか行ってないかだけは確認出来たし」
「え、って事は俺の今日の粘りはどっちにしろ無意味?」
「無意味って訳では無いけど……」
安芸は妙に言い渋って、言葉を濁す。それはちょっと肩を落としている俺を気遣うというより、単に言いにくそうな様子だった。
「秋山の行動を無意味とは言わないけれど、私があなたを頼ってここで監視する事は、無意味と言えば無意味でしょうね。父の帰宅時間であの人の行動は知れるもの。だけどそれってね、もっと前からそうだったのよ」
「どういう意味だ?」
「正確さでは劣るけど、父の生活サイクルに予想が立った時点で、本来なら帰宅時間にだけ気を付ければずっと監視を続ける必要なんて無かったのよ。だけど、私はそうしたくなくて、」
安芸はそこで一度言葉を切る。俺は黙って続きを促す。彼女は少し不機嫌そうに視線を逸らして、それからようやく言葉を続けた。
「だけどそれって、あなたに甘えてたのよね。だから、私はもう秋山を巻き込むのはやめよう、って思ったんだけど…」
「何で?」
「え?」
何と無く不思議に思って問いかければ、安芸は予想以上に驚いた顔をしてきょとんと声を上げた。その表情があどけなくて、数日会わない内に随分ととっつきやすくなったものだ、と改めて思う。人ってこんなに短期間でこうも変わるものなのだろうか。
「だから、必要無くても監視を続けた理由」
俺の記憶にある安芸なら『執念深さ』と言われれば納得がいったが、夏休み以前の安芸と上手く交ざり合った雰囲気の今目の前にいる彼女がそうしたのには、何か理由があるのだろうか、と思った。
安芸は付け足された言葉を聞いて不機嫌そうに眉を寄せたが、冷笑が似合っていた以前のように本当に不愉快そうにしたが、それでも視線を逸らしたまま、特別語気を荒げる事も無く答えた。
「言いたくないの」
そう言われてしまえばこちらも黙るしかない。言いたくない、という意見は時折どんな理屈よりも追求を許さないものだと知る。
「じゃあ、質問変更。必要が無くても安芸は、今も俺んとこで監視続けたいか?あ、俺への遠慮とかおまえの言う甘えとかは考えずに」
俺が指差して問いかけると、安芸は虚を突かれたようにその指先を見詰め、しばらく視線をさ迷わせた後、ようやく溜息と共に返事をした。
「希望だけ言うならそれが理想形ね」
「なら良いよ。協力する」
彼女の言葉に俺は即答した。あんまりに速い返事の何が不満だったのか、安芸は眉を怒らせて睨んで来る。何も考えてない、いい加減な返答に聞こえたのだろうか。俺にしては結構悩んだ結果なのに。
「せっかく、冷静になって考え直したのに、あなたはそんなに身を滅ぼしたいの」
「そういう訳じゃないけど」
「何度も言うけど私は本気よ。本気で父を殺す気があるからこれだけ行動しているの」
「それは一応、分かってる」
「私は警察から逃げ切れるとも思ってない。捕まったら秋山だってただじゃ済まないわ」
「だろうな」
「あなたの家族も白い目で見られるんじゃないかしら」
「……それはちょっと困るけど、」
俺はそこで一度言葉を切る。
俺は決めた。いつもいつも、主体性が無くて何かを選んで何かを捨てる事も嫌で苦手で、つまりは優柔不断で、情けないほどいい加減で、人の意見に流されてばかりの俺が、ちゃんと決めたのだ。
「良いよ。それでも最後まで安芸に付き合う」
安芸はまなじりをつり上げて語気を荒げる。
「あなた、私の言ってる事ちゃんと分かって、」
「分かってるよ。いや、ちゃんとは分かってないかもしれないけど、一応分かってるつもりでいる」
言葉を遮れば、彼女は少しだけ拍子抜けた様子で勢いを落とす。こちらを見上げる瞳には困惑が浮かんでいた。
「俺さー、いっつもその場のノリだけで適当に生きてて、考えるの苦手で、でもちゃんと考えた。結果、考えるの面倒になった。もしかしたら、今不用意におまえに協力した事を後悔したりとかするかもしんねえけど、そういうの考えるのも疲れた。後悔って後でするもんだろ?なら、俺はここで深く考えもせずに選んだ事も、適当人間らしくその時になって後悔しようと思うから、今はこのノリだけでおまえに協力するよ」
人はそれを丸投げと言う。未来の自分へ。
「だから、後々悔やんでる俺を、精々馬鹿だと笑ってくれ」
少しだけ見栄を張って、自信を演出しようと試みる。安芸がそれに騙されて流されてくれるように。
彼女は俺の言葉に呆れたのか、驚いて目を見張ると大きな溜息をついた。肩を落とす姿から察するに俺の演出に騙されてくれた訳ではなく、見下げ果てた、という様子だが。
「……あなた馬鹿よ」
「おい。今じゃねえよ」
「第一それ、全然考えてないって事じゃない」
「………そうとも言うな」
そうとしか言わないわ、ともう一つ溜息を吐いて、安芸はようやく笑みを見せた。冷笑と微笑の間のような表情で、滑らかな口調で彼女は言った。
「改めてお願いします。ありがとう」
それに、思わず口角が上がるのが自分でも分かった。人が見ても、おそらくちょっと冷静になった自分で見ても馬鹿だな、と思う事だろうけれど、意地を張った甲斐を手に入れた。それは思っていたより余程、清々しい気分だった。
どれだけ馬鹿でも、一度関わったからには最後まで見届けようと思う。後悔する時間は九月からいくらでもあるのだから、今は考えなくて良い。
こうして、俺は安芸と改めて協定を結んだ。
読んでいただいてありがとうございます。
ここからはもう、ラストに向かってサクサク進みます。




