八月十日(月)―夜
俺は安芸のメールアドレスを知らない。電話番号も同じく。それは彼女の方も同じで、理由はやっぱり少しでも繋がりの痕跡を残さない為で、だから俺は『今日は行けない』という趣旨を安芸へ伝える手段を持たなかった。
そして今、泣き疲れて眠り、目を覚ました楓を見送ったその足で駅に向けて走っていた。こんな風に必死に走るのなんて、いつ以来だろうか。
現時刻は午後九時を回っており、安芸はすでに怒って帰るか別の方法で父親を監視しているだろうが、それでも一応待ち合わせ場所に向かう。
駅の脇にある自転車置き場を通り抜け、駅の裏側へ回る。駅の裏には海があり、コンクリートの短い階段を下りれば、すぐに砂浜が広がる。安芸はいつもその階段の影で迎えを待っていた。必ず俺より先に着いて、御苦労さま、と顔を上げた。
そこに今も、蹲った彼女がいた。
「安芸!?」
俺は思わず声を上げる。本当にまさか、今も待っているなんて思わなかった。父親の監視を最優先に考える彼女の性格から考えて、使えない俺なんて早々に見切りを付けるだろうと思っていたから。何より、それが一番楽な手段だろうが、一つ二つ妥協すれば必ずしも俺の協力を得る必要なんて無くなる。
安芸は俺の声にぴくりとだけ反応して、伏せていた顔をゆっくりと上げた。月や星が出ているとはいえ、すっかり夜の空気に染まった空とちょうど駅の影が落ちるその場所の中では、彼女の白い肌が余計にぽっかりと浮かんで見えた。
「ごめん!ほんとごめん!え、ずっと待ってたんだよな?って事はえっと…二時間以上?うあぁあああ、マジごめん!」
俺は背筋を這い上がる罪悪感に対し素直に謝罪の言葉を述べた。申し訳無くて仕方が無い。夏だから風邪を引くって事は無いだろうけど、こんな時間に女の子をこんな薄暗い場所で待たせていたと思うと、二時間前の自分を全力で叱咤したくなった。おそらく、例え時間が戻ったとしても俺は同じ事をするのだろう、と予測しつつも。
それでも、申し訳無い気持ちだけは本物だったので、ただひたすらに謝罪の言葉を述べた。人は罪悪感が規定値を振り切ると『ごめんなさい』とそれしか言えなくなる事を、身を持って学ぶ。
自業自得の謝罪を述べながらあまりの罪悪感に軽くパニックになっていると、冷たく興味に欠けた瞳で見られるかと思いきや、安芸は予想に反してぼうと呆けたような表情をしていた。そのままの様子で、口を開く。
「………今、何時……?」
「え、あ、九時二十分だけど」
もしかして、蹲っていたのは眠っていたのだろうか。口調もどこかぼんやりとしていて、少し掠れている。いつものあの、冷たい『キレ』が無かった。
俺の答えを受け取って、安芸は目を閉じてうつらうつらと二度頷く。やはり寝ていたようだ。その行動も鈍く、頭が眠気に支配されているのが表情から見て取れた。
安芸はまたゆっくりと瞼を上げて、しかし眠気は去り切らないのかどこか虚ろな表情でふらふらと立ち上がる。危なっかしいその動きに思わず手を差し出しかけたが、彼女は階段に手を付いて体を支え、座り込んでいた為に膝丈のスカートに付いてしまった埃を払った。
中途半端な所で止まった手が、俺の格好悪さを増長させる。
「………帰る」
立ち上がった安芸はぽつりとそう呟く。俺を見る事もなく素っ気無く彼女は顔を背け、鞄を持ち上げて肩にかける。俺はそれにどう反応して良いか分からず、ただ謝罪の言葉を繰り返した。
「えっと、ほんとに今日はごめん。あのさ、今度何かお詫びをさせてくれ。あ、腹減って無いか?ファミレスくらいなら奢れるし…」
「良い」
安芸は端的にそう言って、俺の言葉を遮った。ふらふらとしていた体を、ようやくいつも通りの背筋のピンと伸びた立ち姿に戻して、そこで彼女は今日初めて俺の顔を振り返った。
その表情はいつもと変わらず、冷淡な無表情。
「一応聞いても良いかしら。遅れた理由は?」
「……………………………」
「言えないの?」
「…………ごめん」
理由を説明しようと思えば、楓の事も話さなくてはならない。理由には確かに楓が含まれるけれど、遅れた事実と直接関係はない。俺が勝手にその場から動かない事を決めただけなのだから楓は関係ないのに、理由を説明しようと思えば楓の事を無しには語れず、楓に非が無い事を正確に説明出来る自信が無くて、俺には謝る事しか出来ない。
安芸は思ったよりもずっと淡白に、冷たさすら感じられない調子ですっと俺から目を逸らした。
「良いわ、別に。怒ってないわ」
「怒ってないって、でも…」
「それと、協力ももう良いから」
続けようとする俺の言葉を遮って、安芸はあまりにあっさりとその言葉を告げた。
「え、もう良いって、な、にが…えっと」
「父の監視の協力。もう良いわ。一人でする。貴方を巻き込まない」
「…それは、っと、俺がすっぽかしたから?」
「違うわよ。怒って無いと言ったでしょう」
安芸はその言葉通り、涼やかな横顔からはまるで怒りを感じさせない。ただ淡々と、自身の中で下った決定事項を突き付ける。安芸は肩に掛けた鞄の持ち手を握って、ずり落ちないように持ち直した。
「そもそもね、誰かに協力を仰ぐ事が間違っていたのよね。『こんな事』一人ですべきだもの。それをね、さっきまで貴方を待っている間に思い出していたの。私はね、多少の不都合も融通させて全てを一人でするべきだった。謝るわ」
今謝るべきは俺の方なのに、安芸は彼女なりの結論を下して、訳が分からない俺に軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、『秋山君』。変な事に巻き込んだわ」
安芸はそう、教室内での呼び方で俺を呼び、けれど夏になってから知った無表情で俺に謝罪した。それはやんわりと突き放す言葉だと、肌で伝わる。
「私はあなたに甘えていた。あなたなら私を助けてくれると、そんな幻想を抱いていたのかもしれない。迷惑を掛けた自覚はあるわ」
安芸は顔を上げる。砂埃で乱れた髪は緩やかな風になびき、片手で押えて俺を真っ直ぐに見上げた。夜の闇の中でも薄ぼんやりと浮かぶ白い肌、それとは対照的な夜色をした瞳が、俺から言葉を奪う。
「今までありがとう。あなたはあなたの夏休みを楽しんでね。そうして運が良かったなら、また二学期に会いましょう」
最後にそれだけ告げて、何も言えない俺の横を通り過ぎ、安芸は淀みない足取りで去って行った。ローヒールがコンクリを鳴らす。コツコツコツ。彼女は駅の構内へ向かい、きっと今から自宅の最寄り駅までの切符を買う。そんな風に安芸の行動に予想が付いた俺は、簡単に彼女に追い付く事が出来ただろう。けれど、俺は呆然とその場に立ち尽くして動けない。
俺は単なる好奇心で安芸に協力していた。その好奇心も最近では薄れていた。それに、流石に殺人の片棒を担ぐのはごめんだ。好奇心すら無くしかけていた俺に、安芸に協力したい理由なんてもう一つもない。だから、こうして彼女に協力を断られても、俺が困る事なんて何一つ無いはずだった。
それなのに、先程まで彼女が蹲っていたその場所を見つめ、遣る瀬無い気持ちになるのは何故だろう。
こうして、八月一杯を目途に計画されていた安芸との彼女の父親の素行調査は、八月上旬にして呆気なく終わりを迎えたのだった。




