表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/23

八月十日(月)―夕方




そのまま由井の家に泊まって、朝八時に目を覚ましたがすでに由井は家を出た後だった。また今日も変わらず、アルバイトに勤しんでいるのだろう。

こうやって俺が由井の家に転がり込み、本人不在だろうが構わず居座るのはもう由井の家族にとってさえ普通の事で、まだまだ寝足りなかった俺は二度寝を開始し、由井の母に勧められて昼食をご馳走になり、ギラギラと存在を主張する太陽の下で自転車をこぎたく無かったのでそのまま由井の部屋のCD、MDを一通り聞いて、俺は午後五時半頃になってようやく家に帰り着いた。この季節は五時でもまだ明るいけれど、心なしか多少は日光も和らいでいた。


昨夜はダラダラ話しながら力尽きて寝たので、これから風呂に入って六時半になったら安芸を迎えに行こう、と考えながら自室のドアを開ける。汗臭いなぁ、と自分にうんざりした所で俺は戸惑いの声を上げた。


俺は部屋を出る時、確かに戸締りをしていたはずなので蒸し風呂状態を予想していた。その予想は外れ窓とカーテンは開け放たれ、潮の香りのする涼風が室内の空気を浄化していた。

しかし、俺が驚いたのはそんなどうでも良い事ではない。

楓が、俺のベッドの上で微動もせずに壁の方を向いて座り込んでいた。


「……何、してんだよ」


俺の真っ当な問いかけにも、楓は背を向けたまま黙りこんで答える様子はない。お互い中学に上がった頃から、例えば俺を起こしに来るなど、何か用事でもないとお互いの部屋を行き来する事は無くなっていたので、自然と違和感を覚える。

それに、こちらに背を向けて膝を抱えるその姿は、何か言いたい事があるのに言えなくて、それでも何かを伝えたいときの、楓の小さい頃からの精一杯の自己主張だった。


「何かあったのか?」

「…………………………………」

「………俺が何かした?」


少し考えてそう尋ねれば、楓はそれにはしっかりと首を横に振った。しかし、そこから何か言葉を続ける様子は無い。言いたくないのだろうか。

無理に聞き出そうとして言い合いの喧嘩をした事だけは何度もあったので、深く追求する事はしない。そうやって何度も楓を傷付けたし、俺は自己嫌悪に陥ってきたから。


そういえば、このパターンは二度目だ。昨日は美琴に爆弾を投下されたけれど、一体今度は何なのだろう、と戦々恐々とする。

せめてこの痛い沈黙を少しでも誤魔化せないかと、苦し紛れに電源を入れたコンポからは、アコースティックギターと由井の歌声が聞こえた。夏休みが始まる前から入れっ放しになっていた、夏の日々を綴ったバラード曲。けして後ろ向きな歌ではないけれど、今この場でだけはこの静かなメロディーが余計に場を暗くしてしまいそうで、もう少し明るい曲をかけようかとCDラックを漁った。すると、その時になってようやく、楓はぼそりとくぐもった声で口を開いた。


「………今日、陸上部手伝いに行って、その帰りに、ね…会ったの」

「誰に?」


俺の問いに、楓は再び黙りこんだが、すぐに意を決したように慎重に口を開いた。その顔は、両膝に埋められている。肩に付くほどになった髪が流れ、うなじが露わになった。


「雅臣先輩。………女の人と一緒だった」


その言葉を聞いて、俺の思考は凍りついた。体も同じく固まる。そして、それが氷解し、次の瞬間には頭に血が上った。


「何だよ。それって浮気?」

「違うっ!先輩はそんな事しない!」


楓はか細い声で、それでも強く言い切った。その言葉には確かな結城先輩への信頼があったけれど、その時の俺にはただ単に庇っているように聞こえた。何故なら俺は、浮気が事実なら、きっと問答無用で結城先輩を殴りに行っていたから。

楓は芯のしっかりした、強い人間だ。そんな彼女をこんな風に哀しませるなんて、許される事じゃない。


「…私に気付いて、先輩はいつもみたいに笑ってくれた。その女の人も、大学のサークルで知り合った人だって、さっきたまたま道でばったり会ったって、あたしの事もちゃんと彼女だって紹介してくれた」

「それならどうして、おまえはそんなに落ち込んでんだよ」


俺は怪訝に思って、楓の背中に目を向ける。ぞんざいな口調になってしまったが、構わない。すると、先程まで微動しなかった楓の背が弱弱しく震え始めた。


「…っ私ね、ちゃんと分かってるんだよ?先輩は浮気なんてしてないし、やましい事なんて無いから私の事を紹介してくれたのも、ちゃんと分かってるんだよ?先輩の事を、ちゃんと信じて、るんだよっ?」


途中から、楓の声が不自然に掠れてどもる。震える背中と合わせてああ泣いているんだ、とすぐに分かったけれど、俺はその背中の慰め方を知らない。

俺がまだここに越して来たばかりで周囲に馴染めなかった頃、色々と気に掛けてくれた頼りがいのある幼馴染の背は、いつからこんなに小さくなってしまったのだろう。


「………っ……っそれでも、嫌だとっ、思った、の。すごく、すっごく、嫌だと思ったの。雅臣先輩が、他の女の人と、歩いてるだけで、すっごく嫌だった……っ!」


楓は絞り出すようにそう言った。鼻をすする音がする、俺はその場に立ち尽くして、楓の言葉を聞いた。


「醜いよっ、私…こんな、その程度の事で、こんな嫉妬して、醜いよ。そんな、つもり、無かったのに。前は、そばにいられれば良かったのに、どんどん、どんどん欲深くなって、醜いよ。汚いよ、こんな私、嫌だよっ、嫌われちゃうよっ……苦しい、よ…………」


楓はきっと、泣いている。本当は声を上げてしまいたいだろうに、声を殺して泣いていた。それでも、こちらを振り返る事だけはしなかった。変わらず背を向けて、その肩を震わせている。

醜く無いよ、その程度で嫌っちまうような男ならこっちから捨てちまえ、嫉妬は好きだからするんだろ?おかしく無いよ、楓は醜く無いし何も間違ってない。


励ましの言葉はいくらでも浮かんでくるのに、その中のたった一つさえ俺は口に出来なかった。俺が励ましても、きっと楓は笑うだけだから。ありがとう、と無理して笑うから。

結局俺は、無力だった。楓が一番辛かったあの時も、彼女は俺に心配を掛けないように無理して笑って、それを慰めたのはやはり結城先輩だった。


不意に、安芸の事を思い出す。すぐに七時はやってきて、彼女はいつも通り冷淡な表情で俺の迎えを待っているだろう。俺は迎えに行かなければならない。協力すると約束したのだから。


「ごめんね、直人。こんな弱音吐いて、ごめんね」

「謝るなよ。遠慮なんかしたら、それこそ怒る」


けれど、こんな弱り切って、きっと一人で部屋にいる事も出来なくて堪らずここまでやって来た楓を、どうして一人に出来る?邪険に帰れと言える?

言える訳、ない。楓は大切な幼馴染なんだ。出来ればいつだって笑っていて欲しい、大切な幼馴染。泣かれるくらいなら、鬱陶しいくらいの惚気話を延々聞いている方がマシだ、とそんな風に思うくらい大切なんだ。


俺は楓を、放ってなんておけない。


ごめんな、と心の中で安芸へ謝罪して、俺は楓が泣きやむまでせめてそばにいようと、そう決めた。







読んでいただき、ありがとうございます。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ