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魔術師の選択

魔術師の選択 -想いの断片-

作者: ゆきいろ

【1 半歩先に君は居る】



 口の中に拡がる苦さに対して、内心舌を出した。


 手に持っていた珈琲カップを僅かに下げ、対面の相手に気取られないように、カップの中でたゆたう黒い飲み物を見遣る。


 変哲もない、ただの珈琲である。


 普通の珈琲と比べて、より苦いエスプレッソを選んだ訳でもなく、ただのブレンド珈琲(メニュー表まま)を選んだはずだった。


 ──でも、苦い。


 樹の口には、どう頑張っても合わない飲み物だった。


 ちらり、と目の前を見遣る。


 樹の視線に気付いたのだろう。セミロングの髪の少女が、優しく笑った。黒い髪の間から覗く白い耳が、鮮やかに映る。えくぼが少しばかり幼く見え、好印象を与えていた。


 二塚あかり(ふたつか あかり)。


 歳の頃は樹とそう変わらない、同級生である。


「にがい?」


 心の中をずばりと当てられた。


 正解だったが、素直に肯定するのは、なんとなく面白くなかった。


「別に、そんなことない」


 強がりで、もう一口含んでみる。口の中に、先程よりも強く苦さが滲む。カップを持つ手が、少しだけ力んだ。まるで、一口一口飲んでいく度に苦さが増えていくよう。


 正直なところ、これ以上同じモノを飲むことは出来そうもなかった。


 このままカップを置いておこうかとさえ考える。


「わたしは、お砂糖とミルクを入れるね」


 同じモノを頼んでいたあかりが、テーブルの脇に置いてあったシュガースティックを手に取る。封を切り、中身を珈琲の中にすべて入れた。砂糖を入れ終えた事を確認すると、そのままウェイトレスが置いていった小瓶を持ち上げる。蓋を開け、中身が白いことを確認すると、珈琲の上に少しだけ垂らした。


 黒一色だった珈琲に白が混ざり、まだら模様を描く。


 とっつきにくそうな黒が、どこかマイルドになった瞬間だった。


 あかりは一口それを含み、うん、と頷く。


「こっちの方が美味しいよ」


「そう、なんだ」


 樹は相槌を打って、少しだけ首を傾ける。


 そういうものなのだろうか。


 珈琲自体、樹にとって初体験である。喫茶店にあるメニューが良く分からなくて、咄嗟に目の前に座る少女と同じモノを頼んだのだった。喫茶店のメニューを見るのさえ、初めてだった。メニューに書かれた内容と実物のリンクが上手く行かないまま、しかし、それを知られるのを疎んだ結果が現在いまである。


 今日初めて逢った少女に対しての、背一杯の背伸びの結果でもあった。


 こっちの方が美味しいと言われて、拒む理由はなかった。


 それでこの苦い飲み物が、少しだけでも飲みやすくなるのなら儲けモノである。


 樹はあかりに習って、シュガースティックに手を伸ばす。その瞬間、あかりの表情に微苦笑が混じったことには気付かなかった。シュガースティックの封を切り、中に入っていた砂糖をすべて黒い液体に注ぎ込む。テーブルの上に置かれた小瓶を取り、こちらの中身もすべて珈琲の中へ。黒一色だった色は塗り替えられ、白に近い色に変わった。


 その状態で、一口飲む。


 ──さっきよりは、苦くない。


 飲めなくはないが、少しだけまだ苦みがあった。


 ──もう少し砂糖を入れたら甘くなるかな。


 再度、樹はシュガースティックに手を伸ばす。二本目のそれも、珈琲へと注ぎ込み、中身を空にした。さらに一口飲む。


「良い感じ」


 激甘だった。


 これならば普通に飲める、と少しだけ自信を付ける。


「それは良かった。良い感じで寛いできたところで、わたしのことは知ってる?」


 何気なくといった風にあかりは言った。


「名前ぐらいは」


「同じ委員会に所属しているのに、名前だけなの?」


 言葉の中には批難の色は一切無い。僅かに寂しげな表情だけが映っていた。


 樹はあかりから視線を外し、眉根を寄せる。──申し訳なさ半分、仕方ないじゃないかという開き直りが半分だけあった。


「あんまり接点なかったよ」


 しばらく見詰められて、あかりは肩を竦めた。


「……そうね。その通りかもね。自己紹介から、始めましょう」


 持っていたカップをテーブルに置く。


「わたしは二塚あかり。あなたと同じ図書委員会に所属する同級生。趣味はカフェ巡りとか、こういうお店でケーキを食べたりするのが好き。運動ならバドミントンね。始めたばかりで上手ではないけれど、楽しんでる。これぐらいで十分かな。君の番だよ」


 うん、と樹は頷く。


「藤間樹。えっと──……」


 名前だけは同じように名乗ったものの、何を話せば良いだろうか。


『最初の』自己紹介の時のように敬語を使うような愚は犯さなかったが、自分を紹介できる要素をすぐには見付けられなかった。


 他の誰かとの特異点をあげることは出来る。


 例えば、7年前に記憶喪失となり、それ以前の想い出が一切ないこと。


 例えば、『魔術』という夢物語にも近い技術を継承した、『魔術師』であること。


 しかし、それらは敢えて秘匿すべき情報ではないとしても、素直に言っても信じる者の方が稀なものだった。常識は手触り以上に堅固であるし、何よりも言い触らしたところで樹にメリットはない。下手に信じられて、頼られる方が困る。


 では、どのような紹介が出来るだろう。


 むぅう、と唸りながら、樹は必死に言葉を探した。


 簡単なはずの自己紹介は、難しかった。ある程度の台詞は用意しておくべきだ、と心に刻んでおく。今更感が溢れる教訓だったが。


 眉間に皺を寄せたまま、時計の秒針が一周回りきる。


 それを眺めつつ、あかりは苦笑する。カップを再び手にとり、少女はさらに時計の秒針が一回巡る様を眺めきる。


「難しく考えなくて良いよ」


 助け船を出すつもりで少女は言った。


「あなたのことを教えてくれれば良いの。そうね、例えばケーキは好き?」


 問われて、樹は頷く。


「好き。甘いから」


「ケーキ以外の甘いものはどうかな? 例えばカステラが好きとか、柏餅が好きだとか」


「どちらも、食べたことがないから何とも言えない」


「そっか。じゃあ今度は好きな場所はある?」


「好きな場所?」


「お気に入りの場所。小学校とか。公園とか。自分の家でも良いけれど。なんとなく好きで、心地よい空間。わたしにとってはカフェがそうだけれど、あなたはどこ?」


 好きな場所、と口内で呟く。


 夜。暗闇。木々。脳裏にまず浮かんだのは、7年前に樹の手を引いたひとと一緒に見た夜空の風景だった。あれは月のない星月夜だっただろうか。文明の灯りが届かない、自然の中での星空鑑賞は、当時何もわからず脅えていた自分を癒してくれていた。


「星が見える場所は好きだよ」


「星?」


「うん、なんでか分からないけれど、夜空に星が見えると落ち着くんだ」


 7年前もそうだった。手を引かれ、夜空を見上げることで落ち着いていた。


「好きな場所って、そういうものだと想うよ。プラネタリウムとか、行ったことはある?」


「ないよ。近場に、そういうところが無かったこともあるし」


「確かになかなか見当たらないよね。でも、そうだね。ここからだったら、ちょっと電車を使うけれど、行ける範囲にプラネタリウムがあるんだよ」


「そうなんだ? 一度、見てみたいな」


 甘くなった珈琲を手に持ちながら、樹が微笑むとあかりも屈託なく笑った。


「お勧めするよ。リニューアルされて、綺麗なところだから」


「行ったこと、あるんだ?」


「実はまだ」ちろり、と少女は舌を出した。「リニューアルされる前に、足を運んだことがあるだけなんだ。新しいのは、ホームページの写真でしか見てないの」


「写真越しでも綺麗さが分かる?」


 そうだね、と少女が言った。さらに、少女が再び口を開きかける──刹那。


 こん、と隣の窓が叩かれた。


 音に気付き、窓を見遣る。


 窓を挟んだ店の外に、見知った顔が並んでいた。一番先頭で窓を軽く叩いたであろう人物が、同じ学校のクラスの中で良く話すひとだった。


 男女混合グループの中で、樹が良く知る人物でもある。


 新城当麻しんじょう とうま


 今回、樹を遊びに誘った張本人であり、あかりと喫茶店に入ることになったキッカケを作ってくれた級友。


「もう、みんな買い物終わったみたいだね。時間切れかな」


 あかりが、やや名残惜しそうに言って、立ち上がる。


「外に出て、みんなに合流しようか」


「そう、だね」


 樹も立ち上がり、テーブルの端に丸めてあった伝票を手に取る。その紙を開かなくとも、中身の金額は覚えていた。樹がすべてを払えない金額でもない。


 レジへと足を進める。


「あ、お金、幾らだっけ?」


「いい。……こうして付き合ってくれたし」


 喫茶店に入ろうと提案したのは、あかりだったが、樹のことを少なからず気遣った為なのだと推測するのは容易かった。


 外で待つ彼等のウィンドウショッピングの話に付いていけなく、居心地の悪さを感じつつあった樹を新城と連携して引っ張ったのである。新城はウィンドウショッピングを継続したが、あかりは不満の色さえ覗かせず、樹とこうして喫茶店に居てくれた。


 人生経験が足りないとはいえ、その程度が分からないほど機微は疎くなかった。


「……気にしなくて、良いんだよ?」


「お礼のつもり、なんだけれど」


 あかりは一拍を置いて。


「ありがとう。ごちそうさま」


 ん、と樹は頷く。


 視線は頑なにレジへと向け、あかりの方を向くつもりもなかった。


 あかりは、気付いていて、くすりと零す。元々白い樹の頬が朱を帯びている。若干の恥ずかしさはあったが、照れが入っていたことも否めなかった。


 お釣りを受け取り、喫茶店の外へと向かう。


 その途中で、あかりは、くい、と樹の裾を少しだけ引いた。


「──?」


「今度、ね。一緒にプラネタリウム行こうか」


 口元を耳に寄せて囁く。


 瞬間、脳裏に少女と良く似た『誰か』が見えた。同じようにして、そう語りかけてくれたひとが過去に居た。


 樹がその誰かを掴む前に、喫茶店のドアが開く。ありがとうございました、と声がした。思いがけない提案に、樹は遅れて口を開こうとした。喫茶店のドアの向こう側から、見知った顔触れが片手をあげた。相手側が遅いぞ、と冗談めかして口を動かしているのが見えた。あかりは、樹は、先の言葉を返し合うこともなく彼等と合流する。続きの台詞を続けるには、ギャラリーが増えすぎていた。


「良し、じゃあ次に行くか」


 にこやかに笑う新城。


 樹は、あかりの言葉に返事をしそびれた事をようやく自覚した。








【2 優しい手に気付いていた】



 映画を見よう、と新城は言った。


 それに真っ先に同調したのは、あかりだった。


「ちょうど良い映画上映しているみたいだし、私も見たいのあるんだ」


「そそ。結構名の通ったタイトルが二、三個すぐに見付かるんだよな」


 そうね、とあかりは相槌を打った。


「『夜空の翼』とか見てみたいかも」


「それも悪くなさそうだけれど、俺は『Crystalline Clock』が気になる」


 彼等に同調するように、他のメンバからも映画のタイトルが出る。『Love is a bird』『ウェルギリウスの創事詩』『夜色奇譚』──映画のタイトルが五つ出たところで、樹は覚えることを止めた。


「結構みんな見たいのがバラバラだね」


 樹にとって名前も覚えていない初顔の少女が言った。


 確かに、と新城は微苦笑を零す。


「ここまでバラけるとは想わなかった」


「でも、せっかくだから見たい映画を見た方が良いんじゃないかな? 上映までの時間も30分と変わらないし、終わる時間も大して変わらないよ」


 ちらり、と上映ボードを見ると、確かに時間帯は大きくズレてはいなかった。


「それだと、せっかく一緒に来た意味がなくないか?」


「見たい映画をそれぞれ見て、後でそれを種にカフェって言うのも悪くないと思うよ」


「二塚……本当にカフェ好きだよな」


「当然」あかりが胸を張った。「素敵なところよ」


「正直、俺にはあんまり良さが分からないんだけれどな」


「あら、別に分かって欲しいなんて言わないから。カフェはわたしにとって、大事で、落ち着ける場所。そういうところなの」


 なるほど、と新城は肩を竦めた。


 好き、嫌いなど個人の自由だということなのだろう。誰かの迷惑になる訳でもなし、そう主張する好きは悪いことではない。


「『とーま』もそれで良いか?」


 不意に話を振られて、樹はあわてて頷いた。


「甘いものは好きだから大丈夫」


「……お前もカフェ好きだったのか……」


 げんなりとした声を出した新城とは対照的に、あかりは明るく樹の手を取った。


「じゃあ、また後でカフェで甘いものを食べようか」


「ん。今度はアップルパイを頼んでみる」


 ちょっと前に居座っていた喫茶店にて、ショートケーキを頼むか、アップルパイを頼むか悩んだことは忘れていない。


「じゃあ、私はティラミスを頼もうかな。映画の後が楽しみだね」


「なんで意気投合しているんだよ」


 新城は空を仰ぐ。


「ってーか、『とーま』、お前人見知りだろ。なんで、そんなに仲良くなっているんだ」


「さっきのカフェで自己紹介したんだ」


「自己紹介して仲良くなれるんだったら、何故もっとクラスメートと打ち解けられない……」


 確かに、と廻りから同調の声が小さくあがった。対応の堅さは他の級友たちも、まだまだ認めるところらしい。それを種にあかりが小さく笑い、他の話の輪に入っていく。


 握られていた掌の暖かさをどことなく感じながら、樹はふいとむくれる。


「話しやすかったんだよ」一緒に来たメンバと笑い合うあかりを一瞥し、樹は声を潜めた。いまなら話を聞かれない、と勘が告げた。「それに、合わせてくれたこともあるし」


「合わせてくれた?」


 樹は少しだけ眉尻を下げ、首を傾けた。


「気を遣ってくれたんだと思う。満足に対応することが出来ない僕に対して、不満ひとつ見せることなく、さりげなく合いの手を入れてくれたんだ」


 新しく生まれて七年。時間は決して短くないが、人付き合いの深さや対応のイロハを知るには、少なすぎた。不得手な様は、誰が見ても分かるほどであり、普通ならば呆れて切り捨てたって可笑しくない。その歳になるまで、なにを学んできたの、と蔑まされても、あるいは仕方がないのかもしれない。


 そんな機微が分かってしまうほどには、樹は聡かった。


 新城。


 あかり。


 この二人は、不器用では済まされない樹を拙いながらも庇護し、優しく手を伸ばしてくれている。


 樹にとって、僥倖とも呼べることだった。


「優しいひとだね」


「二塚が世話好きなのは否定出来ないけれどな」


「新城だって、同じだよ」


「は?」


 素っ頓狂な声があがる。


 自覚がないのか、あるいはそれとも年頃の少年らしく惚けているのか。樹には、どちらとも判断が付かなかった。


「手を差し伸べてくれたのは、新城だって同じ。少しだけ手の差し伸べ方が違うだけで、同じことをしてくれているんだってことは分かるよ」


 だから、と樹は続ける。


「新城には感謝してる。こんな僕を気遣ってくれて嬉しい」


「なっ、な、な……」


 新城の顔はみるみる内に変化していく。耳たぶまで朱に染まったことを確認して、樹は満足げに頷いた。


 少しだけ相手の事を慮って、一歩だけ相手に距離を詰める。


 声をさらに落とした。


「ありがとう。こんなことしか言えないけれど、新城が居てくれて良かった」


 ぐあ、という呻きは向かい合った少年のもの。掌で顔を覆い、表情は決して覘かせてくれなかった。


 ──手では覆い隠せない、髪の間から見えている耳を見れば、ある程度は分かってしまうのだけれど。


「『とーま』……」


「なに?」


「やっぱり、お前は世間知らずだよ」


「それは認めるよ」


「俺が言いたいのは、そういう意味じゃなくてな……」新城はわざとらしくため息を吐き、視線は決して合わせようとしないまま、樹の頭を軽く叩く。「もっと、普通らしくなれってこと。俺はお前の彼女じゃない」


 まだ少しだけ頬が赤い。


「努力はするよ」


「……『彼女』の方じゃないだろうな……」


「同性を彼女にするひとは居ないと思うけど」


 そうだな、と新城は投げ遣りに相槌を打った。


 このときの樹は知らなかったが、同性を恋人にしたいという願望を持つひとは、もちろん存在する。新城は、そのことを世間並みには知っていた。


「まあ、いい。この話題はもう止めよう。やり続けると寒気がする」


「そう?」


「そーだ。で、『とーま』は何の映画を見るんだ?」


 問われて、樹は壁面に掲載された映画のポスターを幾つか見遣る。


 男性二人と女性一人が屋根の上で星を眺める『夜空の翼』。中央に水晶時計があり、左下から中央に向けて寂しげな顔をした少年が手を伸ばしている『CrystallineClock』。中年男性刑事と年若い眼鏡を掛けた青年が、背中合わせで立っている『夜色奇譚』。そのさらに向こうには先程タイトルがあがった映画のポスターが続けて並んでいる。


 タイトルが出た時もぴんとは来なかったが、それは一枚絵のポスターであっても同様であったらしい。


 どれが面白いのか分からない、というのが樹の率直な感想だった。


「率直に選んでみてダメならダメ、面白かったら当たりだと思うぞ」


「新城はどれを見る?」


「見るものは決めているけれど『とーま』が決めてからしか、言わない」


「意地悪だね」


「どっかの誰かさんによれば、俺は『優しいひと』だそうだ」


 言わなければ良かった、と樹は顔を背ける。


 ──もちろん、言葉だけだ。どこかで伝えなければ、と密かに思っていたことでもある。樹の事をこうも気に掛けなければ、新城はもっと学園生活を謳歌できていたはずだったから。


「拗ねてんなよ。で、『とーま』、どれを見るんだ」


 促されて、再度、ポスターを見る。


 何度かポスターを見比べて、屋根の上で星を眺めるものが一番心を惹いた。『今度、ね。一緒にプラネタリウム行こうか』。返事をしそびれた、あかりの言葉を思い出す。星。綺麗で、手を伸ばしても、夜空の向こうに輝くだけのそれ。


 なによりも、タイトルは7年前に見た夜空を強く揺らめかせる。


「『夜空の翼』、かな」


「へぇ……なんでそれを選んだんだ?」


「ポスターに星が映っているから」


「星?──まあ、確かに星を見ている感じだけれど。『とーま』は星が好きなのか?」


「そうだね。落ち着く感じがして、好きだよ」


 なるほどな、と新城は空を見上げる。映画館の中では、照明のある天井しか見えないはずだが、もっと別のなにかを見ているようだった。


「新城は、何を見るの?」


「んー、俺は『Crystalline Clock』かな。公開されたばっかりだし」


「それに著者のファンなんでしょ?」唐突に、あかりの声が割り込んだ。「確か、『段ボール数箱分の煉瓦』を書いたひとの初期作品だもんね」


「どっちにしろ売れてないけれどな」


「マイナーだもんね」


 あかりは軽く笑った。


「映画化されたのに、本の方は売れないなんて珍しい著者だよね。普通だったら、もっと売れてランキングに入っても良いのに」


「増刷してるって話は聞かないな。もっとも映画化って言っても、全国で数ヶ所でしか上映されていない訳だし」


「著者本人も手に取ってくれるひとがいれば良いってスタンスだから、尚更か。わたしはそういうの好きだけれど。──で、樹くんは何を見るか決まった?」


 瞬間、樹の顔に動揺が走った。そして、樹にもあかりにも悟られない程度に新城の眉がぴくりと動く。樹はどことなく、あかりから視線を外しながら言った。


「ぇ、──ええと、『夜空の翼』」


「同じ映画だね」


 樹の戸惑いに気付いていないはずはないが、にぱっと少女は笑う。


「次の上映まで、あんまり時間がないから、入場券を買いに行こう。あ、そだ。ついでにポップコーンとかも買おうよ。ちょっとしたお菓子になるよ」


 少女は、くい、と裾を引っ張って、少年と動き出した




*




 ──樹くん、ね……


 あかりに連れられてチケット売り場に並んだ『とーま』を見遣りつつ、新城は静かに考える。


 予想外の仲の良さに、嫉妬している訳ではない。


 素直に『とーま』が自分以外の誰かに慣れ、ああして一緒に行動出来ることは喜ぶべきことだった。愚直で融通の利かない最初の頃を想えば、いまはだいぶマシになったとはいえ、まだまだ堅い仕草がある。少しずつでも柔らかくなれば、と考えさえしていた。


 だが。


 あかりに先導される『とーま』を、遠くで眺める。


『とーま』の在り方はマシになったとはいえ、たったそれだけで難問として塞がっていた付き合い方が、劇的に変わる事はあり得ない。


 ──二塚。


 あかりが手を差し伸べている。


 元々世話焼きの傾向のある娘だった。特に同世代の、少し不器用なカタチの誰かには尚更気を配る性質があった。『とーま』に接するそれも、一見すればあかりのお節介が高じた結果だとも取れた。


 あかりはチケット売り場で店員に声を掛ける。


 隣に『とーま』が控えていることから、どうやら一緒にチケットを買うらしい事が分かる。


 ──世話焼き……いいや。


 新城は気付く。


 少しでも聡い者が見れば、誰だって気付ける。


 あかりのそれが、同世代の不器用な誰かに対する世話焼き程度ではないことに。もっと深く、特別な何かに突き動かされて、手を取っているということに。


 少しばかり不器用な弟を見遣る、弟想いの姉のように。


 幼い子供の仕草に微笑み、少し離れて見守る母のように。


 相手のすべてを受け入れる覚悟を持った、ひとりの異性、唯一の恋人のように。


 友達ではない、それ以上の感情を持っている。


 それは間違いがない。


 それが恋か、愛か、それとも、もっと別の名前があるものなのか、新城には判断が付かなかった。


「新城くん?」


 声とともに、頬を指先でつつかれた。


 今回一緒に遊びに来たメンバーのひとりだった。


 新城は内心の考えを悟られないように、少しだけおどけた表情を浮かべた。


「なに?」


「んー、あのふたりが気になるのかなって」


 目の前の少女が、今度はポップコーン売り場に仲良く並ぶあかりと『とーま』を指す。今度もまた、あかりが店員に声を掛け、欲しいものを選んでいるようだった。


「ま、仲が良いなぐらいはね」


「嫉妬とかじゃないんだ?」


「二塚は友達として好きだけれど、別に恋人にしたいとかじゃないしな」


「あー、そっちじゃなくて、藤間くんの方」


「は?」素っ頓狂な声が出る。ついでに頬が少しだけひくついた。「……『とーま』に?」


「教室に居る時だって、結構気に掛けているでしょう? あかりに取られたみたいで、嫉妬とかしないのかなぁ、なんて」


「勘弁してくれ」


 本気で、新城は掌で顔を覆った。


 このままでは、あらぬ誤解を招く日も近い。『とーま』との付き合い方を少しばかり変える必要があるかもしれない、と新城は内心思う。あるいは二塚に全部放り投げるべきか。それも悪くはない。


 まあまあ、と少女は肩を叩く。


「最近は、そういうのにもおおらかな傾向があるらしいよ?」


「違うって言ってるだろっ」


「あははは」


 少女は笑って、新城の横を抜ける。


 そして、不意に真面目な顔を作った。


「でも、ね。なんか不思議な感じ」


「不思議な感じ?」


 ペースを乱されたまま新城は鸚鵡返しに言った。


「あかりって、あんな性質たちじゃないと想うんだよね。そりゃ、まだ出逢って、仲良くなって半年経ってないとは言え、ね。なんか、あんな風に入れ込んでいるってのが、しっくり来なくて」


 新城は、並んで微笑み合うふたりを見遣る。


 口数は当然と言うべきか、あかりの方がずっと多かった。


『とーま』の何が、あかりの琴線に触れたのだろうか。


「さて、ね……二塚さんと出逢って半年なのは、俺も変わらないし、こればっかりは分からないよ」


 言葉を濁す。


 あとでメールでも送ってみようか、と浮かぶ。確かめたいというのがあった。中身は一文、『とーまが気に入ったの?』だけで良い。


 あかりは、どう返信してくれるだろうか。






【3 喪われた影を知りたい】



 初めて歩く場所は新鮮だった。


 遊歩道の整備された運動公園。申請すれば大概のスポーツは出来るし、貸し出し自転車でサイクリングを楽しむ事も出来る。緑のなかに道として拡がる白いタイルは、余裕を持って敷き詰められていた。


 自分たちが進んでいく方向から、早足で駆け、すれ違っていくひとも少なくなかった。


 今もまたひとり、すれ違ったことを横目で見つつ、樹は手に持ったカップアイスを一口分掬い口の中に放り込む。


 残暑というには、いささか穏やかな気候ではあったが、口溶けの良いそれは甘く程よい冷たさが美味しく感じられた。


「ね、美味しいでしょ?」


 あかりが言った。


 隣で歩く様子は、十年も前から不変であるかのように、馴染んでいた。


「おすすめっていうのが、分かった気がするよ」


「ちょっと遠いのが難点だけれど、ね」


「ここには、よく?」


「最近は二、三週間に何度かの頻度かな。あの、アイス屋さんを知った時は、数日に一回は行ってたけれど」


「美味しさに惹かれたってこと?」


「それもあるけれど」あかりはカップアイスを一口含む。冷たさに目を細めた後、ひとり頷く。「やっぱり、ここは美味しいね。値段がそう高い訳でもないのに、この美味しさはすごいことなんだと想うよ」


「新城たちも、一緒に来られたら良かったかもね」


 並んで歩くのは、樹とあかりのふたりだけであった。


 それぞれが好きな映画を見た後、再び全員が集まった時間は、次にどこかへ向かうには中途半端だった。次の遊び場所に向かうには時間も掛かる上、楽しめる時間も制限が辛かった。なによりも、それなりの時間になってくると補導されかねないこともある。最近は特に厳しくなりつつあった。


 冷やかしにお店の前でも廻るか。


 僅かに早い時間だが解散するか。


 決めかね、結局、映画館の前で数十分を過ごした後、解散となったのだ。


 あら、と悪戯っぽくあかりが声をあげる。


「わたしとふたりだけじゃ楽しくない?」


 ううん、と樹は首を振る。


「そんなことはないよ。それとは別の問題として、新城たちが居ればもっと楽しかったのかなって」


 にこりと微笑み掛ける。


 あかりは肩を竦めた。


 てくてく、と公園の中を歩いていく。


「二塚さんは、ここが帰り道?」


「違うよ。まったく逆方向だし、この駅で降りることは無いかな。この近くに来ても、駅から駅への通過点」


「それでも此処を知っているんだ。どうして、此処のことを知ったの?」


「一年前ぐらいかな。ちょっと落ち込むことがあって、色々廻ってたんだ」


 ちらり、とあかりを見遣ると穏やかな表情の上に少しだけ寂しそうな色があった。


 郷愁。生きていれば誰もが、どこかで同じ顔を作る。塗り固められた寂しさを取り繕った上で、稀に色を出すそれ。普段快闊であればあるだけ、影を見せないだけ、この色はより強く印象に残る。


 樹も、何度も見たことがあった。


 自分を拾ってくれたコミュニティで。


 自分を育ててくれたひとで。


 ──この前出逢った少女で。


 カタチは違っても、方向性は違っても、そういう色は何かを喪ったときにこそ良く出るのだと樹は識っている。


 そして、それを取り除く術を樹は識らない。


 遊歩道をゆっくりと歩く。


 なんて言えば良いのか、正直なところ分からなかった。だから、樹は踏み込んだ。


「その落ち込みは、無くなった?」


「痛いところ突くなぁ……」あかりは、困ったように眉根を寄せる。「ちょっとは柔らかくなったけれど、無くなってはいないかな」


「治りかけってことだよね」


「そう、だね。もしかしたら、そうなるかも」


 不意にあかりは数歩先に出る。


 セミロングの髪が、風と身体の動きによって揺れた。陽が少女の身体を照らし、眩しさに目を細めた。影が落ちる。逆光が少女の表情を隠した。


「一時期は本当に後悔したよ。わたし、どうして、あの子を止められなかったんだろうって」


 あかりは、とん、とん、と逆光のなかでリズムを付けながら歩く。石畳の模様にあわせて飛んでいた。


「あの子がしたことは、たぶん正しかったと思う。そうしてくれなきゃ、みんな泣くだけじゃ済まなかったから」


「それだけを聞くと、後悔するべきところなんて無いように感じるな」


 うん、とことさら優しげに頷く。


「本当にね。そこだけなら、後悔なんて要らないんだ。でも、そこで全部終わりじゃなかったの。わたしはそれを覚えているし、上手くは言えないんだけれど、たぶん、あの子にとっても幸せなものじゃなかったんだと思う」


 立ち止まり、くるり、と少女は廻る。


 釣られて樹も立ち止まった。


 夕焼けの影が、樹の横を通り過ぎていた。


 じぃっと見詰められる。


 樹とあかりの距離は、わずか五歩。その距離が、とてつもなく遠いように感じられた。


 ────これと同じ光景を、ぼくは知っている。


 確信に近い想いを樹は抱いた。


 ねえ、とあかりの口が開き掛ける。


 刹那。


 軽快な音が鳴り響く。


 発生源は、あかりの持つ小さな手提げ鞄から。ふたりの視線が鞄に集中し、十数秒経っても、それは音を止めなかった。携帯電話。コールの長さから、メールではなく、電話である。掛けてきている相手は、そこそこ根を詰めているらしい。見ている間に、時期一分を過ぎようかとしていた。


 軽いため息が聞こえる。


 あかりは、ようやく鞄の中に手を伸ばした。


 樹は、あかりとの距離を少しだけ詰める。


 眉根を寄せた、かわいくもない不満げな表情が、この上なくはっきりと見えた。


「もしもし」


 不機嫌さを隠すことなく言う。


「なに──え、分かっているよ。……うん、うん、だから分かっているってば。ちゃんと、その時間までには帰るから。ってか、いま友達と居るから、もう切るね。……もう、何度も言わなくて良いってば! 切るよ」


 ぴ、と乱雑に携帯を操作する。


 その様子と会話を間近で見て、樹は笑った。


「家族?」


「うん。いつまでも子供扱い、もう色々自分で決められる歳なのにね」


 不満げに言って、持っていた携帯を再び鞄へと仕舞った。


「それでも心配なんだよ。いつまで経っても、家族ってそういうものだって聞いたよ」


「言われてみる方からしたら、心配性ってところなんだけれどね」あかりは肩を竦めて、はた、と思い返る。


 あかりの頬が少しだけひくついたのを樹は見逃さなかった。


「やっぱり家族になると随分と違うね」


 何が、とは含めなかったものの、あかりにはそれだけで十分だったらしい。


「うー。あのね、わたしだって女の子なんだから。男の子の前では、ちょっとぐらい化けるものだよ?」


「新鮮だった」


「わたしは、見られてあんまり嬉しくないな。これだったら、スカートの中身を見られる方が、まだマシかも……」


 視線を下げると、ミニスカートの裾をしっかりと押さえていた。夕日に照らされていても、伸びる生足はしなやかで健康的だった。


「わざわざ見なくていいのっ」


「自分で言ったのに」


「たとえ話っ。本気にしないで」


「はぁい」わざとらしく返事をしてから、樹は真顔に戻る。「もう時間なんだよね?」


 携帯電話から聞こえた家族の声。


 門限を伝えられた直後から、あかりの表情が険しくなったことは明確だった。


「聞いてたんだね」


「目の前に居たし。それに僕、結構耳は良いんだ」


「せめて聞こえない振りをするものじゃないの?」


「僕は素直で真面目だから、そういうのは難しそうだな」


 本心とは別の台詞を樹は言った。


 ──楽しい時間だからこそ、言い出さなければ過ぎるままになりそうなんだ。ふたりで歩く、ただそれだけのはずが心地良い時間になっていた。隠されたままにしていれば、樹は甘えただろう。


 少女にとって、それはよろしくない。


「今日は、ここでお開きだね」


「そう、だね」


 名残惜しそうに少女はぽつんと言った。


 ──今度、ね。一緒にプラネタリウム行こうか。そう言ってくれた少女の台詞が蘇り、答えられなかった自分が浮かんだ。


「今度、ちゃんとプラネタリウムに行こう、ね」


「え──うん、そうだね」あかりは微笑む。「どうしたの? 急に」


「昼間はちゃんと答えられなかったから、いまの内に言っておこうと思って」


「そっか」


 手を差し出される。小指を立てて、真っ正面に持ってこられた。


「じゃあ、約束」


「……指切り?」


「そ」


 少しだけ逡巡し、数秒の後、右手の小指を絡ませる。顔に血が昇る。なんとなく、気恥ずかしげだった。


「忘れないでね?」


 幼い子がするような声はなかったが、繋がれた手が規則的に揺れる。指切りげんまん、嘘付いたら……。お決まりのフレーズが頭を過ぎた段階で、どちらともなく手は離れた。


 ──いまが夕方で少しだけ助かった。


 いま、きっと頬は紅くなっているだろう。目の前に居るひとにはバレてしまっても、知らない誰かには気付かれない。それが、なんとなく助かった気分でいる。


「またね、だね」


 今日の終わりの台詞は、樹が引いた。




***




 あかりを見送り、ひとりになる。


 駅まで一緒にという誘いを固辞し、もうしばらく運動公園に留まることを選んでいた。黄昏時だからこそ、ひとの数は先程よりもまばらになり始めていた。


 このまま時間が過ぎれば。


 夜になれば。


 皆無という訳にはいかないかもしれないが、極端にひとの数は減るだろう。そこまで待つつもりはなかったが、見られない方が好ましいのは確かだった。


 二塚あかり。


 今日初めて出逢った少女。


 それで片付けるには、距離があまりにも近すぎた。何よりも、稀に脳裏を遮るようにして誰かの姿が掠めるのだ。


 奇妙な態度。


 身に覚えのないデジャ・ヴュ。


 分からないことに内心気持ち悪さを抱きつつ、樹は半分確信も得ていた。


 逢ったことがあるはずだ、と。


 宵闇が忍び寄り始めた運動公園を、さらに歩く。遊歩道から逸れて、芝生の上を歩いていく。ところどころに木々が植えられてあり、外灯から距離を置けば、足下を詳細に眺めることは出来なくなった。


 このまま、端の方へ歩き続けていけば、簡単には見付からないかもしれない。


 廻りを見渡せば、遊歩道を歩く他人の姿以外は曖昧になっていた。だいぶ距離を置いたところで、そこそこ大きめの木に背中を預け、座り込む。


 目を瞑って、頬を撫でる風の手を感じた。


 背中にあたる、少しだけ無骨な幹を頼もしく想った。


 熱気が冷めていき、昼間の過ごし難さから、過ごしやすさへ転じていく。


 あかりと指切りをした手を、もう片方の手で包み込む。目を開ける。どうして、と呟いた。


「前に逢ったことがあるのなら、それらしい素振りをしてくれるはず」


 しかし、あかりの言葉は初対面に対応するパターンだった。その接し方は、どことなく初対面以上になっていたが、挨拶や自己紹介は見知ったひとにするものではない。


 思い違いだろうか。


 それにしては、齟齬があった。


 ──いいや。


 空転しそうになる思考に、樹は苦笑することで答えとした。


 ──どうせすぐに分かる。


 両の掌を見た。何もない、見慣れた掌。自分ひとりでは暖かさも冷たさも、判断できない手だった。


 そこに、ひとつの光の球が浮かぶ光景をイメージする。占い師が使うような、丸くて大きな水晶に近いもの。ただし色はガラスのような水色ではなく、遊歩道に設置された外灯のような人工的な灯火だ。内側には、ゆらり、ゆらり、とまるで映画のように画面が映せることを考える。


 目を細めた。


 頭の奥に疼痛と一枚の写真が浮かび上がる。奥歯を噛んだ。ぼやけていた写真が、段々とはっきり描かれていく。写真に写っているのは、ひとり。スカートを履いている。綺麗な右手がスカートの裾をしっかりと押さえていた。胸はそこまでない。顔は少しだけふてくされたような──


「えっ?」


 身体がぐらり、と揺れた。


 二塚あかり。写真に描かれたのは、先程まで一緒に居た少女の姿だった。掌の上に形成され始めていた灯火が、揺れて再び朧気になっていく。頭の奥に描かれた写真は、あかりの顔が映っている部分から白い罅が入っていた。上から下へ。写真の中心から、左へ、右へ。綺麗だった幻像は、数瞬の内に亀裂が入り、万華鏡のように分かれていった。


 魔術行使の代償。


「待っ、て。まだっ!!」


 前の方へと崩れ落ちそうになる身体を、両手で支えようとして──だが地面へと転がる。写真はぴり、という音を立てた。口を開く。声を出したかった。


 お願い。お願い。お願い──……誰か!


 地面の土と小石を必死に握り込んだ。


 心のどこかで、もう無駄だと識っていたにも関わらず、願わずにはいられなかった。魔術を行使しようとし、代償が選ばれた時点で、樹が『少女』に対して忘れることは決定事項だ。


 魔術は魔術師を幸せにしない。


 魔術行使には、必ず、魔術師としての記憶が差し出される。まずは魔術師になる為に捧げられた、自分の覚えていない『過去』を。そこに適当なものがなければ、魔術師として生きてきた中で、大事な記憶(想い)からひとつずつ奪っていく。


 握り込んだ小石が、痛みを作り出す。


 身体の痛み。頭の奥の疼痛は、それでも掻き消せなかった。


「いやだっ」


 あの子の寂しそうな顔が浮かぶ。『今度、ね。一緒にプラネタリウム行こうか』。指切りした約束が浮かぶ。先程まで隣に居て、ほんわかとした暖かみを感じていられたのに。


 割れるような痛みに、樹は涙を浮かべた。


 ──魔術なんて、どうして使おうと思ったのか。


 後悔が波のように押し寄せて。


 目尻から涙が溢れた。


「ぁ、──……」暗い暗い闇の中で、ガラスが砕けるようなイメージだけが鮮やかに見えた。写真が砕け、破片となり小さな灯火となった。


 同じく、声にならない声をあげ、身体を大きく反らし、樹は啼いた。


 ざわり、と木々の葉々が揺れた。






【4 涙、流れても微笑みかける】



 もう十分に聞き慣れたチャイムが鳴る。


 授業の終わりを告げる鐘の音だった。今日だけで十数度耳にしたそれは、ようやく放課後の時間を知らせてくれた。


 教室の中が、にわかに騒がしくなる。


 椅子に縛られていた同年代の生徒たちは、思い思いに立ち上がり、世間話を始めたり、鞄を背負い並んで廊下へと連れ立ったりしている。授業で押さえつけられていたと感じるからだろうか、そこには活動的な雰囲気があった。


 樹は両手を上にあげ、ぐい、と伸びる。


 軋むような張りがあるような奇妙な感覚は、どこか気持ち良さがあった。


「『とーま』」


 すぐ傍の席に座る、新城が寄ってくる。


「これからゲーセン行くんだけど、どうだ?」


「ありがと。だけれど、今日は委員会だよ」


「あれ、お前、なにか特別なのに入ってたっけ」


「図書委員だからね。当番制で、放課後は図書室の受付番だよ」


「それは初耳」おどけたように新城は笑った。「せっかくの放課後なのに、ご苦労なことだな」


「別に毎日という訳でもないし。これはこれで、楽しいよ」


 鞄を持ち、樹は椅子から立ち上がった。


 言葉そのものに嘘偽りはない──と思う。まだまだ就任してから日が浅く、やることすべてが新鮮である。書架への戻し、貸出簿への記入、椅子に座りぼんやりと天井の染みを数える時間、どれもこれもが初めてのことだった。


『仕事』というほど、しっかりと責任とルールがある訳ではないが、真似事に近かった。こういうものか、とイメージを掴む分には問題なかった。


「もうすぐ時間だから、僕は行くね」


 言うと、新城は軽く手を挙げた。


「おう、また明日な」


 うん、と頷き、樹も軽く手を挙げた。


 鞄を肩に掛け、リノリウムの廊下へと出る。新城は、まだ教室に残っている仲良しメンバと世間話を始めたようだった。ゲーセンに行くと言った言葉も嘘ではないだろうが、そこに至るまで時間は掛かりそうだった。


 こつこつ、と硬質な音を立てながら樹は歩く。


 学校は三つの棟から構成される、そこそこ大きな場所だった。高校の三学年を含めて、合計700人に近い数が居るのだから、その程度の大きさは当然だろう。


 棟のひとつひとつに役割があるという訳でもなく、どの棟にも一般教室と特別教室、教員室があり、それらは無作為に場所が決められているかのようだった。何度か増改築を行った所為かもしれない。学校の歴史を振り返れば、最初は一棟だけだったものが肥大化したらしいからだ。


 目指す図書室は、一番遠い棟にあった。


 ここで時間が無ければ少なからず急ぐところだが、授業は時間通りに終わり、教室を出る頃合いも幾分早めだった。まっすぐ行けば、待ちの時間が出来る。


 だから、遠回りして行くことに決めた。


 迂回ルートを通り、普段人通りの少ない階段を選んでのぼる。増改築の影響だろう。どこに行くにも不便な、何故取り付けられたのか分からない階段が端っこの方に存在するのだ。あまり好まれないこともあって、どことなく好きだった。


 端の方まで歩ききり、階段をのぼる。


 ──そう言えば。


 ついこの間、ここで言い争っていた少女ふたりを思い浮かべる。口論がエスカレートし、ついには小競り合いまで達したひとたち。険悪そうで、肩を並べて笑い合う姿がどうしても描けなかった。


 眉を顰める。


 ──大丈夫かな。


 関わりを持ったのは、もう三週間前になる。この学校で唯一、樹を『魔術師』だと知ったふたり。今頃、どうしているだろうか。


 考えつつ、中継ぎの踊り場に出て、くるりと反転する。階段はあと半分だった。昇りきり、左へ曲がり、棟から棟へと繋ぐ渡り廊下を進めば目的の図書館だ。なんとなく首を振り、そろそろ委員会のことを考える。


 やるべきこと、覚えることは沢山あった。


 図書館の扉の前に立ち、取っ手に手を掛ける。


 スライドさせると、扉はあっけなく開いた。


「あ、来たね」


 受付に座っていた、ひとりの女子生徒が顔をあげ、にこりと笑った。


 セミロングの髪の、どことなく快闊そうな子である。人懐こいのと、少しだけ懐かしい感覚があった。


「こんにちは」


 樹も合わせるように笑う。


「結構、早いんですね」


「そんなことないよ。あと15分もしたら、ここ一般開放されちゃうし」


「開始5分前に来てれば良いって、最初説明された時に言われましたよ」


「慣れたら、それでも良いかもしれないけれどね。わたしは、まだ準備に手間取るから、5分前という訳には行かないよ。樹くんは、5分前でも大丈夫?」


 悪戯っぽく言われて、樹は内心で驚いた。


 そんなことないです、と首を振りながら少女の名前を探し始めていた。相手は自分を知っている。同じ委員会で、自己紹介もしているはずだから、それは当然だった。


 だが────……


 樹は受付の方に歩み寄り、図書委員の鞄置き場に担いでいた鞄を下ろす。


「なんか堅い対応だよね。もうちょっと柔らかくても良いと思うな」


 少女が、樹を覗き込む。


 瞬間的に半歩下がり、ごめんなさい、と謝った。


「どうして謝るの?」


「あ、いえ……」視線が彷徨う。相手の顔が、相手の目を、しっかりと見詰めることが出来なかった。幾ら探しても名前が出てこない。心がほこるような笑顔を向けられても、その顔に見覚えがない。物覚えは良い方だったはずだ。それでも、少女に対する欠片が、なにひとつ手に出来ていなかった。名前を問うべきだろうか。明らかに失礼になる。だが、名前を呼ばずに一日を終えることが出来るだろうか。顔が俯く。


「樹くん?」


 少女が、少しだけ目を細める。笑顔がさっぱりと無くなった。


 ぐい、と手を掴まれた。


 少しだけ拳を握り込む。罪悪感のようなものを携えて、相手の口を見た。目は合わせる勇気がなかった。


 沈黙。


 続きの言葉を、少女はすぐに言わなかった。


 樹は何も言わず、この学校に入学してからを振り返っていた。


 時計の秒針が三回同じところを廻りきったところで、掴まれた手がさらに強く握り込まれた。


「わたしのこと、覚えているかな?」


 鋭角な発言は、樹の胸に深く突き刺さった。


 ──誤魔化せない。


 もとより嘘を吐くのが苦手なこともある。隠したとしても、少女の名前を求められたら答えられないことは明白だった。


「ごめんなさい」


 素直に頭を下げる。


 たじろぐような動きがあった。掴まれていた手が、少しだけ緩んだ。少女は、どのような顔をしているだろうか。恐る恐るといった体で、視線をあげると、そこには動揺と悲しみが詰まっていた。


 眉尻を下げ、苦しそうに何度か首を振る。


「じゃあ、もう一度自己紹介するね」声だけは、明るめに作ってあった。「わたしは二塚あかり。あなたと同じ図書委員会に所属する同級生。趣味はカフェ巡りとか、ケーキを食べたりするのが好き。運動ならバドミントンね。始めたばかりで上手ではないけれど、楽しんでる」


「藤間樹。えっと──……」


 言い淀む。さて、どう続けたら良いだろうか。


「難しく考えなくて良いよ。──好きな食べ物とか、お気に入りの場所とかでも良いから。でも、そうだね。もうすぐ図書室を利用するひとが来るから、それを聞くのは終わってからにしよう」


 そうだね、と樹は頷く。


「これから、よろしく」


「うん、よろしく」


 あかりが微笑んだ。


「次は、忘れないで、ね」


 ちくり、と胸が軋んだ。

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